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平将門と茨城県のゆかりの地(伝説・墓・寺・神社・戦場等)

平将門ゆかりの地おすすめスポット 55件

以下の平将門ゆかりの地は、取材登録が完了しているスポットです。

平将門ゆかりの地は、将門記や伝説に登場する縁者・平将門の乱の相手側関係者等も含まれています。


平将門とゆかりの地のメニュー案内

本ページは、平将門、平将門の乱の概要と茨城県内のゆかりの地を掲載しています。大枠のメニューは以下の通りです。なお、以下の記載においてゆかりの地や伝説があることは事実ですが、多くは伝承でです。


平将門とは

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常総市の豊田館跡の平将門の彫像とVRシーンリンク

平将門は、桓武天皇のひ孫の高望王(平高望)の三男である桓武平氏の平良将の子で、平安時代中期の関東の武将・豪族です。平安時代の貴族社会から武家社会に変わる契機となる朝廷に対する反乱を起こした歴史上の人物です。反乱の首謀者でありながら、東国の地域においては、現在でも地域の英雄として様々な伝説が残っており、将門を祀る神社や寺も多数残っています。その反乱は、「平将門の乱」ともいわれますが、同時期に瀬戸内海で起こった「藤原純友の乱」をあわせて「承平・天慶の乱」といいます。
平将門は、延喜3年(903年)に平良将と県犬養春枝(あがたいのいぬかいのはるえ)の娘との間に生まれたと云われ、死没は、天慶3年2月14日(940年3月25日)で「平将門の乱」における「北山の戦い」で流れ矢に当たり死んだと云われています。
当時の下総国、武蔵国、常陸国等の時代背景として、100年以上にわたる朝廷の蝦夷征伐継続やその後の都度の蝦夷の反乱、朝廷の農民や豪族に対す過重な税や役務負担、飢饉や自然災害の発生等がありました。
将門は、そうしたなか、下総国、武蔵国、常陸国等の農民や豪族の立場に立って行動したと思われます。将門は、朝敵となりましたが、その地域において英雄視され、千葉県・茨城県を中心として東京都、埼玉県、栃木県等日本各地に伝説やゆかりの地が多数残っています。

本サイトにおけるゆかりの地は、茨城県だけですが、未だ戦場等ゆかりの地が取材又は掲載されていない場所が多数あります。※写真は、常総市の豊田館跡の平将門の彫像の写真です。


平将門の生涯の概要

平将門の生涯の概要は、様々な資料に基いて作成していますが、説は様々です。

(1)出自
平将門は、桓武天皇の曾孫である高望王(たかもちおう)を祖とする桓武平氏の流れを汲んでいます。父は高望王の子で鎮守府将軍の平良将(たいらのよしまさ)で、本拠地は下総国・豊田郡を拠点にしたといわれます。
母(良将の妻)は、相馬郡の豪族の県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるえ)(現在の取手市寺田付近)の娘の説があります。903年に将門が誕生したと考えられています。
(2)都での修行
15歳の頃、父のように官位を得るため平安京に出て、右大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えていた時期があったとされます。滝口の衛士になったものの官位が低く、管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが叶わなかった。将門は、12年ほど在京し、出世の望みが無くなったこと、原因は不明であるが父が早世したこと等により、930年頃(27歳のころ)帰郷したようです。
(3)親族間の抗争
都から帰郷後、一族である伯父の平国香(たいらのくにか)、平良兼(たいらのよしかね)、平良正(たいらのよしまさ)らと所領や利権において親族間の争いが起こりました。
そこに、将門の舅(しゅうと)の常陸国新治郡の土豪の「平真樹」と、将門の伯父の国香、良兼、良正の3人の舅の「源護」(常陸大掾:ひたちだいじょう、官職)の長年の抗争が加わり、本格的な武力による戦いが開始されました。 結果、野本の戦い(935年)で、源護の3人の息子「扶・隆・繁」と叔父の国香は、戦死し、将門が勝利しました。
(4)「平将門の乱」の勃発
将門は、人望に厚く国司の圧政に悩む東国の豪族から、仲裁や助けを求められるようになりました。
その一人の興世王は、武蔵国の権守(ごんのかみ)という、正任の国守に代わって国務を代行する重要な地位にありました。しかし、興世王は、武蔵国司の源経基や現地の足立郡司である武蔵武芝との間で対立を抱えていました。 興世王からの仲裁依頼により、将門は国司との対立を解決しました。しからしながら、蔵守である百済貞連とも対立し、最終的には任地を離れて下総の平将門のもとに身を寄せることになります。
ついで、常陸国の藤原玄明は年貢の不払い問題などで常陸国司(国守)の藤原維幾(これちか)と対立し、国司から追われる身となります。窮地に陥った玄明は、勢力を拡大していた平将門のもとに身を寄せ、保護を求めました。常陸国司の藤原維幾は、将門に玄明の引き渡しを要求しましたが、将門はこれを拒否しました。
これがきっかけとなり、将門は、939年11月頃に常陸国府を襲撃し、国府を占領して印綬(国司の任命書)を奪い、維幾を京へ追い返してしまいます。
この一件が、将門が朝廷に反旗を翻す、いわゆる「平将門の乱」の直接的な発端となりました。
(5)「新皇」の称
常陸国府襲撃後、将門は破竹の勢いで坂東諸国の国府を次々と占領し、国司を追放していきます。
自らの勢力圏を確立すると、上野国府で939年12月頃に将門は「八幡大菩薩の託宣(たくせん)」を得たとして「新皇」を称し、自ら国司を任命するなど、律令制的な支配体制を模倣した独立政権を樹立しました。これは、当時の朝廷の権威を真っ向から否定するものでした。
(6)「平将門の乱」の終結と将門の終焉
940年1月に朝廷より将門追討の命令が下ります。同月に藤原秀郷、平貞盛らが下野国で将門追討の兵をあげます。
2月に下野の戦い・川口村の戦いで藤原秀郷と貞盛の軍との戦いに敗れました。
天慶3年2月14日(940年3月25日)、下総国猿島郡の北山の戦いで、流れ矢にあたって死んだといわれています。 940年3月25日に生涯を終えました。享年30代半ばとされています。

平将門の家系図と一族争いの関係図

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平将門の家系図と一族争いの関係チャート図

上記は、平将門の家系図と一族争い関係図です。この一族の争いから「平将門の乱」に発展していきます。一族の争いは、将門が京から戻り、親から相続する領地が国香の領地にされていることへの争いであったものが、双方の縁者でもある平真樹と源護の争いが加わり、武力の争いになったものです。


平将門の一族争いにおける人物説明

平将門の家系図、一族の争いの主な登場人物の説明は、以下の通りです。一部は伝承であり、そのゆかりの場所があることは事実ですが、伝承の内容や説明については矛盾があるもの、推定されるもの等があります。

  • (1)高望王(たかもちおう)将門の祖父

    平将門の曾祖父(桓武天皇の曾孫)です。 寛平元年(889年)に「平」姓を賜り臣籍降下し、桓武平氏の祖で上総介に任じられ、東国に下り、その子孫が坂東平氏として東国に土着しました。
  • (2)平国香(たいらのくにか):伯父

    平将門の伯父で高望王の長男です。 常陸大掾(ひたちだいじょう)や鎮守府将軍を務め、桓武平氏の中心的人物でした。 平将門との一族間の争い(将門の父である平良将の遺領問題や、女性問題などが絡む)により、承平5年(935年)に「野本の戦い」で将門に攻められ、常陸国石田館(現在の茨城県筑西市)で敗死しました。これが「平将門の乱」の直接的なきっかけの一つとされています。国香の子である平貞盛は、将門追討の中心人物となります。
  • (3)平良兼(たいらのよしかね)

    平将門の伯父で高望王の次男です。 上総介や鎮守府将軍を務め、兄の国香が将門に討たれた後、弟の良正や国香の子の貞盛らとともに、将門との戦いを繰り返しました。将門の岳父(妻の父)でもあり、娘が将門のもとへ走ったことが抗争激化の一因とも言われます。天慶2年(939年)に病死しました
  • (4)平良将(たいらのよしまさ):将門の父

    平将門の父で、高望王の三男とされていますが諸説あります。 無くなるまで鎮守府将軍の官職を持っていました。 「良持」(よしもち)と同一人物とする説と、別人とする説があります。
  • (5)平良正(たいらのよしなり):将門の叔父

    平将門の伯父です。 常陸国水守(現在の茨城県つくば市水守)を本拠としました。 平将門との争いにおいては、将門と対立する源護(みなもとのまもる)の一族に加勢し、将門との戦いが激化する要因を作りました。良兼や貞盛とともに将門と戦いを繰り広げました。
  • (6)平良文(たいらのよしふみ):将門の叔父

    平将門の叔父です。 通称は「村岡五郎」といわれ武勇に優れた人物として知られます。 「源平闘諍録」などの後世の史料では、将門と伯父たちの争いにおいて将門に味方したと伝えられています。しかし、史実としての関与は不明瞭な点も多いようです。 坂東八平氏の祖とされ、後世の武士団(千葉氏、上総氏など)の祖先とされる人物です。
  • (7)平貞盛(たいらの さだもり):将門の従兄

