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平将門と平将門の乱、時代背景について

本ページでは、平安時代中期に起きた「平将門の乱」を中心に、平将門の生涯・家系・一族争いと当時の社会背景をまとめています。


平将門とは

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常総市の豊田館跡の平将門の彫像とVRシーンリンク

平将門は、桓武天皇のひ孫の高望王(平高望)の三男である桓武平氏の平良将の子で、平安時代中期の関東の武将・豪族です。平安時代の貴族社会から武家社会に変わる契機となった朝廷に対する反乱を起こしたとされる歴史上の人物です。
平将門は、延喜3年(903年)に平良将と県犬養春枝(あがたいのいぬかいのはるえ)の娘との間に生まれたと云われ、死没は、天慶3年2月14日(940年3月25日)で「平将門の乱」における「北山の戦い」で流れ矢に当たり死んだと云われています。
当初、一族間の土地の利権、女人問題等の争いから、地域の豪族や国府、朝廷を巻き込んだ戦いに発展しました。
その乱は、「平将門の乱」といわれ、同時期に瀬戸内海で起こった「藤原純友の乱」をあわせて「承平・天慶の乱」といいます。

なお、平将門の乱は、起こった年を「親族間の戦いの開始時期」(将門による国香・源護の殺害)の935年(承平5年)とする説、将門が「常陸国府を攻めた時期」の939年(天慶2年)とする説があり、現在では、常陸国府を攻めた時期の939年(天慶2年)とする説が主流です。また、乱自体も疑問視する説もあります。平将門は、反乱の首謀者とされながら、東国の地域においては、現在でも地域の英雄として様々な伝説が残っており、国王神社延命院をはじめとして将門を祀る神社や寺が多数あります。
しかしながらがら、 生死も含めて今なお謎に包まれており、今でも様々な説があります。


平将門の生涯の概要

平将門の生涯の概要は、様々な資料に基いて作成していますが、説は様々です。

(1)出自(しゅつじ)
平将門は、桓武天皇の曾孫である高望王(たかもちおう)を祖とする桓武平氏の流れを汲んでいます。父は高望王の子で鎮守府将軍の平良将(たいらのよしまさ)で、本拠地は下総国・豊田郡を拠点にしたといわれます。
母(良将の妻)は、相馬郡の豪族の県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるえ)(現在の取手市寺田付近)の娘の説があります。903年に将門が誕生したと考えられています。
(2)都での修行
15歳の頃、父のように官位を得るため平安京に出て、右大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えていた時期があったとされます。滝口の衛士になったものの官位が低く、管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが叶わなかった。将門は、12年ほど在京し、官位が権力者が握っていることで出世の望みが無いこと、原因不明の死により、父が良将が早世したこと等により、930年頃(27歳のころ)帰郷したようです。
(3)親族間の抗争
都から帰郷後、一族である伯父の平国香(たいらのくにか)、平良兼(たいらのよしかね)、平良正(たいらのよしまさ)らと所領や利権において親族間の争いが起こりました。
そこに、将門の舅(しゅうと)の常陸国新治郡の土豪の「平真樹」と、将門の伯父の国香、良兼、良正の3人の舅の「源護」(常陸大掾:ひたちだいじょう、官職)の長年の抗争が加わり、本格的な武力による戦いが開始されました。 結果、野本の戦い(935年)で、源護の3人の息子「扶・隆・繁」と叔父の国香は、戦死し、将門が勝利しました。
(4)「平将門の乱」の勃発
将門は、人望に厚く国司の圧政に悩む東国の豪族から、仲裁や助けを求められるようになりました。
その一人の興世王は、武蔵国の権守(ごんのかみ)という、正任の国守に代わって国務を代行する重要な地位にありました。しかし、興世王は、武蔵国司の源経基や現地の足立郡司である武蔵武芝との間で対立を抱えていました。 興世王からの仲裁依頼により、将門は国司との対立を解決しました。しからしながら、蔵守である百済貞連とも対立し、最終的には任地を離れて下総の平将門のもとに身を寄せることになります。
ついで、常陸国の藤原玄明は年貢の不払い問題などで常陸国司(国守)の藤原維幾(これちか)と対立し、国司から追われる身となります。窮地に陥った玄明は、勢力を拡大していた平将門のもとに身を寄せ、保護を求めました。常陸国司の藤原維幾は、将門に玄明の引き渡しを要求しましたが、将門はこれを拒否しました。
これがきっかけとなり、将門は、939年11月頃に常陸国府を襲撃し、国府を占領して印綬(国司の任命書)を奪い、維幾を京へ追い返してしまいます。
この一件が、将門が朝廷に反旗を翻す、いわゆる「平将門の乱」の直接的な発端となりました。
(5)「新皇」の称
常陸国府襲撃後、将門は破竹の勢いで坂東諸国の国府を次々と占領し、国司を追放していきます。
自らの勢力圏を確立すると、上野国府で939年12月頃に将門は「八幡大菩薩の託宣(たくせん)」を得たとして「新皇」を称し、自ら国司を任命するなど、律令制的な支配体制を模倣した独立政権を樹立しました。これは、当時の朝廷の権威を真っ向から否定するものでした。
(6)「平将門の乱」の終結と将門の終焉
940年1月に朝廷より将門追討の命令が下ります。同月に藤原秀郷、平貞盛らが下野国で将門追討の兵をあげます。
2月に下野の戦い・川口村の戦いで藤原秀郷と貞盛の軍との戦いに敗れました。
天慶3年2月14日(940年3月25日)、下総国猿島郡の北山の戦いで、流れ矢にあたって死んだといわれています。 940年3月25日に生涯を終えました。享年30代半ばとされています。

