平安時代から現在に至る時代の評価
平将門の茨城県(下総国・常陸国)における評価
以下の時代ごとの評価を確認すると、時代で評価が大きく変わっているのは理解できると思います。この違いは、おおよそ検討はつきます。初めて知ったことは、「平将門の乱」ということばは、明治まで無かったという点です。私は、大学受験は日本史であったため少々ショックを受けました。
ところで、本サイトでは、茨城県の平将門のゆかりの地を取材しVR化しました。現在までで55件のゆかりの地を発信しています。取材は65件ほど行っています。ここで、不思議なことが起こっています。将門が亡くなってから、1千年以上、立つにもかかわらず、反乱者である平将門を祀る神社や寺、墓や供養塔、将門自身、縁者や関係者に関する場所が今も残っており、説明板があります。その説明板では、反逆者や犯罪者等悪者扱いされていないことです。これは、東京や埼玉県、千葉県の下総国や武蔵野国だった地域でも概ね同じのはずです。一方、歴史的には、勝者であるはずの平貞盛を祀っている寺や神社やゆかりの地等説明板がある場所が全くありません。
平貞盛は、父の本拠地は、常陸国真壁郡石田庄で今の筑西市東石田です。ここに育ち、父の国香が将門との戦いに敗れ、命を落としたため京から戻った場所でもあります。筑西市東石田には、国香の墓の候補地が、農家の庭先の石板が複数ある場所、そこから150メール程離れた場所に丸い石がある場所の2ヶ所あります。常陸国の大掾(3番目の官職)を務めた人物の墓とは思えません。それらの場所の、大通りにある公民館の脇に、「平国香」という筑西市教育委員会の説明板があり、国香がこの地一帯を開拓し貢献したこと、平将門に攻められ亡くなったことが書かれていますが、その説明板にも「平貞盛」の文字はありません。これが将門の歴史を調査する原点になっています。勝者と敗者の歴史上の評価が全く異なり、平将門は地域にとって「善い人」、平貞盛は「悪い人」ということです。この状況は、1千年にわたる地域評価の客観的な状況証拠です。問題は、何故なのか?ということです。平貞盛の常陸国における歴史は、平将門の乱の終結日以降、常陸国の歴史からぷっつりと消えています。
平将門とその乱の平安時代から現在までの時代評価
(1)940年からの平安時代
- 呼称:将門(謀反)・将門追討
- 典拠:『将門記』、太政官符(追討官符)
- 官符名:藤原秀郷・平貞盛らを追討使に任ずる官符(『本朝文粋』所収)
【説明】 平将門は939年に常陸国衙を襲撃し「新皇」を称したため、朝廷は明確に「謀反」と断定し、藤原秀郷・平貞盛らに追討官符を発した。これが後世「平将門の乱」と呼ばれる事件である。当時の公文書では「将門追討」「将門謀反」と記され、事件名としての固定呼称は存在しない。朝廷は東国の動揺を重く見て、藤原忠文を征東大将軍に任じるなど大規模な軍事行動を行った。乱は940年2月に将門が討たれて終息した。
【追記】平将門以降、下総国・常陸国を含めて坂東後は、引き続き貴族の賄賂政治が厳しく行われ、農民や豪族の反乱等おこり、状況は悪化しました。平安時代の後期には、源氏の反乱も起こり、最終的に源平の戦いを経て鎌倉幕府の誕生になります。
(2)鎌倉時代~戦国時代
- 呼称:将門合戦・将門記の乱
- 典拠:『将門記』、将軍実朝の『将門合戦絵』
- 説明:鎌倉武士は将門を「東国武士の先駆」とみなし、事件を「将門合戦」として英雄的に再解釈した。
【時代背景等の説明】
鎌倉武士は、平将門を「東国武士の始祖」とみなし、事件を「将門合戦」と呼んだ。典拠は『将門記』であり、鎌倉幕府三代将軍源実朝は『将門合戦絵』を制作させるなど、将門を武士の鑑として再評価した。朝廷的な「謀反」観よりも、武士社会では「武勇」「自立」の象徴として語られ、事件名も「乱」ではなく「合戦」として英雄譚化した。南北朝・室町期には軍記物語の隆盛とともに将門像はさらに神秘化し、怨霊・武神の両面を帯びる存在として扱われる。寺社縁起にも将門の霊験が記され、東国の在地武士は将門を守護神として祀る傾向を強めた。こうして事件は政治史的反乱ではなく、武士文化の源流として再物語化されていった。
【追記】源平の戦いを経て鎌倉幕府が誕生しました。貴族政治の崩壊は、鎌倉幕府の「守護」「地頭」の設置により、始まり、室町時代には国府が完全になくなりました。その後、戦国時代になり、国毎の武士が国を管理運営する時代に突入し、武士の能力主義によって織田信長天下統一に動き出します。能力主義の代表格は、豊臣秀吉で平安時代にあり得ない、農民出身の関白が誕生することになります。秀吉が亡くなることによって徳川家康が、平将門の本拠とした坂東の地に江戸幕府が作られ、国内が統一され、国内に戦いがない世となります。
