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平将門の冤罪証明:平将門の乱は無かった


常陸国府の襲撃は無かった

平将門が常陸国府を襲撃したとされるが、律令制度上必須の「国司による謀反急報」や「国印強奪の報告」が一切残っておらず、太政官符にも襲撃・火付け・新皇宣言など重大事実が記載されていない。このため、将門記の描写は誇張で、実際には玄明問題の調停目的で常陸国府へ向かった。将門の乱は、国司や貴族の利権構造が生んだ政治的な冤罪的処理だったと考えられる。

詳しくは、冤罪証明1:常陸国の襲撃は無かった:茨城VRツアーのページでご案内しています。


上野国の襲撃、新王宣言と除目は無かった

将門記の新皇宣言や除目は、史料・律令制度から見て虚構と考えられる。上野国府襲撃の証拠や国司の文書は存在せず、国司も処罰されていないため、実際の襲撃はなかった。将門は律令と忠義を重んじる法知識人であり、大逆となる新皇宣言や除目を行うはずがない。藤原氏は将門討伐の大義名分を得るため、上野国での「新皇宣言」物語を創作したと考えられる。

詳しくは、平将門の冤罪証明2:将門記の新皇宣言・国司の徐目の実施は虚偽記載:茨城VRツアー:のページでご案内しています。


太政官符のフィクション

平将門追討の太政官符は、最重要罪状である「謀反」「新皇」「除目」が一切記載されず、内容は将門の悪行誇張と地方武士への懐柔策に終始している。これは本来の追討令として成立せず、朝廷が法的証拠を欠き、私戦を繰り返す武士に依存せざるを得なかった苦境を示す。罪状不記載は事実が存在しなかった可能性を示し、将門記は朝廷側の後世的な政治的フィクションと考えられる。

詳しくは、平将門冤罪の決定的証拠:平将門追悼の太政官符に謀反・大逆の罪状未記載:茨城VRツアーのページでご案内しています。


平安時代から現在までの評価

平将門の評価は時代・地域・政治体制で大きく変化し、平安期は「謀反人」、鎌倉期は「武士の祖」、江戸期は「守護神」、明治以降は「反乱者」として固定化された。だが関東では一貫して英雄として祀られ、勝者のはずの貞盛は痕跡が乏しい。戦後は史料批判が進み、将門は在地領主の代表として再評価され、反乱の実在性も再検討されている。

詳しくは、平安時代から現在に至る平将門と乱の時代評価:茨城VRツアーのページでご案内しています。


平安時代の人治政治の実態

奈良・平安期は律令が形骸化し、官位売買・受領の搾取・成功や重任など賄賂制度が横行した。国司は税を中央貴族へ献上し地位を保ち、遥任で地方統治は崩壊。桓武・宇多・醍醐天皇は監査強化や荘園整理で改革を試みたが、貴族政治の腐敗は止まらず、地方豪族や農民の困窮を深めた。こうした構造が東国社会の不満と武士の台頭を促した。

詳しくは、奈良・平安時代の反乱と平安時代における貴族政治と賄賂制度:茨城VRツアーのページでご案内しています。


平将門の乱とその他の乱の違い

実際に奈良・平安期の各地で起きた反乱と、平将門の乱の大きな違いは、朝廷側が将門の正当性を崩せなかった為、乱として仕組まれたものだったという事です。
将門の法律家としての能力、地域の農民や豪族らからの領主としての信頼に、朝廷は対向できないと把握していた。その為、朝廷及び国府の人治ネットワークに勝てないと判断し、反乱として工作された乱であった。

詳しくは、奈良・平安時代の貴族政治がもたらした地域の反乱:茨城VRツアーのページでご案内しています。