    平貞盛は、将門の伯父である国香の長男で、将門の従兄にあたります。「野本の戦い」があった承平5年(935年)には、都で左馬允(さまのじょう)として、右大臣藤原忠平に仕えていました。
    将門が父の国香を討った事情を知り、当初、和解を模索する姿勢を見せましたが、父の仇を討つという強い思いから最終的に藤原秀郷と協力し、「北山の戦い」で、将門を討ち取って平将門の乱が終結しました。この功により、貞盛は朝廷から従五位上、後に従四位下へと昇進し、鎮守府将軍や陸奥守などの要職を歴任しました。貞盛の活躍は京都での平氏の地位確立に大きく貢献し、後の伊勢平氏、さらには平清盛の祖となります。なお、「正門記」は作者不詳の軍記物語ですが、「平将門 その真実」(著者:塩野博)において、秀郷の書いたあらすじ文章を京都の貴族が書き換えたものとする説が記載されています。貞盛は、京では「平将門の乱」を終結した英雄ですが、地元に貞盛を祀る伝説の場所がないことは興味深い話です。
  • (8)平真樹(たいらの まき):舅・妻の父

    平真樹は常陸国新治郡の土豪(荘園領主:大國玉神社の領主・宰領)で、平氏の姓を冠していますが、高望王流の桓武平氏とは異なる系統とされています。隣接する源護と所領を巡って度々争っていました。 この争いの調停を将門に依頼したことで、将門が源護と衝突するきっかけを作りました。「将門記」の記述などから、平真樹は将門の初期の行動において「強力な同盟者」として将門に協力していたと考えられています。君の御前は、平真樹の娘です。
  • (9)源護(みなもとの まもる):伯父の舅

    源護は常陸国の有力な在地豪族で、常陸大掾(ひたちだいじょう)という官職にあり、現在の筑西市と桜川市のあたりの赤浜地域を拠点としていました。平氏の一門と積極的に婚姻関係を結び、自身の勢力拡大を図っていました。実際に、自分の娘三人を平国香、平良兼、平良正など、将門の伯父や叔父にあたる人物に嫁がせています。将門が、平真樹のところに向かう途中、源護の息子三人「扶・隆・繁」に待ち伏せされ襲撃にあい、風向き功を奏して撃破しています。これを「野本の戦い」といいます。
  • (10)平良子(たいらの よしこ):将門の妻・従妹

    平良子は、将門の叔父である平良兼の娘で従妹の間柄です。 「将門記」には、良兼と将門が「舅甥の仲」であったと記されており、将門が良兼の娘を妻としていたと解釈されています。この婚姻は円満なものではなく、将門が良兼の反対を押し切って娘を奪い取ったという記述があり、別途、「坂東の風雲児 平将門」には、筑波山の歌垣(かがい)であって良兼の娘出ることを知り、京に修行に出る前に契りを交わし、戻ってきたときに反対され駆け落ちしたことが記載されています。 これが将門と良兼の対立の一因になったと考えられていますが、将門が反乱を起こす中で、良子の去就については明確な記述がないようです。
  • (11)君の御前(きみのごぜん):将門の妻

    平良子は、将門の叔父である平良兼(たいらの よしかね)の娘で従妹の間柄です。 「将門記」には、良兼と将門が「舅甥の仲」であったと記されており、将門が良兼の娘を妻としていたと解釈されています。この婚姻は円満なものではなく、将門が良兼の反対を押し切って娘を奪い取ったという記述があり、別途、「坂東の風雲児 平将門」には、筑波山の歌垣(かがい)であって良兼の娘出ることを知り、京に修行に出る前に契りを交わし、戻ってきたときに反対され駆け落ちしたことが記載されています。 これが将門と良兼の対立の一因になったと考えられていますが、将門が反乱を起こす中で、良子の去就については明確な記述がないようです。
  • (12)桔梗の前(ききょうのまえ):将門の愛妾(あいしょう)

    君の御前は、平真樹の娘であるという伝承が茨城県桜川市などに残っています。君の御前と将門の出会いについて筑波山の歌垣(かがい)の件が記載さえている伝承もあります。 また、この伝承では、将門記に記される「堀越渡しの合戦」で討ち取られた妻が、実はこの君の御前であったとされています。彼女を弔うために「后神社(きさきじんじゃ)」が建立されたという話も、后神社の説明板に記載されています。
  • (13)藤原秀郷:平貞盛の母方の叔父

    藤原秀郷は「平将門の乱」を終結した重要人物で、平貞盛の母の兄弟で叔父になります。
    藤原北家魚名流の出身で、下野大掾(しもつけのだいじょう)藤原村雄の子とされます。武勇に秀でていたことから「俵藤太(たわらのとうた)」という別名でも知られています。
    平国香の妻は、正門記では源護の娘ですが、「尊卑分脈」では、藤原氏直系の藤原村雄の娘であり、藤原秀郷は藤原村雄の子であるため、藤原秀郷は貞盛の母方の叔父にあたります。平国香には、二人の妻がいたことになりますが、縁戚で協力して将門を討ったことになります。
    ※「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」は、南北朝時代に成立した諸氏の系図を集大成したもので正式名称は「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」です。

国府と国司・官職について

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(1)国府(こくふ)とは
古代から中世にかけての日本において、中央から派遣された国司(こくし)が、その国の政治・行政を執り行った役所、またはその所在地自体を指す言葉です。
行政、郡司、司法、交通・通信の機能もった場所です。
常陸国の場合には、今の石岡市に常陸国府がありました。
(2)国司・官職とは
国司とは、国府の役人のことをいいます。国司というと長官のイメージがありますが、一人ではありません。国府の長官は、「」です。
律令制において、国府には、「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」という四等官が配置されていました。 国の規模によってその構成に加減がありました。 常陸国は律令制で「大国」(たいこく)に分類されていたため、他の一般的な国よりも役職が細分化されていました。
常陸守(かみ)・常陸介(すけ)・常陸大掾(だいじょう)・常陸少掾(しょうじょう)・常陸大目(だいさかん): 常陸少目(しょうさかん)

平将門の乱について

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平将門の乱については、坂東市本「正門記」や茨城県史料(古代編)を参考に記載していますが、諸説あります。


平将門の乱

父良将の死後、将門は、伯父である平国香・良兼・良正と領地等の問題で対立し、同族内の私闘が続きました。935年(承平5年)に将門は、叔父の国香と源衛の3人の息子を攻め殺害したのが「平将門の乱」の始めとされています。
その後も同族間の対立は続きましたが、税の不払いの問題で地元豪族の藤原玄明と常陸国の国司が対立し、藤原玄明の支援の求めに応じ、結果、天慶2年(939)年11月に常陸国府を占領し、印鎰(国印と国衙正倉の鍵)を奪うという事件を起こしました。この時点で将門は明確に朝廷に反逆したと見なされました。
この事件の背景には、徴税等様々な理由で国司らともめ事を起こした地域豪族が、将門を頼ってくるようになったことで、将門がその調停のために諍いに介入するようになっていったという事情があります。
常陸国府を手中に収めた将門は、その後、支持する地域豪族とともに、武蔵国・下野国・上野国の国府も占領し、「新皇しんのう」と自称して独立国家の樹立を宣言しました。京の朝廷はこの事態を看過せず、天慶3(940)年正月に藤原忠文を征夷大将軍に任命し、追討軍を差し向けました。しかし、伯父の国香の子である平貞盛と下野国押領使であった藤原秀郷が追討軍の到着に先んじて将門の本拠地を急襲し、将門は「北山の戦い」(940年3月25日)で死亡しました。


平将門の歴史年表

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※出典:岩井市「坂東の風雲児 平将門」、坂東市立資料館「坂東市本 将門記 現代語訳」をもとに独自の調査をして補足しております。