(3)江戸時代と平将門
- 呼称:将門殿の乱・将門様
- 典拠:寺社縁起(神田明神・築土神社)、地誌
- 説明:江戸の守護神として神格化され、乱は「将門殿の御事」と敬称化。
【時代背景等の説明】
徳川家康は、平将門を江戸の守り神として、北の守り神として神田明神を配置した。
江戸時代には、将門は「将門公」「将門殿」「将門様」として神格化され、事件は「将門殿御事」「将門殿の乱」と敬称を伴って語られた。典拠は神田明神・築土神社の縁起、地誌『新編武蔵風土記稿』など。江戸幕府が江戸の守護神として将門を祀ったため、町人文化の中でも将門は「江戸の祖」として親しまれた。事件そのものは反乱としてではなく、将門の霊威・加護の源として扱われ、政治的意味は薄れた。むしろ「将門の首塚」伝承など、怨霊信仰と都市伝説が融合し、江戸の宗教文化の一部となった。武士・町人・寺社がそれぞれの文脈で将門を祀り、事件は歴史的事実よりも信仰・伝承の核として受容された。
【追記】
徳川家康は、元は秀吉の命令で江戸に入っていますが、家康は、坂東の位置、地形、生産能力等において江戸の重要性をもともと理解しており、快く引き受けています。徳川家康の決断や政策は、260年間日本に平和をもたらしました。徳川幕府は、以下のような改革を行いました。
(4)明治時代~戦後まで
- 呼称:平将門の乱・承平・天慶の乱
- 典拠:近代歴史学(山川・平凡社辞典)、明治30年代以降の『中学校教授要目』、国定教科書
【時代背景等の説明】
明治以降、歴史学の成立とともに事件名は「平将門の乱」として確立し、さらに年号を冠した「承平・天慶の乱」が学術用語として定着した。典拠は近代歴史学(重野安繹・黒板勝美ら)および近代史料編纂事業である。明治政府は反乱史を国家統治の観点から整理し、将門は「反逆者」として位置づけられたが、民間では依然として信仰が続いた。昭和以降は政治史・社会史・宗教史の多角的研究が進み、将門像は反乱指導者・在地勢力の代表・英雄・神格など多層的に理解されるようになった。現代では事件名は学術的に固定されつつも、地域文化や信仰の中で多様な将門像が共存している。
【追記:江戸から明治にかけて評価が変わった件について】
徳川家康は、対朝廷対策の考慮もあったと思われますが、江戸の守り神としました。
戦後から、現在までにおいて、「平将門」や「平将門の乱」における「将門記」のご記載が多数あること、150年後の写本で原本が無いこと、作者不明であること、軍記物語であり、様々なせつがあります。
戦後の日本国憲法下の日本史教科書の取扱い
現在の日本史教科書における平将門は、朝廷の支配体制に挑戦した「反乱者(朝敵)」と記される一方で、東国における自立した武士の成長を示す「地方勢力の代表」という歴史的意義を持つ人物として、多角的に評価されています。教科書における具体的な記述と評価のポイントは以下の通りです。
- 反乱者としての位置づけ: 山川出版社などの高校教科書では、939年(天慶2年)に常陸・下野・上野の国府を襲撃し、自ら「新皇」を名乗って朝廷の支配を否定した事件(平将門の乱)が記載されています。この点において朝廷に対する「反乱者(逆賊)」として扱われます。
- 現代的な評価のアップデート: 単なる「悪人・朝廷の敵」という一元的な見方から、地方政治に対する不満を背景に立ち上がった「関東の在地領主」や「初期の武士の代表」として描かれるようになっています。国司の苛政に苦しむ農民や地方豪族の利益を代弁し、新しい政治秩序(東国の独立勢力圏)を作ろうとした人物という視点も含まれるようになっています。 このように、教科書では「反乱を起こした事実」を客観的に記しつつ、同時に平安時代中期の「武士の誕生と成長」という歴史的な大きな流れの中で捉えられています。
戦後・日本憲法下の平将門と乱の歴史専門家の研究動向
戦後の平和憲法下(1945年以降)における「平将門」および「平将門の乱(天慶の乱)」の研究と歴史的評価は、戦前の「天皇に反逆した逆賊」という皇国史観の呪縛から解放され、日本社会の構造的転換点として学術的に再定義されるプロセスそのものでした。 平和憲法のもとで学問の自由が保障されたことにより、将門の評価は「道徳的な善悪」から「社会経済史・階級闘争史・思想史」の文脈へと大きくパラダイムシフトしました。 その変遷と評価のポイントは、以下の通りです。
- (1) 皇国史観からの解放と「英雄」への復権
