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平将門の乱は何か、なぜ地域で英雄なのか、乱は無かった!


平将門の乱とは何か、なぜゆかりの地で英雄なのか

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『平将門の乱は、平安時代中期の939年から940年にかけて起こった乱です。平将門は、常陸国府を襲撃して合戦・放火を行い、国印などを奪いました。さらに上野国府や下野国府も襲撃・占領し、下野国府にて「新皇」を宣言して独自の除目を実施しました。これらを謀反とみなした朝廷から追討命令が出され、最終的に平貞盛や藤原秀郷らによって討たれ、乱は終結しました。』

上記は一般に知られている平将門の案内です。

まず、養老律令の律(刑法)では、「謀反」を起こさない限り、追討を受けることはありません。今の刑法では、内乱罪と言います。上記の文章で、常陸国を襲撃、放火し国印を奪った場合、及び上野国で平将門自ら新王宣言をし「除目」(官僚や国司の任命をする事)を行った場合、謀反の罪になります。また、合戦中・逃走中という場合には、裁判を経ずに追討する事が出来ます。しかしながら、一千年に渡り平将門は関東各地において英雄として寺や神社に祀られてきました。今回、当茨城VRツアーで現地調査を含めて様々な観点から調査した結果、常陸国府の襲撃は無かった事、及び上野国の新皇宣言や除目の実施は無かった事を以下の通り証明しました。


平将門の乱は真福寺本「将門記」が証明となっている

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真福寺将門記は、平将門の乱の終結後、約160年後の1099年に比叡山延暦寺の源信が写本した物です。しかしながら、源信が誰かは判っていません。この将門記の内容に基づいて、平将門は謀反人とされています。また、関連資料として、扶桑略記という朝廷の太政官符をまとめた本がありますが、その本が完成したとされる年は、1094年以降です。太政官符というのは、太政官(朝廷)が発行する命令書です。この中に、平将門追捕の太政官符が発行されています。乱があった場合法律では、国府は朝廷に対して、即座に解文(報告書)を提出しなければならない事が決まりでした。当時の関白・太政大臣の藤原忠平の日記が存在し、貞信公記と言います。しかしながら、これも原本が存在せず、複写本が多数存在し、複写本を『貞信公記抄』と言い、最古の物として九条家本貞信公記抄が存在します。九条家本の鎌倉時代の初期といった感じで250年もあとの話なのです。実際にこれらの資料と地域の地形、歴史、ゆかりの地の取材内容及び参考文献、ウィキペディア等のインターネット情報、GoogleGemini等の生成AIで調査をした結果、平将門の乱は無かったという結論に達しました。基本的な考え方は、当時の法律である養老律令や格式等法律や規定に照らしてどうなのか、物理的、時間的、距離的に成り立つ話なのかという検証の結果です。
本サイトは、茨城県内60数ヶ所の平将門のゆかりの地を取材した結果、ゆかりのある地域では、平将門は謀反人扱いされいない、むしろ英雄として親しまれている客観的事実に基づいて、調査を行ったものです。あくまで、謀反が無かった事を証明するのを目的としているもので、実際にどのように抹殺され、将門が亡くなったのか、については調査をしていません。それについては、身内の裏切り等様々考えられますが、少なくとも将門記に記載されている「下野の戦い」から始まる合戦で亡くなったものではないという事は今回概ね証明しています。


平将門の冤罪証明の前提条件

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  1. 将門記に記載されている平将門の乱は、明らかにフィクションだと考えられる期間があります。その期間は、武蔵国の調停における国司の源経基の疑告訴事件(天慶2年(939年)6月9日)から、常陸国の襲撃事件(天慶2年(939年)11月21日)が別れ目です。すなわち、常陸国襲撃事件の日から平将門の亡くなる日の(天慶(940年)3年2月14日)記載内容期間、及び将門記の事後処理記載内容を含めた最後まです
  2. 本サイトにおける冤罪証明における法律は養老律令です。 延喜格は、醍醐天皇が、主に荘園や朝廷内の政治の取り締まりを強化したもので908年に公布されています。本来、延喜格を採用したいところですが、延喜格の原本が存在していないため利用できません。 なお、刑法は、古代でも現在でもほぼ条文の内容は変わりません。刑法は、治安維持のための法律で人類の最初の法律です。 大体、平安時代の貴族に都合が悪い書類は、ほとんどありません。本来、延喜格式は、今でいう『小六法』のような内容で、刑法=各 式=行政法・民法です。 式だけ残っていて、格が無いというのも不思議な話なのです。本来、全国の国府(66か国2島)2冊程度、二官八省は各省に4冊程度、検非違使庁に10冊、その他貴族の文庫日本の大きな寺や神社には1冊程度存在しないと、業務は不可能だと考えられます。京都が度々火事になり、消滅したとされている理由はとても信じがたいのです。