平将門の乱とは

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平将門の乱(たいらのまさかどのらん)は、平安時代の中期(939~940年)に、関東地方で平将門が起こした大規模な反乱です。 平将門は、常陸国、下総国、武蔵国、下野国の国府を襲撃し、上野国の国府に攻め込んだ折に「親皇宣言」」を行い、朝廷に反旗を翻したと云われる反乱です。 同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と合わせて、「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」と総称されます。


平将門の乱:親族の争い・地域の反乱

将門は、父良将の死後、京から戻りましたが、伯父である平国香・良兼・良正等に領地をとられており、その領地等の問題で対立していました。将門は、935年(承平5年)の「野本の戦い」において、伯父の国香と源衛の3人の息子との戦いで殺害し、本格的な合戦が開始されました。
その後も同族間の対立は続きましたが、税の不払いの問題で常陸国の豪族の藤原玄明と常陸国の国司が対立し、藤原玄明の支援の求めに応じ、結果、939年(天慶2年)年11月に常陸国府を占領し、印鎰(国印と国衙正倉の鍵)を奪うという事件を起こしました。この時点で将門は明確に朝廷に反逆したと見なされ、これが「平将門の乱」の始まりです。なお、常陸国の国府への進軍時点でも将門は、朝廷への反旗を意図はなかったという説もあります。また、「将門記」は、軍記物語であり、平貞盛が京の貴族に根回しして作成したものとする説があり、定かではありません。

この事件の背景には、徴税等様々な理由で国司らともめ事を起こした地域豪族が、将門を頼ってくるようになったことで、将門がその調停のために争いに介入するようになっていったという事情があります。
「将門記」によれば、常陸国府を手中に収めた将門は、その後、支持する地域豪族とともに、武蔵国・下野国・上野国の国府も占領し、「新王(しんのう)」と自称して独立国家の樹立を宣言したとされています。京の朝廷はこの事態を看過せず、天慶3年(940年)正月に藤原忠文を征夷大将軍に任命し、追討軍を差し向けました。しかし、伯父の国香の子である平貞盛と下野国押領使であった藤原秀郷が追討軍の到着に先んじて将門の本拠地を急襲し、将門は「北山の戦い」(940年3月25日)で死亡し終結しました。


平将門と将門の乱の時代背景(律令政治崩壊の序章)

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平将門の生きた関東の時代背景として、当時の下総国、武蔵国、常陸国、下野国等の関東の諸国は、100年以上にわたる朝廷の蝦夷征伐継続やその後の都度の蝦夷の反乱、朝廷又は国府の農民や豪族に対する過重な税や役務負担、飢饉や自然災害の発生等がありました。
特に、現在の茨城県に属する下総国や常陸国地域は、過重な負担がかかっていました。
本件については、茨城県史資料古代編の「三 和銅(708年〜715年)・天長年間(824年〜834年)」~「六 昌平・天慶年間(930年代後半 〜 940年前半)」に、蝦夷征伐における様々な負担、防人の負担、租税や征夷負担に耐えられない農民の陸奥国への集団逃亡、地域の頻繁な反乱、頻発する地震等の天災、全国最大の課税額(正倉院文章等の資料)等をもとに詳細に記載されています。また、農民の戸籍の男女別比率においては、8割女性になっていたことが記載されています。征夷事業に関して、茨城県史資料古代編に「この事実を理解せずに茨城県の古代史を語ることはできない」と記載されています。
そうしたなか、将門は、下総国、武蔵国、常陸国等の農民や豪族の立場に立って行動したとも考えられます。同時に、律令体制の崩壊、地方政治の混乱、武装した開発領主(武士)の台頭が起こった時代でもあります。