年代 関連ページ
889年(寛平元年) 桓武天皇の子孫・高望王(将門の祖父)が東国に下る
903年(延喜3年) 1月 下総国相馬郡で将門誕生(父は良持または良将、母は県犬養春枝の娘とされ、幼少期は「相馬の小次郎」と呼ばれた) 相馬惣代八幡宮
成長して京にのぼり、右大臣藤原忠平に仕える
930年(延喜8年) 相馬御厨の下司として帰国後、石井を開墾し営所を構える(亡き父の営所鎌輪は伯父に奪われていた)
 官牧の経営、鉄の生産、干拓工事、騎馬軍団(坂東武者)の育成を行い民衆の信望を集める
平将門鎌輪之宿址石碑
石井営所跡
常羽御厨兵馬調練の馬場跡
尾崎前山遺跡製鉄炉跡
931年(承平元年) 上総・下総で勢力を持つ伯父の平良兼と対立する(良兼の娘との婚姻や所領問題が原因とされる)
935年(承平5年) 2月 【野本の戦い】源護の息子らに襲われるが平真樹連合軍と破り、源護の息子3人を敗死させる(源護は常陸国真壁を拠点に勢力を持ち、伯父らと姻戚関係にあった) 鹿嶋神社
伯父の平国香を敗死させる 平国香の墓伝承1平国香の墓伝承2
10月 【川曲村の戦い】叔父の平良正(国香・良兼の弟)を破る 水守城址(良正の拠点地)
936年(承平6年) 6月 【下野国境の戦い】良正、貞盛(国香の子)と手を組んだ良兼ら大軍と戦い勝利するが、下野国府に逃げこんだ良兼らを逃がす
10月 源護が朝廷に訴えたため、弁明のため上京
937年(承平7年) 4月 朱雀天皇の元服の恩赦で許され帰国する 九重の桜
8月 【子飼の渡の戦い】良兼らと戦うが、敗れる(勝利した良兼は常羽御厨を焼き払った)
【堀越の渡の戦い】ついで敗れる(将門は脚気を患っていた)
 このとき、将門の妻子が良兼に捕らえられる 深井地蔵尊
10月 良兼の服織の館を攻める 平良兼の館跡(服織の宿)
【弓袋山の対陣】良兼軍は筑波山中(現:八郷町湯袋峠)に逃げこむ 湯袋峠
11月 朝廷より坂東諸国に良兼、貞盛、源護を追討する命令が下る
12月 良兼が石井の営所を夜襲するが、将門が撃退する 島広山・石井営所跡
938年(承平8年) 2月 上京しようとした貞盛を信濃国まで追う
 貞盛は逃れ、将門を朝廷に訴える
939年(天慶2年) 2月 武蔵国の権守興世王と郡司武蔵武芝の争いを調停する
6月 良兼が病気で亡くなる
貞盛が将門追討の官符をもって帰国する
興世王、ついで藤原玄明が将門を頼ってくる
常陸介藤原維幾が玄明の引き渡しを要求してくる
11月 【常陸国府襲撃】玄明を追討しないことを要求し、ついに国府軍との戦いになるが破る 常陸国府跡
12月 ついで下野国、上野国の国府を襲い占領する
巫女のお告げにより、「新皇」を称する 大宝八幡宮
除目を行い、弟や従類を坂東八か国の国司に任命する
藤原忠平に書状を送り、陳情を述べる
 このころ伊予国の藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし朝廷を脅かしていた(承平天慶の乱) 日枝神社
940年(天慶3年) 1月 朝廷より将門追討の命令が下る
藤原秀郷、平貞盛らが下野国で将門追討の兵をあげる 結城諏訪神社
2月 【下野の戦い・川口村の戦い】藤原秀郷、貞盛の軍と戦い、敗れる
【北山の戦い】猿島郡北山で矢に当たり、死ぬ 北山稲荷大明神
4月 将門の首が京に送られる(胴体は神田山に埋められ、現在延命院に胴塚がある) 延命院将門の胴塚
972年(天禄3年) 國王神社が創建される(将門の三女・如蔵尼がいおりを建て霊像を刻んだのがはじまり) 國王神社

茨城県筑西市:平将門の乱の関係地(伝説・墓)

茨城県下妻市:平将門ゆかりの地(伝説:神社・館)

茨城県八千代町:平将門ゆかり・乱の関係地(伝説:神社・寺・遺跡)

茨城県結城市:平将門ゆかりの地(伝説:神社・寺・石)

茨城県古河市:平将門ゆかりの地(伝説・寺)

茨城県石岡市:平将門ゆかりの地(伝説・遺跡)

茨城県土浦市:平将門ゆかりの地(伝説・寺)

茨城県稲敷市:平将門ゆかりの地(伝説・神社)

五大力堂:桜川市の平将門関連の伝承の寺

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桜川市の平将門おすすめ観光スポットの五大力堂の案内VRツアー
(1)五大力堂の観光案内
桜川市池亀にある五大力堂は、同じく桜川市内にある月山寺(天台宗)が管理している御堂です。平将門の乱の際に、俵藤汰こと藤原秀郷が将門討伐を祈って霊像5体を安置しましたが、将門討伐後は将門の善心を知り、その霊を慰めたと云われています。この木造五大力菩薩像は、茨城県指定文化財となっています。
桜川市VRツアーの五大力堂を見る!
所在地〒309-1332 茨城県桜川市池亀
(2)五大力堂の観光VRツアー
画像は、五大力堂の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口・ぼたん桜、説明板、参道階段下、境内、石仏、本堂で構成されています。

桜川市の五大力堂の地図


后神社:桜川市の平将門・妻の伝承の神社

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桜川市の平将門伝説の后神社の拝殿写真とVRツアーリンク
(1)后神社の観光案内
后神社は、桜川市大国玉にある神社です。平将門の妻「君の御前」と大國玉神社の御祭神・オオクニヌシの妻「スセリヒメ」を祀っています。君の御前の父は、平真樹で、大國玉神社の領主・祭主です。
桜川市VRツアーの后神社を見る!
所在地〒309-1244 茨城県桜川市大国玉1840
(2)后神社の観光VRツアー
画像は、后神社の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口、説明板、本殿左側で構成されています。

桜川市の后神社の地図


御門御墓:桜川市の平将門の伝説の墓

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桜川市の平将門おすすめ観光スポットの御門(三門)御墓の案内VRツアー
(1)御門御墓の観光案内
桜川市大国玉にある御門御墓(みかどおはか)は、平将門とその一族の墓と伝えられ、四基の五輪塔があります。
桜川市VRツアーの御門御墓を見る!
所在地〒309-1244 茨城県桜川市大国玉
参考桜川市観光協会 御門御墓 紹介ページ
(2)御門(三門)御墓の観光VRツアー
画像は、御門御墓の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口看板、五輪塔への道、五輪塔で構成されています。

桜川市の御門御墓の地図


歌姫明神:桜川市の平将門の伝説の神社

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桜川市の歌姫明神の拝殿写真とVRツアーのリンク
(1)歌姫明神のスポット案内
桜川市真壁町羽鳥にある歌姫(うたづめ)明神は、万葉集や常陸国風土記にある歌垣の地とされており、平将門もここで歌垣を行っていたと云われています。妻の君の御前、及び平良子も歌垣で出会った説があります。なお、歌垣場所は、筑波山の東尾根のやすらぎの里の夫婦石(説明板に記載有)や南東尾根の飯名神社付近とする説もあります。
桜川市VRツアーの歌姫明神を見る!
所在地〒300-4412 茨城県桜川市真壁町羽鳥1073
(2)歌姫明神の観光VRツアー
画像は、歌姫明神の社殿のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口、鳥居、参道、石碑、参道・階段、境内、社殿、祠で構成されています。

桜川市の歌姫明神の地図


平良兼の館跡(服織の宿):桜川市の平将門の戦場・館スポット

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桜川市の平将門おすすめ観光スポットの平良兼の館跡の案内VRツアー
(1)平良兼の館跡(服織の宿)のスポット案内
桜川市真壁町羽鳥にある歌姫明神の付近には、羽織(はとり)の宿とよばれる平良兼の館がありました。良兼は上総・下総の本拠地とは別に、筑波山に囲まれたこの辺りにも館を構え過ごしていたようです。937年(承平7年)、将門により羽織の宿は焼き払われますが、良兼は筑波山中の湯袋峠に逃げ込みました。湯袋峠は、良兼が将門の追撃を避けて身を隠した場所として知られています。将門軍も良兼を見つけられず、郡を引いたといわれています。
所在地〒300-4412 茨城県桜川市真壁町羽鳥133(羽鳥会館の付近) 
(2)平良兼の館跡(服織の宿)の観光VRツアー
現在VRツアーは、場所が不明の為、空のVRシーンだけです。

平良兼の館跡(服織の宿)の推定場所付近図

桜川市の羽鳥地域の地図です。平良兼の館跡が何処の場所かは定かではありません。竜ヶ井城という話がありますが平安の館跡と鎌倉以降の城又は山城は異なります。また、戦いの戦法も異なり、平安時代はの戦いの基本は弓による騎馬戦です。山岳地帯に逃げられると追えません。山城は、1332年の楠木正成の連郭式の千早城が最初です。歩兵や足軽も当初山城対策から誕生したといわれ、鎌倉時代以降です。


湯袋峠:桜川市の平将門の伝説の戦場・峠

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桜川市の平将門おすすめ観光スポットの湯袋峠の案内VRツアー
(1)湯袋峠のスポット案内
湯袋峠は弓袋山の対陣の場で、桜川市と石岡市の境界にあり筑波山北部に位置します。かつては弓袋山といいましたが、温泉が出たため湯袋と名がつきました。937年、子飼の渡しの合戦で妻子を奪われ怒りに満ちた将門は、大軍を率いて良兼の本拠地羽織の宿を攻め入り、焼き払いました。しかし良兼軍は湯袋峠に逃げ込み、将門はむなしく兵を引き上げました。
筑波山おすすめ観光スポットVRツアーの湯袋峠を見る!
所在地〒300-4406 茨城県桜川市真壁町山尾
(2)湯袋峠の観光VRツアー
画像は、湯袋峠の空撮130mの360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、石岡市側、桜川市側で構成されています。

桜川市・石岡市の湯袋峠の地図


平国香の墓伝承1:筑西市の平将門の伝説・墓おすすめスポット

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筑西市の平将門おすすめ観光スポットの平国香の墓伝承1の案内VRツアー
(1)平国香の墓伝承1のスポット案内
平将門の伯父・平国香(たいらのくにか)の墓の伝承1件目は、平国香の本拠地があった筑西市東石田の民家の一角にあります。将門は、領地等の争いから反撃に出て平国香の石田館を焼打ちにし、その時に国香は亡くなっています。
筑西市VRツアーの平国香の墓伝承1を見る!
所在地〒300-4521 茨城県筑西市東石田300
(2)平国香の墓伝承1の観光VRツアー
画像は、平国香の墓伝承1の360°パノラマ写真のVRです。このVR ツアーは、空撮148m、説明板等で構成されています。