将門記及び一般に言われている平将門の乱とは

将門記に記載されている 平将門の乱は、明らかにフィクションと考えられる内容が、武蔵国の調停における国司である源経基の疑告訴事件(天慶2年(939年)6月9日)から、平将門の亡くなる日の(天慶(940年)3年2月14日)内容期間、事後処理内容までです。


適用の法律:養老律令

冤罪証明をするに当たって、基本的な法律の考え方は、養老律令に沿っています。延喜格は、醍醐天皇が、主に荘園の取り締まりや、朝廷の官僚、地域の役人の不正取締りを強化したもので、本来、延喜格式を採用したいところですが、延喜格が現在存在していないため利用できません。 なお、刑法は、古代でも現在ほぼ条文の内容は変わりません。刑法は、治安維持のための法律であり人類の最初の法律です。 平安時代の貴族政治において都合が悪い書類は、現在ほとんど存在を確認することは出来ません。本来、延喜格式は、今でいう『小六法』の様な内容で、刑法=各 式=行政法・民法です。 式だけ残っていて、格が無いというのも不思議な話なのです。本来、全国の国府毎に3冊程度(66国2島)、二官八省は各省に5冊程度、検非違使庁に5冊、その他貴族の文庫日本の大きな寺や神社には1冊程存在しないと、業務は不可能だと考えられます。数百冊は全国に存在していたであろう物が、京都の火事で消滅したとされている事は、とても信じがたいことでああう。


各冤罪証明に必要な証拠・あるはずの証拠

必要な証拠とは、その事柄における当時又は後世に移し等が残っているものです。あるはずの証拠は、そこに記載された内容から判断される書類があるはずと断定されるものです。例えば、再三、納税を催促していると話が記載されていれば、浮浪人ではなく戸籍・計帳があるという事です。国司は、家畜でも生産物でも、居宅でも差し押さえしなければなかったという話があります。謀反の場合には、緊急事態であるため国司はその旨を即刻報告しなければならないと法律の条文に定められています。それを履行しなかった場合には、単に罷免されるだけでなく重罪になります。故意や協力者だった場合、極刑になる可能性もあるという事です。

1.常陸国府の襲撃がなかった証明
(1)将門記(『真福寺本』 仮称『源信』1099年)、(2)藤原玄明の戸籍・計帳、(3)常陸国府の朝廷への藤原玄明の謀反等の解文、(4)藤原玄明追捕等の太政官官符、(5)常陸国府の朝廷への平将門の謀反の解文、(6)平将門追捕の太政官官符、(7)貞信公記抄の日記記載(8)常陸国府の地理院地図付近図、(8)石岡市の常陸国府の発掘調査結果
2.上野国府の襲撃がなかった証明
(1)将門記、(2)常陸国府の朝廷への藤原玄茂の謀反の報告、(3)除目のリスト(藤原玄茂?)(4)上野国府の朝廷への平将門の謀反の解文、(5)平将門の九条家等に伝来した『貞信公記抄』(記載なし)
3.平将門追捕の太政官符がなかった・発送されていない証明
(1)将門記、(2)平将門追捕の太政官符(扶桑略記)、(3)平将門の九条家等に伝来した『貞信公記抄』(記載なし)
4.貞信公記抄の改ざん・未記載
(1)将門記、(2)平将門の九条家等に伝来した『貞信公記抄』、(3)平将門追捕の太政官符(扶桑略記)

平将門の冤罪証明1:平将門の乱・常陸国府の襲撃は無かった!