将門は、結果的に朝敵となりましたが、その地域において英雄視され、千葉県(下総国地域)・茨城県を中心として東京都、埼玉県、栃木県等日本各地に伝説やゆかりの地が多数残っています。

本サイトにおけるゆかりの地は、茨城県だけですが、未だ戦場等ゆかりの地が取材又は掲載されていない場所が多数あります。


平将門の生涯の概要・歴史年表

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※出典:岩井市「坂東の風雲児 平将門」、坂東市立資料館「坂東市本 将門記 現代語訳」をもとに独自の調査をして補足しております。

年代 関連ページ
889年(寛平元年) 桓武天皇の子孫・高望王(将門の祖父)が東国に下る
903年(延喜3年) 1月 下総国相馬郡で将門誕生(父は良持または良将、母は県犬養春枝の娘とされ、幼少期は「相馬の小次郎」と呼ばれた) 相馬惣代八幡宮
成長して京にのぼり、右大臣藤原忠平に仕える
930年(延喜8年) 相馬御厨の下司として帰国後、石井を開墾し営所を構える(亡き父の営所鎌輪は伯父に奪われていた)
 官牧の経営、鉄の生産、干拓工事、騎馬軍団(坂東武者)の育成を行い民衆の信望を集める
平将門鎌輪之宿址石碑
石井営所跡
常羽御厨兵馬調練の馬場跡
尾崎前山遺跡製鉄炉跡
931年(承平元年) 上総・下総で勢力を持つ伯父の平良兼と対立する(良兼の娘との婚姻や所領問題が原因とされる)
935年(承平5年) 2月 【野本の戦い】源護の息子らに襲われるが平真樹連合軍と破り、源護の息子3人を敗死させる(源護は常陸国真壁を拠点に勢力を持ち、伯父らと姻戚関係にあった) 鹿嶋神社
伯父の平国香を敗死させる 平国香の墓伝承1平国香の墓伝承2
10月 【川曲村の戦い】叔父の平良正(国香・良兼の弟)を破る 水守城址(良正の拠点地)
936年(承平6年) 6月 【下野国境の戦い】良正、貞盛(国香の子)と手を組んだ良兼ら大軍と戦い勝利するが、下野国府に逃げこんだ良兼らを逃がす
10月 源護が朝廷に訴えたため、弁明のため上京
937年(承平7年) 4月 朱雀天皇の元服の恩赦で許され帰国する 九重の桜
8月 【子飼の渡の戦い】良兼らと戦うが、敗れる(勝利した良兼は常羽御厨を焼き払った)
【堀越の渡の戦い】ついで敗れる(将門は脚気を患っていた)
 このとき、将門の妻子が良兼に捕らえられる 深井地蔵尊
10月 良兼の服織の館を攻める 平良兼の館跡(服織の宿)
【弓袋山の対陣】良兼軍は筑波山中(現:八郷町湯袋峠)に逃げこむ 湯袋峠
11月 朝廷より坂東諸国に良兼、貞盛、源護を追討する命令が下る
12月 良兼が石井の営所を夜襲するが、将門が撃退する 島広山・石井営所跡
938年(承平8年) 2月 上京しようとした貞盛を信濃国まで追う
 貞盛は逃れ、将門を朝廷に訴える
939年(天慶2年) 2月 武蔵国の権守興世王と郡司武蔵武芝の争いを調停する
6月 良兼が病気で亡くなる
貞盛が将門追討の官符をもって帰国する
興世王、ついで藤原玄明が将門を頼ってくる
常陸介藤原維幾が玄明の引き渡しを要求してくる
11月 【常陸国府襲撃】玄明を追討しないことを要求し、ついに国府軍との戦いになるが破る 常陸国府跡
12月 ついで下野国、上野国の国府を襲い占領する
巫女のお告げにより、「新皇」を称する 大宝八幡宮
除目を行い、弟や従類を坂東八か国の国司に任命する
藤原忠平に書状を送り、陳情を述べる
 このころ伊予国の藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし朝廷を脅かしていた(承平天慶の乱) 日枝神社
940年(天慶3年) 1月 朝廷より将門追討の命令が下る
藤原秀郷、平貞盛らが下野国で将門追討の兵をあげる 結城諏訪神社
2月 【下野の戦い・川口村の戦い】藤原秀郷、貞盛の軍と戦い、敗れる
【北山の戦い】猿島郡北山で矢に当たり、死ぬ 北山稲荷大明神
4月 将門の首が京に送られる(胴体は神田山に埋められ、現在延命院に胴塚がある) 延命院将門の胴塚
972年(天禄3年) 國王神社が創建される(将門の三女・如蔵尼がいおりを建て霊像を刻んだのがはじまり) 國王神社