平の国香の墓の伝承の地1の地図


平国香の墓伝承の地2:筑西市の平将門の叔父の伝承の墓

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筑西市の平将門おすすめ観光スポットの平国香の墓伝承2の案内VRツアー
(1)平国香の墓伝承の地2のスポット案内
平将門の伯父・平国香の墓の伝承2件目は平国香の本拠地の筑西市東石田にある畑の中にあります。明治時代に竹やぶを開墾しようとした際に塚が見つかり、塚に埋蔵されていた石棺から、勾玉や金環が発見されました。
筑西市VRツアーの平国香の墓伝承2を見る!
所在地〒300-4521 〒300-4521 茨城県筑西市東石田1141
(2)平国香の墓伝承の地2の観光VRツアー
画像は、平国香の墓伝承2のパノラマ写真のVRです。このVR ツアーは、空撮148m、説明板等で構成されています。

筑西市の平国香の墓の地図


大宝八幡宮:下妻市の平将門の伝説・神社

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下妻市の平将門おすすめ観光スポットの大宝八幡宮の案内VRツアー
(1)大宝八幡宮の観光案内
大宝八幡宮は、下妻市大宝にある関東最古の八幡神社です。創建は大宝元年(701)で、平将門も戦勝祈願のために度々参拝したとのことです。また、平将門は当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられています。『将門記』には、平の将門は、939年に八幡大菩薩よりの神託をうけて「新皇」を自称したと記載されています。
下妻市VRツアーの大宝八幡宮を見る!
所在地〒304-0022 茨城県下妻市大宝667
参考大宝八幡宮 公式ホームページ
(2)大宝八幡宮の観光VRツアーの説明
画像は、大宝八幡宮の空撮360°パノラマ写真のVRです。大宝八幡宮VRツアーは、空撮148m、空撮80m、空撮60m、三ノ鳥居、二ノ鳥居、一ノ鳥居、隋身門、拝殿前等で構成されています。

下妻市の大宝八幡宮の地図


平将門鎌輪之宿址石碑:下妻市の平将門の伝説・史跡

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下妻市の平将門おすすめ観光スポットの平将門鎌輪之宿址石碑の案内VRツアー
(1)平将門鎌輪之宿址石碑のスポット案内
平将門鎌輪之宿址石碑は、下妻市鬼怒の千代川公民館の裏手にあります。将門の父良将は、相馬郡のほか豊田郡、猿島郡にも勢力をもち、豊田郡鎌輪に営所を置いていたとされます。将門は下司の職を辞した後、父を受け継ぎこの地を本拠地として開拓をしながら平和に生きようとしたと云われています。
下妻市VRツアーの平将門鎌輪之宿跡石碑を見る!
所在地〒304-0818 茨城県下妻市鬼怒230
(2)平将門鎌輪之宿跡石碑の観光VRツアー
画像は、平将門鎌輪之宿址石碑の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮149m、平将門鎌輪之宿址石碑前、説明石碑で構成されています。

下妻市の平将門公鎌輪之宿跡石碑の地図


平将門公鎌輪之宿址:下妻市の平将門の伝説・宿址

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下妻市の平将門公鎌輪之宿址の写真とVRツアー
(1)平将門公鎌輪之宿址案内板
下妻市鎌庭の香取神社の境内にある平将門公鎌輪之宿址案内板です。ここは平安時代中期(940年)に書かれた将門記に記載のある、将門本願の地でした。近くの千代川公民館裏手には平将門鎌輪之宿址石碑があります。
下妻市VRツアーの平将門公鎌輪之宿跡案内板を見る!
所在地〒304-0819 茨城県下妻市鎌庭54
(2)平将門公鎌輪之宿址の観光VRツアー
画像は、下妻市鎌庭の香取神社の平将門公鎌輪之宿跡案内板の360°パノラマ写真のVRです。

下妻市の平将門公鎌輪之宿址の地図


御所神社:八千代町の平将門又は桔梗の前の館跡伝説

八千代町の平将門の館跡の御所神社の写真とVRツアー のリンク
(1)御所神社のスポット案内
御所神社は八千代町仁江戸にあり、ご祭神は平将門とされています。当時この地は平将門の諸説ある中の出生地「鎌輪」地域であったという説もあり、将門、あるいは桔梗の前の館があったという説もあります
八千代町VRツアーの御所神社を見る!
所在地〒300-3539 茨城県結城郡八千代町仁江戸
(2)御所神社の観光VRツアー
画像は、御所神社の拝殿前・境内のパノラマ写真のVRです。このVRツアー は、このVRツアーは、空撮148m、入口、鳥居前、拝殿前・境内、向拝、拝殿右手、本殿右手、神社付近道路で構成されています。

八千代町の御所神社の地図


鹿嶋神社:八千代町の平将門の乱の野本の戦いの地伝説

八千代町の平将門の野本の戦いの伝説の鹿嶋神社の景観とVRツアー
(1)鹿嶋神社の案内
八千代町野爪にある鹿嶋神社は、大同元年(806年)に藤原音麿によって建立された常陸国十六郷総鎮守の神社です。承平五年(935年)の平将門の乱での社殿が焼失したほか、兵乱や災害の度に社殿が再建されてきました。将門記における野本合戦は、この辺で起きたという説があります。
八千代町VRツアーの鹿嶋神社を見る!
所在地〒300-3518 茨城県八千代町野爪430
お問合せ鹿嶋神社:電話 0296-48-1501
参考八千代町教育委員会 鹿嶋神社本殿 紹介ページ
(2)鹿嶋神社の観光VRツアー
画像は、八千代町の鹿嶋神社の三ノ鳥居の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮143m、空撮100m、空撮43m、一ノ鳥居、二ノ鳥居、参道、三ノ鳥居、文化財説明板、由緒説明板、夫婦杉・三日月神社、重軽石、拝殿、本堂脇、本堂裏で構成されています。

八千代町の鹿嶋神社の地図


佛性寺(栗山観音):八千代町の平将門の御厨馬牧・寺

八千代町の栗山観音の本堂景観写真とVRツアーリンク
(1)佛性寺(栗山観音)の観光案内
佛性寺(栗山観音)は、八千代町栗山にある天台宗の寺です。周辺の土地が馬の飼育に適していたため、平将門の乱の際に軍馬の供給地としてこの地が拠点となりました。観音堂の内壁に御厨馬牧の風景が描かれています。栗山観音佛性寺の観音堂及び仁王門は、茨城県指定有形文化財です。
所在地〒300-3551 茨城県八千代町栗山476
お問合せ栗山観音 佛性寺:電話 0297-42-2300
参考八千代町教育委員会 佛性寺観音堂 紹介ページ
(2)佛性寺(栗山観音)の観光VRツアー
画像は、佛性寺(栗山観音)の土俵前の360°パノラマ写真のVRから見た観音堂です。このVRツアーは、空撮148m、参道、弁財天、仁王門、土俵、観音堂、文化財説明板、本堂等で構成されています。

八千代町の栗山観音の地図


尾崎前山遺跡製鉄炉跡:八千代町の平将門の伝説・史跡

八千代町の平将門関連の尾崎前山遺跡製鉄炉跡の写真とVRツアー
(1)尾崎前山遺跡製鉄炉跡のスポット案内
尾崎前山遺跡製鉄炉跡は八千代町指定文化財です。8世紀につくられたと調査されており、この地を支配していた平将門もこの製鉄炉を使い刀剣等の武器を製造していたと考えられています。
八千代町VRツアーの尾崎前山遺跡製鉄炉跡を見る!
所在地〒300-3554 茨城県八千代町尾崎宇前山404-4
(2)尾崎前山遺跡製鉄炉跡VRツアー
画像は、尾崎前山遺跡製鉄炉跡の360°パノラマ写真です。このVRツアーは、空撮120m、説明板、製鉄炉跡で構成されています。

八千代町の尾崎前山遺跡製鉄炉跡の地図


蔵持建長銘板碑:常総市の平将門公赦免供養之碑:供養碑

常総市の平将門の供養の蔵持建長銘板碑の景観写真とVRツアーリンク
(1)蔵持建長銘板碑のスポット案内
常総市蔵持にある蔵持建長銘板碑は、平将門の供養の為に建てられたと云われている、常総市指定文化財の板碑です。もともとは鬼怒川沿岸の引手山に4基あったものが移され、3基はこの地に、1基は西福寺に置かれています。
所在地〒300-2722 茨城県常総市蔵持552-1
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
参考常総市 蔵持建長銘板碑 紹介ページ
(2)蔵持建長銘板碑の観光VRツアーの説明
画像は、蔵持建長銘板碑の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、蔵持建長銘板碑、蔵持公民館で構成されています。