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以下の2つの観点から証明しています。

(1)藤原玄明は、法律的、現実的判断、地形的・時間的判断から、非現実であるため100%架空の人物と断定しています。

(2)将門記で常陸国府の襲撃は、地理的・地形的・軍事的に本当に可能だったかどうか。国印は存在したのか、火災はあったか。についても、捏造であることを証明しています。

平将門が常陸国府を襲撃したとされるが、律令制度上必須の「国司による謀反急報」や「国印強奪の報告」が一切残っておらず、太政官符にも襲撃・火付け・国印強奪など重大事実が記載されていない。このため、将門記の描写は捏造であり、実際に藤原玄明がモデルとして存在していたとしても。将門の乱は、国司や貴族の利権構造が生んだ政治的な捏造だったと考えられます。

詳しくは、冤罪証明1:常陸国の襲撃は無かった:茨城VRツアーのページでご案内しています。

※写真は、国王印神社のご神体である茨城県の指定文化財である「寄木造 平将門の木像」の写真です。本写真データは、坂東市観光協会から神社の利用許可の確認を取っていただき、データを提供いただいたものです。本画像は自由に活用いただけません。


平将門の冤罪書2:平将門の乱・上野国の襲撃、新王宣言と除目は無かった!

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上野国襲撃は無かった事を、以下2つの観点から証明ができます。

(1)藤原玄茂は、100%架空の人物という証明です。常陸国掾の藤原玄茂は、延喜式上あり得ません。常陸国は、大国、新王任国であり、常陸大掾と少掾であり、そのそも無い職位を利用することも犯罪です。また、常陸国府の国司が上野国の襲撃に加わり、新皇宣言の宣旨や除目の決定、宣旨を行うこと自体あり得ないのです。藤原玄茂自身が、謀反になってしまいます。また、将門軍の副将軍もあり得ないのです。よって平将門が会ったこともない架空人物なのです。

(2)将門記において平将門は、新皇宣言自体、文書でも口頭でも意思表示をしていません。八幡大菩薩の巫女が突然現れ、勝手に言い放ったことです。除目の決定も発表も行っていません。上野国府襲撃の証拠や国司の文書は存在せず、国司も処罰されていないため、実際の襲撃はなかったという話です。将門は律令と忠義を重んじる法知識人であり、大逆となる新皇宣言や除目を行うはずがないのです。藤原氏は将門討伐の大義名分を得るため、上野国での「新皇宣言」物語を捏造したのです。すべて、現実離れした漫画のような話なのです。

詳しくは、平将門の冤罪証明2:将門記の新皇宣言・国司の徐目の実施は捏造記載:茨城VRツアー:のページでご案内しています。


平将門の冤罪証明3:平将門追捕の太政官符は捏造文書だった!

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平将門追捕の太政官符は、最重要罪状である「謀反」「新皇」「除目」が一切記載されず、内容は将門の悪行誇張と地方武士への懐柔策に終始しています。また、法律用語が利用されていない事、仏教語が多数利用されていることにより、捏造文書であることが明確です。これは本来の追捕令として成立せず、朝廷が法的証拠を欠き、裏で私戦を繰り返す武士に依存せざるを得なかった苦境を示しています。罪状不記載は事実が存在しなかった可能性を示し、将門記は朝廷側の後世的な政治的捏造文書だと言うことを裏付けている様なものです。なお、貞信公記抄にも記載されていない事でも証明する事が出来ます。

詳しくは、平将門冤罪の決定的証拠:平将門追捕の太政官符に謀反・大逆の罪状未記載:茨城VRツアーのページでご案内しています。


冤罪証明4:貞信公記の未記載(国府3件の襲撃と将門追捕の太政官符発行)

平安時代中期の関白・藤原忠平が記した『貞信公記』をはじめとする、当時の男性貴族の漢文日記(古記録)の記載目的は、現代のような個人的な感想や内面の吐露ではなく、「政務や儀式の先例(有職故実)を蓄積し、子孫へ伝えるための業務マニュアル」としての役割が主でした。
そのため、重要な政治決断や報告は、必ず日記に記載したはずです。特に平将門の常陸国や下野国、上野国への襲撃や放火や、国印・正層の鍵の略奪や穀物等の強奪、新皇宣言や除目の決定等が実際に会ったのであれば、必ず残したはずなのです。
また、平将門追捕の太政官符も実際に発行していたならば、その意思決定に自ら関わっているのであり、日記に書かないはずがありません。しかしながら、これらの政治的な重要事項が、貞信公記抄には残されていないのです。本件の証明は、別途、九条家本「貞信公記抄」による平将門の冤罪証明のページをご確認ください。