平将門の家系図と一族争いの関係図

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平将門の家系図と一族争いの関係チャート図

上記は、平将門の家系図と一族争い関係図です。この一族の争いから「平将門の乱」に発展していきます。一族の争いは、将門が京から戻り、親から相続する領地が国香の領地にされていることへの争いであったものが、双方の縁者でもある平真樹と源護の争いが加わり、武力の争いになったものです。


平将門の一族争いにおける人物説明

平将門の家系図、一族の争いの主な登場人物の説明は、以下の通りです。一部は伝承であり、そのゆかりの場所があることは事実ですが、伝承の内容や説明については矛盾があるもの、推定されるもの等があります。

  • (1)高望王(たかもちおう)将門の祖父

    平将門の曾祖父(桓武天皇の曾孫)です。 寛平元年(889年)に「平」姓を賜り臣籍降下し、桓武平氏の祖で上総介に任じられ、東国に下り、その子孫が坂東平氏として東国に土着しました。
  • (2)平国香(たいらのくにか):伯父

    平将門の伯父で高望王の長男です。 常陸大掾(ひたちだいじょう)や鎮守府将軍を務め、桓武平氏の中心的人物でした。 平将門との一族間の争い(将門の父である平良将の遺領問題や、女性問題などが絡む)により、承平5年(935年)に「野本の戦い」で将門に攻められ、常陸国石田館(現在の茨城県筑西市)で敗死しました。これが「平将門の乱」の直接的なきっかけの一つとされています。国香の子である平貞盛は、将門追討の中心人物となります。
  • (3)平良兼(たいらのよしかね)

    平将門の伯父で高望王の次男です。 上総介や鎮守府将軍を務め、兄の国香が将門に討たれた後、弟の良正や国香の子の貞盛らとともに、将門との戦いを繰り返しました。将門の岳父(妻の父)でもあり、娘が将門のもとへ走ったことが抗争激化の一因とも言われます。天慶2年(939年)に病死しました
  • (4)平良将(たいらのよしまさ):将門の父

    平将門の父で、高望王の三男とされていますが諸説あります。良将の最初の営所は不明であるが、後に県犬養春枝の娘を妻とし、下総国・豊田郡を拠点にしたといわれる。亡くなるまで鎮守府将軍の官職を持っていました。亡くなった原因も諸説あり定かではありません。 「良持」(よしもち)と同一人物とする説と、別人とする説もあります。
  • (5)平良正(たいらのよしなり):将門の叔父

    平将門の叔父です。 常陸国水守(現在の茨城県つくば市水守)を本拠としました。 平将門との争いにおいて、将門と対立する源護(みなもとのまもる)の一族に加勢し、将門との戦いが激化する要因を作りました。良兼や貞盛とともに将門と戦いを繰り広げました。
  • (6)平良文(たいらのよしふみ):将門の叔父

    平将門の叔父です。 通称は「村岡五郎」といわれ武勇に優れた人物として知られます。 「源平闘諍録」などの後世の史料では、将門と伯父たちの争いにおいて将門に味方したと伝えられています。しかし、史実としての関与は不明瞭な点も多いようです。 坂東八平氏の祖とされ、後世の武士団(千葉氏、上総氏など)の祖先とされる人物です。
  • (7)平貞盛(たいらの さだもり):将門の従兄

    平貞盛は、将門の伯父である国香の長男で、将門の従兄にあたります。「野本の戦い」があった承平5年(935年)には、都で左馬允(さまのじょう)として、右大臣藤原忠平に仕えていました。
    将門が父の国香を討った事情を知り、当初、和解を模索する姿勢を見せましたが、父の仇を討つという強い思いから最終的に藤原秀郷と協力し、「北山の戦い」で、将門を討ち取って平将門の乱が終結しました。この功により、貞盛は朝廷から従五位上、後に従四位下へと昇進し、鎮守府将軍や陸奥守などの要職を歴任しました。貞盛の活躍は京都での平氏の地位確立に大きく貢献し、後の伊勢平氏、さらには平清盛の祖となります。なお、「正門記」は作者不詳の軍記物語ですが、「平将門 その真実」(著者:塩野博)において、秀郷の書いたあらすじ文章を京都の貴族が書き換えたものとする説が記載されています。貞盛は、京では「平将門の乱」を終結した英雄ですが、地元に貞盛を祀る伝説の場所がないことは興味深い話です。
  • (8)平真樹(たいらの まき):舅・妻の父