常総市の蔵持建長銘板碑の地図


西福寺建長銘板碑:常総市の平将門公菩提供養之碑・寺

常総市の平将門の西福寺建長銘板碑の景観写真とVRツアーリンク
(1)西福寺建長銘板碑の案内
常総市新石下の西福寺入口にある西福寺建長銘板碑は、別名「炎石」とも呼ばれ、平将門を供養する為に建立されたと云われる板碑です。常総市指定文化財となっています。鬼怒川沿岸の改修工事のため引手山から移された板碑は4基あり、ほかの3基は常総市蔵持公民館の側にあります。
所在地〒300-2706 茨城県常総市新石下1034
お問合せ西福寺:電話 0297-42-2300
参考常総市 西福寺の建長銘板碑 紹介ページ
(2)西福寺建長銘板碑の観光VRツアー
画像は、西福寺の平将門供養碑のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、平将門供養碑と説明板で構成されています。

常総市の西福寺の地図


下総国亭(庁)跡:常総市の平将門の父の平良将が設置

常総市の平将門の関連遺跡の下総国亭跡の景観写真とVRツアーリンク
(1)下総国亭跡のスポット案内
平将門の父である平良将が下総開拓の府として国庁を置いたとされる常総市国生に、下総国亭(庁)跡(しもふさこくちょうあと)の石碑があります。国庁は将門の時代まであったといわれています。
常総市VRツアーの下総国亭跡を見る!
所在地〒300-2741 茨城県常総市国生
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
(2)下総国亭跡のVRツアーの説明
画像は、下総国亭跡(平将門公史跡)のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、石碑前、周辺のキャベツ畑と白菜畑で構成されています。

常総市の下総国亭跡の地図


平将門公本遽豊田館跡(将門公苑):常総市の平将門の館跡

常総市の平将門公本遽豊田館跡(将門公苑)の景観写真とVRツアーのリンク
(1)平将門公本遽豊田館跡(将門公苑)の案内
常総市向石下にある豊田館跡は、平将門が生まれた場所と云われています。父である平良持が本拠とした場所とされ、戦国時代には豊田氏により向石毛城が築かれました。平将門が主人公として描かれた1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の放送を記念し、石碑やレリーフ像が建てられました。
所在地〒300-2742 茨城県常総市向石下121
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
(2)平将門公本遽豊田館跡(将門公苑)のVRツアーの説明
画像は、下総国亭跡(平将門公史跡)の石碑前のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、石碑・平将門公像レリーフ、説明碑表、説明碑裏、で構成されています。

常総市の平将門公本遽豊田館跡の地図


平親王将門公一族墳墓之地:常総市の平将門の一族の墓

常総市の平将門おすすめ観光スポットの平親王将門公一族墳墓之地の案内VRツアー
(1)平親王将門一族墳墓之地のスポット案内
常総市蔵持にある平親王将門一族墳墓之地は、平将門の父である平良将と兄の将弘の墳墓であり、のちに討死した平将門も葬られたと伝えられています。この地帯は古くから石碑群があり、御子埋台地の引手山とよばれます。石碑前は馬から降りずに通過すると落馬すると恐れられ、畏敬されてきました。現存する板碑は4基で、河川工事のために1基は常総市新石下の西福寺に、3基は常総市蔵持公民館の側に移されました。
常総市VRツアーの平親王将門一族墳墓之地を見る!
所在地〒300-2722 茨城県常総市蔵持
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
(2)平親王将門一族墳墓之地の観光VRツアーの説明
画像は、平親王将門一族墳墓之地の説明板の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、石碑、説明版、墳墓之地前、周辺道で構成されています。

平親王将門一族墳墓之地の地図


六所塚(前方後円墳):常総市の平将門の伝説

常総市の平将門おすすめ観光スポットの六所塚(前方後円墳)の案内VRツアー
(1)六所塚(前方後円墳)のおすすめ観光案内
常総市蔵持にある六所塚(前方後円墳) は、平将門の父である平良持が延喜年間に創建したと考えられています。古くから良将と将門が埋葬されていると信じられおり、祭祀されてきました。大きさは全長70mを誇り、常総市指定文化財となっています。かつては85基あった鬼怒川右岸の神子女(御子埋)古墳群内に在り、古墳群内では唯一の前方後円墳で最大規模とされる六所塚は、すぐ近くに、平親王将門一族墳墓之地があり、おすすめ観光スポットです。
常総市VRツアーの六所塚(前方後円墳)を見る!
所在地〒300-2722 茨城県常総市蔵持251番地
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
参考常総市役所 常総市公式ホームページ
(2)六所塚(前方後円墳)の観光VRツアーの説明
画像は、六所塚(前方後円墳)の南側墳下・説明板の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、南側墳下・説明板、前方・墳上、中央・墳上、後円・墳上、北側墳下で構成されています。

六所塚(前方後円墳)の地図


常羽御厨兵馬調練の馬場跡:常総市の平将門の伝承・馬場

常総市の平将門の常羽御厨兵馬調練の馬場跡の説明板の写真とVRツアー
(1)常羽御厨兵馬調練の馬場跡のスポット案内
常総市馬場にある常羽御厨(いくはのみうまや)調練の馬場跡は、平良将と将門の父子二代で管理した牧場です。平将門の兵馬調練場として軍事上の重要拠点であったため、937年の子飼の渡の戦いに勝利した良兼によって常羽御厨の多数の人家舎宅が焼き払われたとされています。
常総市VRツアーの常羽御厨兵馬調練の馬場跡を見る!
所在地〒300-2748 茨城県常総市馬場445-1
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
(2)常羽御厨兵馬調練の馬場跡の観光VRツアー
画像は、常羽御厨兵馬調練の馬場跡の説明板の360°パノラマ写真です。このVRツアーは、空撮148m、集会場・駐車場、説明板で構成されています。

常羽御厨兵馬調練の馬場跡の地図


桑原神社:常総市の平将門の尊崇した神社

常総市の平将門おすすめ観光スポットの桑原神社の案内VRツアー
(1)桑原神社の観光案内
常総市国生にある桑原神社は、延喜式内社(小)の郷社で、平将門も尊崇した神社です。772年、下総国の国司である桑原王によりに創祀され、平将門の父である平良将公により下総国亭(庁)が置かれ政治の拠点とされました。当初は現在より東方の鬼怒川右岸にありましたが、延宝6年(1678年)、住民の移居により現在地に遷座しました。
常総市VRツアーの桑原神社を見る!
所在地〒300-2741 茨城県常総市国生1186
(2)桑原神社の観光VRツアーの説明
お問合せ常総市観光協会・常総市商工観光課内:電話 0297-23-9088
画像は、桑原神社の鳥居前の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、鳥居前、説明板・平将門公遺跡石柱、参道、神社由来石碑、石灯篭・狛犬前、拝殿、境内社等で構成されています。

常総市の桑原神社の地図


香取大明神:常総市の平将門の父創祀の神社

常総市の平将門の父創祀の香取大明神の写真とVRツアーリンク
(1)香取大明神のスポット案内
常総市向石下にある香取大明神は、昌泰年間(897~901年)、平将門の父である平良将が下総国亭(庁)を開き政務にあたる際に、東国創業の香取神宮を総社として勧請し創祀したのが始まりと云われています。
常総市VRツアーの香取大明神を見る!
所在地〒300-2742 茨城県常総市向石下15
お問合せ国王神社:電話 0297422070
(2)香取大明神の観光VRツアーの説明
画像は、香取大明神の入口・鳥居の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口・鳥居、説明板、参道、神社由来石碑、本殿等で構成されています。

香取大明神の地図


将門川:常総市の平将門の伝承の川

常総市の平将門のゆかりの地の将門川の景観写真とVRツアーリンク
(1)将門川のスポット案内
常総市国生地区を上流端とする将門(しょうもん)川は、篠山水門を境に鬼怒川に注ぐ一級河川です。将門川の近辺には、平将門関連の史跡が多数分布します。
常総市VRツアーの将門川を見る!
所在地〒300-2721 茨城県常総市篠山
(2)将門川の観光VRツアーの説明
画像は、将門川の川標識版・岡田橋東のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、川標識版・岡田橋東、岡田橋中央橋上で構成されています。

常総市の将門川の地図


國王神社:坂東市の平将門祭神の神社:茨城県指定文化財

坂東市の平将門祭神の國王神社の写真とVRツアーリンク
(1)國王神社の案内
坂東市岩井にある國王神社(国王神社)は、将門の三女である如蔵尼が父の最期の地に庵を建てたのが創建で、茨城県指定文化財の「寄木造 平将門木像」が御神体です。
所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井951
お問合せ国王神社:電話 0297-35-2395
参考國王神社 公式ホームページ
(2)國王神社の観光VRツアーの説明
画像は、國王神社の説明板のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、空撮60m、説明板、鳥居、参道、石灯篭、狛犬・拝殿、本殿・摂社で構成されています。

坂東市の国王神社の地図


延命院:坂東市の平将門の同塚伝説・寺

坂東市の延命院の寺入口門柱景観とVRツアーのリンク
(1)延命院おすすめスポット案内
延命院は、坂東市神田山にある新義真言宗の寺で篠越山延命院観音寺とも言い、将門の胴塚がある事で広く知られています。延命地蔵菩薩が本尊です。
所在地〒306-0617 茨城県坂東市神田山715
お問合せ延命院:電話 0297-35-0554
(2)延命院の観光VRツアーの説明
画像は、延命院の寺名石柱のパノラマ写真のVRです。延命院VRツアーは、空撮146m、空撮30m、入口、駐車場前、寺名石柱、将門の胴塚、観音堂・不動堂前、七福神毘沙門天前で構成されています。