- 戦前の皇国史観(国家神道や天皇中心の歴史観)において、天皇に代わって「新皇」を自称した平将門は、足利尊氏らと並ぶ「三大逆賊」として徹底的に否定的に描かれていました。 しかし、戦後、平和憲法が制定され、信教の自由や学問の自由が確立されると、このイデオロギー的な評価は崩壊します。
- 在地領主の代表としての評価: 将門は「国家への反逆者」ではなく、中央(朝廷)の苛烈な税制や国司(地方官僚)の不正に苦しむ東国の開発領主や民衆の利害を代弁して立ち上がった英雄、あるいは「時代の犠牲者」として好意的に再評価されるようになりました。
- 大衆文化への影響: 1976年には、将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放送されました。これは、かつての「逆賊」が、国家の横暴に立ち向かう人間味あふれる「悲劇のヒーロー」として国民的に受容された象徴的な出来事です。
- (2)唯物史観(マルクス主義歴史学)による「武士の誕生」論
- 戦後初期〜1970年代の歴史学(特に唯物史観が主導した時代)において、将門の乱は「日本における封建制(武士社会)の幕開け」として、非常に重要な歴史的画期と位置づけられました。
- 階級闘争としての解釈: 石母田正らの「中世成立史論」に代表される研究では、将門の乱は「中央の古代律令貴族(搾取層)」に対する「地方の在地の生産者・新興武士層(被搾取層・進歩的勢力)」の矛盾の爆発として捉えられました。
- 「最初の武士」としての将門: 将門が率いた軍勢は、単なる私兵ではなく、東国の土地を自ら開発した「開発領主(在地領主)」たちの連合体であるとされ、これが後の鎌倉幕府(武士政権)へつながる先駆的な動きであったと評価されました。
- (3)実証主義・社会経済史研究による相対化(1980年代以降)
- 唯物史観による「一国平和主義的・進歩主義的」な図式化(貴族=悪、武士=正義)が行き過ぎると、1980年代以降はより緻密な史料批判に基づく実証主義的な研究が進みました。
- 「私戦(身内の争い)」からのエスカレーション: 現代の学説(福田豊彦や海津一朗らの研究)では、将門は最初から「朝廷への反逆」や「独立国家の樹立」を計画していたわけではない、という見方が定着しています。元々は平氏一族内の土地や婚姻をめぐる「私戦(親族間の抗争)」であり、それに伴う地域の国司とのトラブルを調停しようとした結果、泥沼化して引くに引けなくなり、最終的に「新皇」を担がされるに至ったという「成り行き・受動的」な側面が強調されるようになりました。
- 東国社会の特殊性: 将門の強さの源泉が、東国の広大な牧場から得られる「軍馬」や、独自の「製鉄技術・農具の供給」といった経済基盤にあったことも、考古学の進展とともに明らかにされました。
- (4)思想史・宗教史からのアプローチ(近年の動向)
- 近年では、将門がなぜ「新皇」を名乗るに至ったのか、その精神世界や東アジア情勢に注目した研究も盛んです。
- 天神信仰(菅原道真)との関わり: 将門が新皇に即位する際、朝廷に怨みを残して死んだ菅原道真の霊(天神)からの神託を受けたとされています「将門記」。これは、当時の東国社会において、中央の権威(天皇)に対抗するための精神的支柱として「怨霊・天神」が利用された思想的背景を示すものとして研究されています。
- 東アジアの激動期: 10世紀前半は、大陸で唐が滅亡し(907年)、渤海が滅びるなど、東アジア全体が「王朝交代(易姓革命)」の激動期にありました。将門の乱も、そうした「古い秩序の崩壊と、新しい王権の誕生」という国際的な時代思潮と無関係ではないとするマクロな視点も提示されています。
本サイトの立場
当時の客観的な状況証拠、過去の証拠の矛盾、現在までの地域における客観的な状況証拠、及び当時の「養老律令」や「延喜格」の刑法の適応状況、政治体制や制度により、平将門及びその欄について客観的に評価する立場です。結論は、平将門は謀反・反乱を起こしていない。続きは、漸次、発信いたします。

平将門の評価を時代ごとに分けて見てみると不思議なことが分かります。時代の権力者・政治体制の違い、地域による違い(大きくは関東と関西)、権力者の中央と地域の農民・豪族との相違、その時々の国民の認識が異なります。日本の歴史上、これほど評価が異なる人物は存在しません。例えば、歴史上の人物を善悪で一般的に評価とすると、聖徳太子(厩戸皇子)の評価は、昔も今も「善」で、一方、「道教」は、茨城県や栃木県等の一部地域的に世話になった人はいるものの、一般的には、謀反を起こした「悪」と考えられているはずです。