    平真樹は常陸国新治郡の土豪(荘園領主:大國玉神社の領主・宰領)で、平氏の姓を冠していますが、高望王流の桓武平氏とは異なる系統とされています。隣接する源護と所領を巡って度々争っていました。 この争いの調停を将門に依頼したことで、将門が源護と衝突するきっかけを作りました。「将門記」の記述などから、平真樹は将門の初期の行動において「強力な同盟者」として将門に協力していたと考えられています。君の御前は、平真樹の娘です。
  • (9)源護(みなもとの まもる):伯父の舅

    源護は常陸国の有力な在地豪族で、常陸大掾(ひたちだいじょう)という官職にあり、現在の筑西市と桜川市のあたりの赤浜地域を拠点としていました。平氏の一門と積極的に婚姻関係を結び、自身の勢力拡大を図っていました。実際に、自分の娘三人を平国香、平良兼、平良正など、将門の伯父や叔父にあたる人物に嫁がせています。将門が、平真樹のところに向かう途中、源護の息子三人「扶・隆・繁」に待ち伏せされ襲撃にあい、風向き功を奏して撃破しています。これを「野本の戦い」といいます。
  • (10)平良子(たいらの よしこ):将門の妻・従妹

    平良子は、将門の叔父である平良兼の娘で従妹の間柄です。 「将門記」には、良兼と将門が「舅甥の仲」であったと記されており、将門が良兼の娘を妻としていたと解釈されています。この婚姻は円満なものではなく、将門が良兼の反対を押し切って娘を奪い取ったという記述があり、別途、「坂東の風雲児 平将門」には、筑波山の歌垣(かがい)で出会って良兼の娘であることを知り、京に修行に出る前に契りを交わし、戻ってきたときに反対され駆け落ちしたことが記載されています。 これが将門と良兼の対立の一因になったと考えられていますが、将門が反乱を起こす中で、良子の去就については明確な記述がないようです。
  • (11)君の御前(きみのごぜん):将門の妻

    君の御前は、平真樹(たいらの まき)の娘であるという伝承が茨城県桜川市などに残っています。君の御前と将門の出会いについて筑波山の歌垣(かがい)の件が記載さえている伝承もあります。 また、この伝承では、将門記に記される「堀越渡しの合戦」で討ち取られた妻が、実はこの君の御前であったとされています。彼女を弔うために「后神社(きさきじんじゃ)」が建立されたという話も、后神社の説明板に記載されています。
  • (12)桔梗の前(ききょうのまえ):将門の愛妾(あいしょう)

    桔梗の前は、平将門の愛妾とされる伝説上の女性です。その出自(しゅつじ)や最期については、地域によって様々な伝承が存在し、非常に多くの説があります。
    素上については、京都の白拍子であったが将門に見初められたという説、藤原秀郷の妹であり、将門の下女として送り込まれたという説があります。
    主な伝承の共通点としては、将門に深く寵愛されていたこと、藤原秀郷(ふじわらの ひでさ)に内通していたこと、その結果、将門が討たれ、自身も悲劇的な最期を遂げることになったことです。
  • (13)藤原秀郷:平貞盛の母方の叔父

    藤原秀郷は「平将門の乱」を終結した重要人物で、平貞盛の母の兄弟で叔父になります。
    藤原北家魚名流の出身で、下野大掾(しもつけのだいじょう)藤原村雄の子とされます。武勇に秀でていたことから「俵藤太(たわらのとうた)」という別名でも知られています。
    平国香の妻は、正門記では源護の娘ですが、「尊卑分脈」では、藤原氏直系の藤原村雄の娘であり、藤原秀郷は藤原村雄の子であるため、藤原秀郷は貞盛の母方の叔父にあたります。平国香には、二人の妻がいたことになりますが、縁戚で協力して将門を討ったことになります。
    ※「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」は、南北朝時代に成立した諸氏の系図を集大成したもので正式名称は「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」です。
  • (14)藤原維幾