将門の胴塚:坂東市の平将門の伝説

坂東市の平将門の胴塚景観写真とVRツアーのリンク
(1)延命院 将門の胴塚スポット案内
平将門の胴塚は坂東市神田山の延命院にあります。平貞盛・藤原秀郷連合軍との合戦で命を落とした将門の首は京都大路に晒され、残された遺体をひそかに葬ったのが、この胴塚と云われています。写真をクリックすると胴塚のVRシーンをご覧いただけます。
参考坂東市 延命院と胴塚 紹介ページ
(2)将門の胴塚のVRツアーの説明
上記画像は、将門の胴塚の説明板・石塔婆前の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、説明板・石塔婆前と胴塚前で構成されています。

北山稲荷大明神:坂東市の平の将門の乱「北山の戦い」・神社

坂東市の平将門おすすめ観光スポットの北山稲荷大明神の案内VRツアー
(1)北山稲荷大明神のスポット案内
平将門終焉の地は諸説あり、この北山稲荷大明神も北山古戦場の平将門終焉の地とされています。昭和50年、源頼信が平将門鎮魂のため建てたとされる板碑がこの場所で見つかりました。
坂東市VRツアーの北山稲荷大明神を見る!
所在地〒306-0632 茨城県坂東市辺田1402-1
お問合せ坂東市観光協会・坂東市役所 商工観光課内):電話 0297-20-8666
(2)北山稲荷大明神の観光VRツアーの説明
画像は、山稲荷大明神の鳥居横・平将門石柱の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮147m、空撮148m、参道入口、参道、鳥居前・石柱、鳥居横・平将門石柱、本殿前、平将門公之碑で構成されています。

島広山・石井営所跡:平将門の関東制覇の拠点

坂東市の平将門の乱の拠点の島広山・石井営所跡び写真とVRツアーリンク
(1)島広山・石井営所跡の案内
坂東市岩井にある島広山・石井営所跡は、平安中期に平将門が関東制覇の拠点とした場所といわれています。「将門記」には承平7年(937年)、伯父である平良兼により襲撃を受けるが打ち破ったと書かれています。また、石井営所周辺には重臣の居館や郎党の住居、軍勢の宿舎や食糧庫、馬繋ぎ場などが設けられ賑わいましたが、天慶3年(940年)、藤原秀郷と平貞盛の連合軍に破れ、すべて焼き払われしまったと記載されています。写真をクリックすると島広山・広山・石井営所跡のVRシーンをご覧いただけます。
お問合せ坂東市観光協会・坂東市役所 商工観光課内):電話 0297-20-8666
所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井1603
(2)島広山・石井営所跡の観光VRツアーの説明
画像は、島広山・石井営所跡の石碑のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮144m、道路・入口、営所跡前、石碑、説明石碑、駐車場で構成されています。

石井の井戸跡:坂東市の平将門の伝説・史跡

坂東市の石井の井戸跡の景観写真とVRツアーのリンク
(1)石井の井戸跡のスポット案内
石井の井戸跡は、坂東市岩井にある平将門史跡で、将門の本拠である石井営所の近くです。国王神社縁起演書に以下のような記載があります。将門が家来とともに営所の場所を探しているときに、のどが渇いたので湧き水でもないかとあちこちさがしていると「水」とひとこと声がしてどこからともなく白髪の老人があらわれ、老人は、近くにあった大石を軽々と持ちあげると、それを地面に打ち込みました。すると、そこから清水がこんこんと湧き出て、将門たちは、老人に感謝したという話です。なお、この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人が湧水を利用していたそうですが、現在は枯れています。
所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井1610
参考坂東市 石井の井戸 紹介ページ
お問合せ坂東市観光協会・坂東市役所 商工観光課内):電話 0297-20-8666
(2)石井の井戸跡のVRツアー
画像は、石井の井戸跡の入口のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮50m、入口、正面2シーン、左説明石碑、右説明石碑で構成されています。

坂東市の石井の井戸跡の地図


富士見の馬場:坂東市の平将門史跡

坂東市の平将門史跡の富士見の馬場の景観写真とVRツアーリンク
(1)富士見の馬場のスポット案内
坂東市にある富士見の馬場は、平将門が軍馬の調教・訓練、馬の取引(馬市)をしていた場所と云われています。当時はここから富士山が眺められたことが名前の由来となっています。
所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井2245-5
お問合せ坂東市観光協会・坂東市役所 商工観光課内):電話 0297-20-8666
参考坂東市 富士見の馬場 紹介ページ
(2)富士見の馬場のVRツアーの説明
画像は、富士見の馬場の入口のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮147m、入口、説明碑、富士見の馬場碑で構成されています。

富士見の馬場の地図


九重の桜:坂東市の平将門の伝説の桜

坂東市の平将門ゆかりの九重の桜の景観写真とVRツアーのリンク
(1)九重の桜のスポット案内
坂東市岩井にある九重の桜は、朱雀天皇の元服の儀により帰国を許された平将門が、その感謝の意をこめて植えたものと云われています。九重という言葉は皇居・王宮を表し、元服の儀が行われた京都御所の紫宸殿前桜を株分けしたものとされています。
所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井2454-2
お問合せ坂東市観光協会:電話 0297-20-8666
参考坂東市 九重の桜 紹介ページ
(2)九重の桜のVRツアー
画像は、九重の桜の右側奥(南東)のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮149m、説明板、正面、右側、右側奥等で構成されています。

九重の桜の地図


弓田香取神社:坂東市の平将門の営所の守護神の神社

坂東市の平将門の営所守護神の弓田香取神社の景観写真とVRツアー のリンク
(1)弓田香取神社のスポット案内
坂東市にある弓田香取神社の杜は、律令時代に兵営の守護神として創祀され、承平3年(939年)2月に平将門が参拝したと云われています。この弓田香取神社と200mほど東にある慈光寺との間は、奈良時代からの軍事基地であったとされ、将門はその後を引き継ぎ軍事拠点とし、神仏の加護を祈っていたことがうかがえます。
坂東市VRツアーの弓田香取神社を見る!
所在地〒306-0607 茨城県坂東市弓田273
お問合せ延命寺:電話 0297-35-1847
(2)弓田香取神社のVRツアー
画像は、弓田香取神社の参道中央のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口門柱、鳥居、参道、拝殿、境内、境内社、社宝・初代御神木、榊山古墳群等で構成されています。

慈光寺:坂東市の平将門の営所の鬼門除け・寺

坂東市の平将門の営所の鬼門除けの慈光寺の景観写真とVRツアーリンク
(1)慈光寺の観光案内
坂東市弓田にある明王山慈光寺は天台宗のお寺です。創建は奈良時代の746年で当初は法相宗に属していました。平将門が石井営所に拠点を移した際、鬼門除けの本尊として深く信仰していたと云われています。通称、弓田のポックリ不動尊として知られ、坂東市指定文化財の木造阿弥陀如来坐像・不動明王及び二童子立像があります。
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所在地〒3306-0607 茨城県坂東市弓田388
お問合せ延命寺:電話 0297-35-1508
参考坂東市 弓田の不動尊 紹介ページ
(2)慈光寺の観光VRツアーの説明
画像は、慈光寺の入口・寺門柱の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口・寺門柱、不動尊・門柱、弓田不動尊の参道、銀杏の巨木、参道・ヒバの巨木、弓田不動尊本堂、本堂前・参道、本堂向拝、鐘楼、長寿観音、水子地蔵で構成されています。

延命寺:坂東市の平将門のゆかりの地・寺

坂東市のゆかりの地・延命寺の景観写真とVRツアーのリンク
(1)延命寺の観光案内
延命寺は坂東市岩井にある真言宗豊山派に属する古刹で、平将門ゆかりの寺として知られます。創建当初は、平将門の拠点・石井営所の鬼門除けとして島広山に建てられました。天慶3年(940年)藤原秀郷、平貞盛らにより石井営所一帯を焼き払われた際、将門の守り本尊と称される薬師如来像を移し隠されましたが、将門の死後に寺に戻され祀られたと伝えられています。文政2年(1445年)に、平将門の末裔である守谷城主・相馬家が大檀那となり、本堂、薬師堂、山門を立てましたが、火事で山門だけが残りました。延命寺は平将門をまつる国王神社の別当寺院として隣接地にありましたが、享保年間に分離し、境内は現在地に移りました。茨城県指定文化財の室町時代の仏像2体、坂東市指定文化財の山門、太鼓橋、仏像2体があります。
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所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井1111
お問合せ延命寺:電話 0297-35-1875
参考坂東市 延命寺の薬師如来 紹介ページ
(2)延命寺の観光VRツアーの説明
画像は、延命寺の入口説明板の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口・山門、入口説明板、山門(文化財)、太鼓橋(文化財)、薬師堂前、鐘楼前、八重桜、本堂前等で構成されています。