茨城県:県西地域、千葉県:北西地域、旧下総国では平将門は英雄とされている事実

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平将門が亡くなってから約1000年が過ぎていますが、旧下総国の平将門の活躍した地域では今でも謀反人扱いされることなく、神社や寺で祀り、地域の英雄的な存在とし地域のゆかりの地が保存されています。このことから、平将門は謀反人では無かったことが、客観的な事実ではないでしょうか。何よりも地域のゆかりの地が平将門の冤罪を証明している証拠です。

詳しくは、平将門ゆかりの地:茨城VRツアーのページでご案内しています。


平安時代から現在までの評価の状況証拠

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平将門の評価は時代・地域・政治体制で大きく変化し、平安期は「謀反人」、鎌倉期は「武士の祖」、江戸期は「守護神」、明治以降は「反乱者」として固定化されました。しかし、関東では一貫して英雄として祀られ、勝者であるはずの貞盛の痕跡が乏しいのが事実です。戦後は史料批判が進み、将門は在地領主の代表として再評価され、反乱の実在性も再検討されています。

詳しくは、平安時代から現在に至る平将門と乱の時代評価:茨城VRツアーのページでご案内しています。


平安時代の人治政治の実態

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奈良・平安期は律令が形骸化し、官位売買・受領の搾取・成功や重任など賄賂制度が横行しました。国司は税を中央貴族へ献上し地位を保ち、遥任で地方統治は崩壊。桓武・宇多・醍醐天皇は監査強化や荘園整理で改革を試みたが、貴族政治の腐敗は止まらず、地方豪族や農民の困窮を深めた。こうした構造が東国社会の不満と武士の台頭を促したとされています。

詳しくは、奈良・平安時代の反乱と平安時代における貴族政治と賄賂制度:茨城VRツアーのページでご案内しています。


平将門の乱とその他の乱の違い

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実際に奈良・平安期の各地で起きた反乱と、平将門の乱の大きな違いは、対田の将門は、939年月朝廷側が将門の正当性を崩せなかった為、乱として仕組まれたものだったという事です。
将門の法律家としての能力、地域の農民や豪族らからの領主としての信頼に、農地開拓・灌漑工事、牧場の経営・馬の取引、製鉄所の運営、桑や麻の栽培と絹や麻の生産・販売等地域経済の振興、軍事力に対して朝廷は対向できないと把握していた。その為、朝廷及び国府の人治ネットワークに危機的な状況陥ると判断し、反乱として工作された乱であったと考えられます。

詳しくは、奈良・平安時代の貴族政治がもたらした地域の反乱:茨城VRツアーのページでご案内しています。


真福寺本の将門記の著作者の決定的なミス


下総国から下野国の境界線地

下総国から下野国の境界線地は昔から平らな土地でした。そもそも常陸国の名前の由来は、《行き来する道路が、大きな川や海の入り江に遮られることなく、郡や郷の境界が山や川で途切れることなく一続きに続いている。そのため、まっすぐ通じる道(直道=ひたみち)という意味を取って国名とした》と言われています。現在の下記掲載の地形地図を見ても分かるように高低差がほとんどありません。※中心に下妻市、その下左右には坂東市と常総市が並んでいます。地図左下の標高(中心の下妻市)は20.6mと表示され、標高も高くない事が分かります。


京都の地理院地図の識別標高図

京都周辺の地形図です。前の記事で紹介した下総国から下野国の境界線地とは全く異なる地形です。山に囲まれ、高低差のある場所で育ち、京都周辺しか知らない人であれば、常陸国や下野国は、平坦な土地が広大に広がっていたことを想像するのは難しかったのではないでしょうか。なので、将門記の文章中にも争いが起きたとされる平地で、「高い山に登って・・・」などと書いてしまったのではないでしょうか。地形を理解していない人が記述した事が分かってしまう致命的ミスです。