    藤原維幾は、平将門の乱の時の常陸国の「介」で、平野国香、平良将の姉妹(名前不明)の夫です。国香や良将の義理の兄弟で、将門や貞盛の伯父になります。
    常陸国は、大国であり、新王任国制といって天皇の皇子が「守」になることになっていましたが、この時の「守」は歴史上誰だったかの記録がなく不明です。同様に大掾も国香が亡くなってから、次の大掾は誰だかの記録がありません。国司は、太政官符により、決まりますのでその還付がないということはありません。朝廷が何らかの策で指定していなかった可能性があります。よって、「介」が実質的な長官です。国司の業務は、その国の徴税から資金管理、国府の軍、司法まで握れる立間です。今でいう県知事ですが、税務署の所長、検察署の署長、裁判所の所長であり、介は、税の徴収官、検索官、裁判官であり、悪さをしようとすれば何でもできたということで、将門の乱の鍵になる人物です。

平将門の乱の「将門記」における真実性の問題

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平将門や平将門の乱について、様々な説があることについての問題点は、記述の根拠が「将門記」であるためです。なお、「将門記」と「正門記」については、別途説明しますがこの時点では「将門記」と記載します。

「将門記」には、以下のような真実性の根拠の問題があります。

1、原本が無く、原本作者が不明であり、写本であり、軍記物語であること。

2、写本には、主なものとして以下の2つがあり、平将門の乱終結の約160年以降の写本であること。

(1)『真福寺本』
名古屋市の宝生院 真福寺に伝わるもので、承徳三年(1099年)に書き写したという意味の奥書があり、平将門の乱の約160年後の1099年(鎌倉時代中期)に書き写したものです。奥書の署名は、「源信」とあり、何処の僧かは明確になっていません。
真福寺本の冒頭の欠落:多くの写本で冒頭部分が欠けており、真福寺本も将門が最初に一族と争い始めた細かい経緯が完全には伝わっていません。なお、真福寺本では、「正門記」です。
(2)『楊守敬旧蔵本』
明治時代初期に来日した清国人の楊守敬が所持していたとされるもので、楊本ともいう。 真福寺本に比べて欠落部分が多い残欠本です。
結末の不明: 乱が鎮圧された後の処理や、作者の最終的な結びの言葉も、写本によって差異や欠損があります。

二つの写本は、いずれも冒頭部分が失われており、本来の題名はわかりません。 鎌倉時代に成立した扶桑略記には「合戦章」という名称で将門記を引用し、歴代皇紀では「将門合戦状」という名称で引用しています。 また、寛元三年(1245年)に作成された絵巻(吾妻鑑)には「平将門合戦状」と記されており、「平将門合戦状(章)」が本来の名称だったようです。
寛政11年(1799年)に植松有信が『将門記』の名称で真福寺本の木版本を発行し、以降この名称が一般的となりました。


『真福寺本』の「正門記」について

平将門の乱の終結は、天慶3年(940年)2月14日で、新暦では、940年3月25日です。

正門記の巻末の中記があり、「天慶三年六月中旬記之、但其詞多闕、不能具載者也」と記載されています。この【読み下し】 は、「天慶(てんぎょう)三年六月中旬、これを記す。但(ただ)し其(そ)の詞(ことば)多く闕(か)け、具(つぶさ)に載(の)する能(あた)わざる者なり。」です。意味は、源信が書いた「正門記」の原本となった文書は、以下の3つの重要なポイントが記載されています。

(1)源信が記載した正門記の元本の記載時期
天慶三年六月中旬(旧暦:940年6月中旬)、平将門の乱の終結の約4ケ月後に記載されたものであること。
(2)資料の欠落への言及「但其詞多闕」
まず、「ただし、言葉(資料や情報)が多く欠けている」と断っています。これは、乱が終結して間もない時期であったため、まだ全ての詳細な情報を収集しきれていなかった、あるいは手元にある資料が不完全であったことを示唆しています。
(3)不完全であることの認容「不能具載者也
「詳しくすべてを載せることはできなかった」と結んでいます。この謙虚とも取れる一文があることで、逆にこの物語が「後世に創作された物語」ではなく、「同時代の混乱の中で、得られた情報を急ぎまとめた記録」であるという信憑性を高めています。

真福寺本は、冒頭部分が欠落(落丁)しているため、いきなり物語の途中から始まります。そして最後は、将門を討った藤原秀郷や平貞盛らが恩賞を授かる場面で終わります。その直後にこの「天慶三年…」という奥書(メモ)が現れるため、読者に対して「これは事件直後の非常に新鮮な、しかし精一杯の記録である」という強い印象を与える構成になっています。 なお、この記載が、朝廷側(藤原氏)の政治的な圧力があったものであることが否定できないと思われます。