西念寺「泣き鐘」:坂東市の平将門の伝説・寺

坂東市の平将門伝説の西念寺の景観写真とVRツアーリンク
(1)西念寺の観光案内
西念寺は坂東市辺田にあるもと天台宗の聖徳寺で、その後、浄土真宗の寺になりました。茨城県指定文化財の木造阿弥陀如来座像、坂東市指定文化財の来迎図板碑なども管理されている由緒あるお寺です。境内にある鐘楼には、平将門が腹を立てて寺へ返したという「泣き鐘」の伝説があります。 『その昔、平将門の率いる兵卒集団が、この寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響きわたり、兵卒たちは、気味悪がって士気が上がらない。将門は腹を立てて、寺へ返した。』
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所在地〒306-0632 茨城県坂東市辺田355-1
お問合せ西念寺:電話 0297-35-1586
参考坂東市 西念寺 紹介ページ
参考西念寺 公式ホームページ
(2)西念寺の観光VRツアーの説明
画像は、西念寺の参道のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮146m、入口門柱、参道・百日紅、親鸞聖人像、境内中央、本堂前、孝徳荘・来迎図版碑、太子堂、説明板、鐘楼で構成されています。

深井地蔵尊:坂東市の平将門の伝説・妻子受難の地

坂東市の平将門おすすめ観光スポットの深井地蔵尊の案内VRツアー
(1)深井地蔵尊のスポット案内
坂東市沓掛にある深井地蔵尊は、平将門の妻子受難の地とされています。承平7年、敵対していた伯父の良兼との戦中に脚気を患った将門は、妻子を船に乗せて隠していました。妻子は良兼軍が引き揚げたので岸に戻ろうとしたところ、残り兵に見つかり芦津江のほとりで殺されてしまいました。深井地蔵尊はこの妻子の冥福を祈り造られたと考えられております。妻子受難については諸説あり、引き揚げられた妻子は良兼の娘らでその後解放され、殺されたのは君の御前(平真樹の娘)であったともいわれています。
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所在地〒306-0515 茨城県坂東市沓掛2205
お問合せ坂東市観光協会・坂東市役所 商工観光課内):電話 0297-20-8666
(2)深井地蔵尊の観光VRツアーの説明
画像は、深井地蔵尊の本殿のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮147m、西仁連川入口、本堂、向拝、説明板で構成されています。

坂東市民音楽ホール・平将門公之像:坂東市の平将門の銅像

坂東市の平将門おすすめ観光スポットの坂東市民音楽ホール・平将門公之像の案内VRツアー
(1)坂東市民音楽ホール・平将門公之像の案内
坂東市岩井にある市民音楽ホール「ベルフォーレ」の前庭広場には、平将門公之の騎馬像が建っています。この立派な平将門公之像は、茨城県土浦市育ちの彫刻家である一色邦彦氏が手掛けました。また、ホール入口のレリーフ壁画にも、平将門が大きく描かれています。
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所在地〒306-0631 茨城県坂東市岩井5082
(2)平将門公之像の観光VRツアーの説明
画像は、坂東市民音楽ホール ベルフォーレの平将門公之像の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、入口、平将門公之像、レリーフ説明、中庭正面、チケット売り場・入口、ホール入口・レリーフ壁画・正面駐車場・奥駐車場等で構成されています。

結城諏訪神社:結城市の藤原秀郷の平将門の乱鎮圧祈願所・神社

結城市の平将門おすすめ観光スポットの結城諏訪神社の勝負石の案内VRツアー
(1)結城諏訪神社の観光案内
天慶3年(940年)、朱雀天皇が下野の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に平将門を討つよう命じ、必勝祈願のための祈祷を行ったのが、諏訪神社の始まりです。将門軍に勝利した秀郷は、社殿を建築し御神体として神事に使った矢を奉納しました。現在も将門の城の方角へと矢を射る「弓引き神事」が1月27日に行われます。
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所在地〒307-0021 茨城県結城市上山川161
お問合せ結城諏訪神社:電話 0296-35-6007
参考結城諏訪神社 公式ページ
(2)結城諏訪神社の観光VRツアー
画像は、結城諏訪神社の境内灯篭の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、鳥居、参道、本殿、勝負岩等で構成されています。

結城諏訪神社の勝負石:結城市の平将門の乱の伝説・石

結城市の平将門の乱の結城諏訪神社の勝負石の写真とVRツアーリンク
(1)結城諏訪神社の勝負石の案内
結城諏訪神社の境内にある大岩です。将門軍の矢から藤原秀郷を守ったと云われています。岩に触ることで力を分けていただける、願いが叶うといわれ、 勝負岩と呼ばれています。
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お問合せ結城諏訪神社:電話 0296-35-6007
所在地〒307-0021 茨城県結城市上山川161
(2)結城諏訪神社の勝負石の観光VRツアー
画像は、結城諏訪神社の勝負石のパノラマ写真のVRです。

大栄寺 山川不動尊:結城市の平将門のゆかりの仏像・寺

結城市の平将門おすすめ観光スポットの大栄寺 山川不動尊の案内VRツアー
(1)山川不動尊(大栄寺)のスポット案内
山川不動尊は、結城市にある平将門ゆかりの寺です。 山川不動尊には、木造不動明王坐像があり、江戸時代に書かれた「山川不動尊略縁起」によると、平将門が京都を訪れた際に、東寺に安置されていた不動明王像を守り本尊として持ち帰ったとされている仏像があり、 平将門の乱の後、この不動明王像は一度行方不明になったとのことです。後にその仏像が漁師の網にかかって引き上げられ、仮の小屋に安置されていたそうです。慶長6年(1601年)に大恵上人によって、将門のゆかりの地である山川不動尊(大栄寺)に正式に祀られることになったとされています。木造不動明王坐像は、現在、茨城県の指定文化財になっています。 大栄寺 山川不動尊は、毎月28日に縁日があり、多くの露店と人で賑わいます。
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所在地〒307-0033 茨城県結城市山川新宿311-1
お問合せ山川不動尊:電話 0296-35-1628
参考結城市 山川不動尊縁日 紹介ページ
(2)大栄寺 山川不動尊の観光VRツアー
画像は、大栄寺 山川不動尊の360°パノラマ写真のVRです。この VRツアーは、空撮148m、山門、仁王門、不動堂、本堂前、本堂内・本尊、本堂裏 等で構成されています。

東光寺:古河市の平将門四男ゆかりの伝説・寺

古河市の平将門縁者の東光寺の景観写真とVRツアー リンク
(1)東光寺のスポット案内
古河市前林にある東光寺は、平将門の四男某が剃髪してこの地に住み、開いたお寺といわれています。東光寺は、真言宗の寺で、「東光寺の椎」は、古河市の指定文化財です。
お問合せ東光寺:電話 0280-92-0571
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所在地〒306-0216 〒306-0216 茨城県古河市前林1765
(2)東光寺のVRツアー
画像は、東光寺の石柱門のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮147m、石柱門、山門、参道、椎の巨木、六地蔵・銀杏、境内、本堂、鐘楼・石塔等で構成されています。

高田神社:稲敷市の平将門 の乱の平定祈願の神社

稲敷市の平将門関連の朝廷側の高田神社の景観写真とVRツアー リンク
(1)高田神社の観光案内
稲敷市にある高田神社は、承平年間(931~937)、朱雀天皇の命により平将門 の乱の平定を祈願するため熊野大社の分霊を勧請したことから創建されました。 参道に立ち並ぶ巨木からも歴史の深さを感じられます。神社の創建の説明板をご覧ください
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所在地〒300-0511 茨城県稲敷市高田1348
お問合せ高田神社:電話 029-892-6150
(2)高田神社の観光VRツアー
画像は、高田神社の参道・手入舎前の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアー は、空撮148m、一の鳥居、えのき付近、杉並木、二の鳥居、狛犬前、手入舎前、 説明板前、末社十八社等で構成されています。

高田神社の地図


常陸国府跡:石岡市の平将門の乱で攻めた国府跡

石岡市の平将門の乱で攻めた常陸国府跡の景観写真とVRツアーリンク
(1)常陸国府跡のスポット案内
天慶2年(939年)11月21日、平将門は現在の石岡市、常陸の国府を襲撃し焼き払いました。きっかけは、常陸国の国司に反発し追われていた藤原玄明(はるあき)を擁護したことで、身柄引き渡しをめぐる常陸介・藤原維幾(これちか)との交渉の決裂でした。この戦いをきっかけに、将門は他国の国府を襲撃し、朝廷への反乱に発展、ついには独立政権を樹立し自らを新皇を称することとなりました。
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所在地〒315-0016 〒315-0016 茨城県石岡市総社1丁目2-10
(2)常陸国府跡のVRツアー
画像は、常陸国府跡の常陸のみやこ石碑説明板のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、常陸国府跡の碑、説明板、常陸のみやこ石碑等で構成されています。

般若寺:土浦市の平将門の娘「如蔵尼」の創建と伝わる寺

土浦市の平将門縁者の伝説の般若寺の景観写真とVRツアー リンク
(1)般若寺のスポット案内
土浦市宍塚にある般若寺は、平将門の次女とされる安寿姫(如蔵尼)により開かれたお寺と云われています。平安時代の天暦元年(974年)、はじめは尼寺として現在の学園通り沿いの宍塚の台地に創建されましたが、平安末期にこの地に移されたとされています。
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所在地〒300-0805 茨城県土浦市宍塚1461-2
お問合せ般若寺:電話 029-823-4070
(2)般若寺のVRツアー
画像は、般若寺の山門のパノラマ写真です。このVRツアーは、空撮148m、空撮50m、門柱、馬頭観音・地蔵、山門、説明板、結界石、銅鐘、六地蔵石憧、枯山水、本堂前、本堂内の内縁中央、内縁右、内縁左、内陣・本尊、外陣・脇内陣、脇内陣・文化財仏像で構成されています。

