将門記の平将門の乱とは、平将門の謀反は無かった科学的証明!
- 平将門のゆかりの地による冤罪証明
- 物理的・法律的・科学的な証明
- 平将門の乱の証拠は真福寺本の「将門記」
- 常陸国府の襲撃は無かった
- 上野国の襲撃、新王宣言と除目は無かった
- 平将門追捕の太政官符は偽造文書
- 貞信公記に平将門の乱未記載
- 平安時代から現在までの評価
- 平安時代の人治政治の実態
- 藤原氏の政敵の排斥・天皇の廃立
- 平将門の乱とその他の乱の違い
- 平将門の冤罪証明の前提条件
- 真福寺本:将門記の決定的ミス
- 平将門のゆかりの地
- 平将門
- 平将門の乱
- 時代背景
- 将門の家系図
- 平将門人物像
- 真福寺本将門記
正門記の平将門の乱とは、ゆかりの地と将門記等から判明した謀反の捏造

以下の文章は、一般に知られている平将門の乱の簡単な説明です。
『平将門の乱は、平安時代中期の939年から940年にかけて起こった乱です。平将門は、常陸国府を襲撃して合戦・放火を行い、国印などを奪いました。さらに上野国府や下野国府も襲撃・占領し、上野国府にて「新皇」を宣言して独自の「除目」を実施しました。これらを謀反とみなした朝廷から追討命令が出され、最終的に平貞盛や藤原秀郷らによって討たれ、乱は終結しました。』
まず、養老律令の律(刑法)では、「謀反」を起こさない、「謀反の計画」を立案しない限り、反乱の追討を受けることはありません。今の刑法では、内乱罪と言います。将門記に記載されているように常陸国府を襲撃、放火や国印を実際に奪った場合、及び上野国府で平将門自ら「新王宣言」をし「除目」(官僚や国司の任命をする事)を行った場合、謀反の罪になります。また、合戦中・逃走中という場合には、裁判を経ずに追討する事が出来ます。しかしながら、一千年に渡り平将門は関東各地において英雄として寺や神社に祀られてきました。茨城VRツアーにおける「平将門のゆかりの地」の取材で不思議なことに気が付きました。将門ゆかりの地では、敵味方関係なく取材しました。未処理の記事を含めると65ヶ所程取材しています。本来、養老律で最も重い罪である反乱を起こしたはずの平将門が寺や神社に祀られている事、将門側の関係のゆかりの地はそのほとんどが今でも手入れされ守られているのです。一方、勝者である平貞盛については、誕生の地である現在の筑西市の東石田地区にも何も無いのです。貞盛の親である平国香の墓の候補地が2ヶ所(畑の中の丸い石と民家の屋敷の複数の板碑)あり、地区の公民館のところに荘園開発に貢献した平国香の説明板がありますが、その中に平貞盛のことは記載されていません。この謎を解きあかすため、将門記等一通りの本を読んでみました。そこで、将門が地域において何をしていたのか、遺跡の説明等を総合的に見るとアダムスミスの国富論と道徳感情論に近い内容であることに思えてきました。そこで、平安時代の貴族政治がどうだったのかも含めて調査すると様々な問題があることが判明しました。そこで、反乱は「律=刑法」で謀反なのであり、それぞれの出来事を律令(律=刑法・令=主に行政法・一部民法)に当てはめた場合、どのようになるかを当時の養老律令に基づいて様々に調査してみました。
当茨城VRツアーで現地調査を含めて様々な観点から調査した結果、将門記に記載されている常陸国府の襲撃は無かった事、及び上野国の「新皇宣言」や「除目の実施」は無かった事、「平将門追捕の太政官符」は捏造文書であることを以下の通り科学的に証明することができました。
※写真は、坂東市観光協会から国王神社の承認を得て提供いただいた茨城県指定 有形文化財 彫刻「寄木造 平将門の木像」の写真です。
元文3年(1738)に編纂された神社縁起書によると、将門戦死の際、母と共に奥州に逃れた三女が成人後出家して、如蔵尼(にょぞうに)となり、将門の最期から三十二年が過ぎたあるとき、岩井に来て父の像を刻み、小祠(しょうし)に祀ったといわれています。
平将門の乱が無かった物理的・法律的・科学的証明について
物理的証明とは
法律的証明とは
科学的証明とは
平将門の乱は真福寺本「将門記」が証明となっている
平将門の冤罪証明の前提条件
将門記及び一般に言われている平将門の乱とは
適用の法律:養老律令
各冤罪証明に必要な証拠・あるはずの証拠
平将門の冤罪証明1:平将門の乱・常陸国府の襲撃は無かった!
平将門の冤罪書2:平将門の乱・上野国の襲撃、新王宣言と除目は無かった!
平将門の冤罪証明3:平将門追捕の太政官符は捏造文書だった!
冤罪証明4:貞信公記の未記載(国府3件の襲撃と将門追捕の太政官符発行)
茨城県:県西地域、千葉県:北西地域、旧下総国では平将門は英雄とされている事実
平安時代から現在までの評価の状況証拠
平将門の乱とその他の乱の違い
下総国から下野国の境界線地
下総国から下野国の境界線地は昔から平らな土地でした。そもそも常陸国の名前の由来は、《行き来する道路が、大きな川や海の入り江に遮られることなく、郡や郷の境界が山や川で途切れることなく一続きに続いている。そのため、まっすぐ通じる道(直道=ひたみち)という意味を取って国名とした》と言われています。現在の下記掲載の地形地図を見ても分かるように高低差がほとんどありません。※中心に下妻市、その下左右には坂東市と常総市が並んでいます。地図左下の標高(中心の下妻市)は20.6mと表示され、標高も高くない事が分かります。

京都の地理院地図の識別標高図
京都周辺の地形図です。前の記事で紹介した下総国から下野国の境界線地とは全く異なる地形です。山に囲まれ、高低差のある場所で育ち、京都周辺しか知らない人であれば、常陸国や下野国は、平坦な土地が広大に広がっていたことを想像するのは難しかったのではないでしょうか。なので、将門記の文章中にも争いが起きたとされる平地で、「高い山に登って・・・」などと書いてしまったのではないでしょうか。地形を理解していない人が記述した事が分かってしまう致命的ミスです。