※「中記」(ちゅうき)とは、 平安時代の公家などが書き残した日記や、公式な記録の「中」に記された文章という意味合いがあります。
この一節は、平安時代の歴史書である「本朝世紀(ほんちょうせいき)」などに引用される形で残っています。当時の公卿であった藤原実資(ふじわらの さねすけ)の日記『小右記』など、当時の貴族エリート層が情報を得るための一次ソースに近い役割を果たしていました。
中記の「天慶三年六月」は、新暦の940年の概ね7月頃で、承徳三年(1099年)までは、正門記ではなく、当時は「将門合戦状」や「将門合戦章」などと呼ばれていた可能性が高く、事件の経過を朝廷や関係者に報告するための「報告書(注進状)」に近い性質の記録として認識されていたと考えられます。

また、「将門記」の巻末(奥書)には、承徳三年(1099年)に「源信」という人物が写した旨が記されています。
つまり、将門記(又は正門記)という用語は、存在していなかったということです。


「将門記」の巻末(奥書)について

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源信の記載した「将門記」の巻末(奥書)には、以下の文が記載されています。

「承徳三年正月廿九日、於大智房、酉時許、書き了んぬ。源信。」

【読み下し】:「正門記一巻 承徳三年正月二十九日、大智房において、酉(とり)の時ばかりに書き終わんぬ。源信。」
大智房(だいちぼう)」は、当時、比叡山延暦寺にあったとされる僧坊のことです。
記載の意味は、「平安時代後期の1099年3月3日の(酉時許): 17時〜19時頃(現在の夕方)に、比叡山延暦寺の大智房で、源信が書き終えた。」ということです。真福寺の写本の正門記の成立は、1099年ということです。

※奥書(おくがき)とは、古今和歌集などの古典籍において、写本や版本の末尾に、書写・校合(校正)・読了の年月日、筆者名、経緯などを記した記事のことです。書籍の由来や信憑性を証明する重要な情報源でした。



正門記の編集者の源信とは誰か

巻末の奥書は1099年であり、これを事実とすると、記載される「源信」は、浄土教の祖である 恵心僧都・源信ではありません。
恵心僧都・源信(942–1017)は、平安中期の天台僧で、著書『往生要集』により日本における浄土教(念仏信仰)の基礎を確立した名僧です。穢(けが)れたこの世(穢土:えど)を嫌い、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願う「厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」を説き、法然や親鸞に大きな影響を与えた人物です。1017年に亡くなっているため、恵心僧都の源信ではありません。大智房(だいちぼう)」は、当時、比叡山延暦寺にあったとされる僧坊のことです。恵心僧都の源信が亡くなった82年後に漢文に秀でた学僧の源信がいたという説が有力です。


真福寺本が「正門記」である理由

真福寺本の「将門記」が「正門記」なのかの理由は、以下の3説がありますが、僧の記載としては3の可能性が高いように思われますが、何が正しいかはわかりません。

  1. 「将」の略字・借字説(最有力)当時の写本や古文書では、偏(へん)を省略して書くことがよくありました。「将」の略字として「正」が使われた、あるいは音が似ている(当時はどちらも「ショウ」)ため、単純に当て字として使われたという説です。
  2. 「平正門」説(固有名詞の解釈)「正」には「長」や「頭」という意味もあり、平氏の一族の正統、あるいは「平の親王(新皇)」としての正当性を示そうとした意図があるとする説です。
  3. 忌み言葉(避諱)説「将門」という名は謀反人の名前として強すぎるため、あえて一字変えることで、その霊的な影響を避けたり、記録としての客観性を保とうとしたりしたのではないか、という考え方です。

将門の乱の将門記の情報源と編者

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「正門記」の文体は、当時の日本人が書いた漢文の中でも極めて特異で難解とされています。また、仏教用語や儒教的表現も多数あり、宗教や思想的にもレベルの高い記載内容です。一方、現地の地理や戦い、将門の人間関係等において詳しい情報が記載されています。現地の戦いや将門の人間関係の関係者の情報がもとになっていることが前提です。また、当時の最新の漢文体や仏教用語や儒教的表現に明るい朝廷の文官の貴族又は、最新の漢文体や、仏教や儒教の教理の研究に専念した学僧が編集したと思われます。