般若寺の地図


月読神社:平将門の護持仏を祀る神社

つくば市の平将門関連の月読神社の景観写真とVRツアー リンク
(1)月読神社のスポット案内
月読神社は、つくば市樋の沢にある神社です。創建は天慶8年(945年)と伝わり、もともとは神仏習合で、平将門の護持仏であった勢至菩薩を本尊としていました。0298410588
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所在地〒300-1242 〒300-1242 茨城県つくば市樋の沢208
お問合せ月読神社:電話 0298-41-0588
(2)月読神社の観光VRツアー
画像は、月読神社の拝殿のパノラマ写真です。このVRツアーは、鳥居、参道、灯篭・手水舎、拝殿、本殿、御神木椎の木で構成されています。

月読神社の地図


水守城址:つくば市の平将門の敵方伯父・平良正の館跡

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将門の叔父の水守城址写真とVRツアーのリンク
(1)水守城址のスポット案内
つくば市水守にある水守城址は、将門記によると平将門の叔父である敵方の平良正が拠点とした「水守営所」があった場所とされます。「平将門の乱」後は、平貞盛の養子・維幹(水守太夫)が水守城を築城し、戦国時代には小田城の支城として使用されたと云われています。跡地には田水山小学校がありましたが現在は廃校になっており、石碑には平氏系譜と小学校沿革が彫られています。
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所在地〒300-4245 茨城県つくば市水守552
(2)水守城址の観光VRツアー
画像は、水守城址の城跡石碑のパノラマ写真です。このVRツアーは、空撮148m、城跡石碑、平氏系譜と田水山小学校沿革、道路側・筑波山景観で構成されています。

水守城址の地図


佐都ヶ岩屋古墳:つくば市の平将門の娘「五月姫」の伝説・遺跡

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つくば市の平将門の五月娘の伝説の佐都ヶ岩屋古墳の景観写真とVRツアー のリンク
(1)佐都ヶ岩屋古墳のスポット案内
つくば市平沢にある佐都ヶ岩屋古墳は、7世紀半ばから後期につくられたこの地域の首長の墓とされます。平将門の娘である瀧夜叉姫(五月姫)が朝廷の追手から逃れるため、ここに隠れ住んだとの伝説があります。
つくば市VRツアーの佐都ヶ岩屋古墳を見る!
所在地〒300-4213 茨城県つくば市平沢
(2)佐都ヶ岩屋古墳のVRツアー
画像は、入口・説明板のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮146m、入口・説明板、林道、石室前、石室入口、石室の上で構成されています。

佐都ヶ岩屋古墳の地図


海禅寺:守谷市の平将門の菩提寺の伝説・寺

守谷市の平将門伝説の海禅寺の景観写真とVRツアー リンク
(1)海禅寺のスポット案内
守谷市高野にある海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うため創建した寺と云われています。守谷市指定文化財となっている海禅寺縁起には、将門は妙見菩薩を崇拝し、そのご加護により伯父の国香を討ち果たし関東八州を制したと記されています。海禅寺には将門の娘である如蔵尼の持仏だったとされる本尊、将門および七人の影武者の墓とされる供養塔、平将門の子孫とされる相馬氏の位牌があります。
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所在地〒302-0125 茨城県守谷市高野1337
(2)海禅寺のVRツアー
画像は、海禅寺の境内の360°パノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮147m、階段下、境内、向拝、手水舎、七騎塚、縁起説明板で構成されています。

守谷市の海禅寺の地図


海禅寺の七騎塚:守谷市の平将門の「影武者」伝説

守谷市の平将門伝説の七騎塚の写真とVRツアー リンク
(1)七騎塚(しちきづか)のスポット案内
平将門には七人の影武者がいたと云われており、守谷市にある海禅寺の境内には七騎塚と呼ばれる墓があります。将門と七人の影武者の供養のため八基横一列に並んでおり、江戸時代に建てられたとされています。
守谷市VRツアーの海禅寺を見る!
所在地〒302-0125 茨城県守谷市高野1337
(2)海禅寺の観光VRツアー
画像は、海禅寺の七騎塚のパノラマ写真のVRです。

海禅寺の七騎塚の地図


日枝神社:守谷市の平将門と藤原純友の「大鈴」伝説

守谷市の平将門伝説の日枝神社の写真とVRツアー リンク
(1)日枝神社のスポット案内
守谷市鈴塚にある日枝神社には、承平天慶の乱で共に反乱を起こした平将門と藤原純友が、互いの戦勝祈願のため神社裏に大鈴を埋めたという伝説があります。
守谷市VRツアーの日枝神社を見る!
所在地〒302-0126 茨城県守谷市鈴塚184184
(2)日枝神社のVRツアー
画像は、海禅寺の手水舎のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮147m、階段下、鳥居、手水舎、向拝、石仏で構成されています。

日枝神社の地図


桔梗塚:取手市の平将門の愛妾「桔梗の前」の墓伝説

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取手市の平将門伝説の桔梗塚の写真とVRツアーのリンク
(1)桔梗塚のスポット案内
取手市米ノ井の国道294号沿いにある桔梗塚は、平将門の愛妾とされる桔梗御前のお墓と伝えられています。将門が討たれたと聞きこの地まで逃げてきた桔梗御前でしたが、敵の手により最後を遂げた場所とされています。以降、御前の恨みによりこの辺りの桔梗は花を咲かせないという伝説が残ります。
取手市VRツアーの桔梗塚を見る!
所在地〒302-0033 茨城県取手市米ノ井 国道 294 号線
(2)桔梗塚のVRツアー
画像は、説明板のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、説明板、塚正面、塚裏で構成されています。

桔梗塚の地図


平将門土偶之墓:取手市の将門の土偶伝説

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取手市の平将門土偶之墓の写真とVRツアーリンク
(1)平将門土偶之墓のスポット案内
取手市市之代の道路の路肩に、平将門土偶之墓がひっそりと祀られています。明治時代の道路改修工事で甲冑姿の武士の土偶が出土され、平将門の土偶として石碑が建てられ元の場所に埋め戻されました。
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所在地〒302-0037 茨城県取手市市之代
(2)平将門土偶之墓の観光VRツアー
画像は、平将門土偶之墓正面のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、空撮148m、墓正面で構成されています。

取手市の平将門土偶之墓の地図


相馬惣代八幡宮:取手市の平将門の出生地の伝説

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取手市の平将門ゆかりの地の相馬惣代八幡宮の写真とVRツアー リンク
(1)相馬惣代八幡宮のスポット案内
取手市寺田にある相馬惣代八幡宮は、諸説ある平将門の出生地の一つです。平将門の母(良将の妻)は犬養春枝の娘で、取手市寺田付近の豪族であったとされています。当時は母方の実家で子供を産む習わしがあったため、幼少期「相馬の小次郎」と呼ばれた平将門はこの辺りで生まれ育ったとされています。また、茨城県神社誌には、大同二年(802年)守谷西林寺二世寛海法師、山城国岩清水八幡の御分霊を当所に鎮祭。平将門の崇敬社、のち守谷城主相馬家累代の氏神と記載されています。 ※茨城県神社誌(昭和48年発行・茨城県神社庁)
取手市VRツアーの相馬惣代八幡宮を見る!
所在地〒302-0021 茨城県取手市寺田4816-1
(2)相馬惣代八幡宮の観光VRツアー
画像は、相馬惣代八幡宮の鳥居前のパノラマ写真のVRです。このVRツアーは、鳥居前、参道、手水舎、向拝で構成されています。

相馬惣代八幡神社の地図


蛟蝄神社:下総国の延喜式式内社

利根町の蛟蝄神社門の宮の鳥居景観写真

蛟蝄(こうもう)神社は、関東最古の水神様で下総国の延喜式内社です。
現在の利根町は、平安時代には下総国相馬郡でした。
蛟蝄神社の詳細は、当サイトの利根町の蛟蝄神社の案内ページをご確認ください。蛟蝄神社は、門の宮と奥の宮があり、門の宮がはじまりです。写真は、現在の門の宮の写真です。茨城県神社誌(昭和48年6月20日発行・茨城県神社庁)の蛟蝄神社の由緒沿革の記載に「第十六代朱雀天皇の御代、平将門の崇敬社」の記載があります。相馬郡は、平安時代にもあり、平将門は、参拝していたと考えられます。

所在地〒300-1616 茨城県北相馬郡利根町立木882(地図)

電話0297-68-7278

参考蛟蝄神社 公式Website


蛟蝄神社 門の宮の地図


平将門ゆかりの地:参考文献

  • 坂東の風雲児 平将門 発行者:岩井市長 発行日:1993年12月発行
  • 坂東市本 正門記 発行者:坂東市立資料館 発行日:令和2年9月1日第三刷発行 
  • 茨城県史料 古代編 発行者:茨城県知事 発行日:昭和54年9月30日第4冊発行
  • 平将門と東国武士団 著者:鈴木哲雄 発行日:2019年4月1日第三刷発行 発行所:吉川弘文館
  • 平将門 その真実 著者:塩野浩 発行日:2021年2月20日 発行所:青山ライフ出版(株)