正門記は、漢文の中でも極めて特異で難解

  • 体漢文(日本的漢文)純粋な中国の漢文(白文)ではなく、日本語の語順や助詞の影響を受けた「変体漢文」です。しかし、一般的な変体漢文よりもはるかに語彙が豊富で、装飾的であること。
  • 六朝(りくちょう)風」の駢儷体(べんれいたい)四字や六字の句を対にする「四六駢儷体」という中国の古い文体を意識しています。非常にリズムが良く、美文化されていますが、その分、意味を読み解くのが非常に難しい「凝り固まった」表現が多いのこと。
  • 仏教用語と儒教的表現の混在比叡山の僧侶(源信)が関わっていることもあり、仏教的な無常観や、中国の史書(「史記」など)を意識した教訓的な表現が随所にあること正門記又はその元の文章は、誰が編集したものか。

将門記の平将門の乱の情報源

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  1. 当時の公文書・消息(手紙): 将門が朝廷に送ったとされる書状や、平貞盛が朝廷に送った書状、当時の地方官(国司)たちの報告書などの公的な記録がベースになっていること。
  2. 東国の伝承: 将門に近い東国の人物でなければ知り得ないような、戦場の生々しい描写や具体的な人間関係が含まれています。特に、湯袋峠や子飼の渡しは、今でも地図上に記載される場所であるが、現在の地元民でも容易に言える場所ではないこと。
  3. 漢籍・仏典の教養: 中国の史書(『史記』など)や仏教の無常観を説く経典が引用され、単なる記録を超えた「物語」として編集されていること。

1と2に該当する人物は、平貞盛自身及び縁者です。 3は、都の貴族や学僧ということが言えます。


国府と国司・官職と地域の反乱(平将門の乱)

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平将門の乱を考察するにあたって、国府の役割と国司の官位は、重要な考察項目です。
当時、既に国府の長官である「守」は、ほとんど現地には赴任しておりませんでした。京の貴族の役人は、官職(報酬)だけを受け、物騒な地域の役所に赴任することを徐々に行わなくなりました。それを「遥任」といいます。

このこと自体が律令制度を崩壊させていたということです。武力を持った地元の豪族は、ますます富を持ち結果的に武家社会が誕生するわけです。 長官の「守」が実際に国富の会議に出席することも、現地の管理や監視もすることもなかったため、朝廷への決められた税の納付や報告をしていれば、「介」や「掾」の地元豪族の役人が思うように仕切ることができていたということです。 地元の役人は、税の取り立てによって私腹を肥やすことも容易でした。苦しむのは、農民や官職に就けない地元の豪族だったという状況があったということです。

平将門の乱は、朝廷への反乱というよりも、重税等に苦しむ農民や地域の豪族と国府の役人豪族との争いからおこっていたということです。其の利権を握っていったのが京の権力者の藤原氏と国府の介や大掾の役人豪族とその縁戚ネットワークです。平将門の乱が終結し、結果は、治安も乱れ、農民はますます苦しくなったという状況です。平の将門の乱の終結で、利を得たのは誰か、損をしたのは誰かです。損をしたのは、坂東地域の農民や将門側の地域豪族です。利を得たのは、短期的には、第一に平貞盛と縁者、第二に藤原秀郷の縁者、第三に都の藤原氏等権力者です。しかしながら、長期的には、それが逆転していきます。

(1)国府(こくふ)とは
古代から中世にかけての日本において、中央から派遣された国司(こくし)が、その国の政治・行政を執り行った役所、またはその所在地自体を指す言葉です。
行政、軍事、司法、交通・通信の機能もった場所です。
常陸国の場合には、今の石岡市に常陸国府がありました。
(2)国司・官職とは
国司とは、国府の役人のことをいいます。国司というと長官のイメージがありますが、一人ではありません。国府の長官は、「」です。
律令制において、国府には、「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」という四等官が配置されていました。 国の規模によってその構成に加減がありました。 常陸国は律令制で「大国」(たいこく)に分類されていたため、他の一般的な国よりも役職が細分化されていました。
常陸守(かみ)・常陸介(すけ)・常陸大掾(だいじょう)・常陸少掾(しょうじょう)・常陸大目(だいさかん): 常陸少目(しょうさかん)

平将門の乱、時代背景に関する参考文献

  • 坂東の風雲児 平将門 発行者:岩井市長 発行日:1993年12月発行
  • 坂東市本 平将記 発行者:坂東市立資料館 発行日:令和2年9月1日第三刷発行 
  • 茨城県史料 古代編 発行者:茨城県知事 発行日:昭和54年9月30日第4冊発行
  • 新編将門地誌 著者:赤城宗徳 発行所:筑波書林 発行日:1986年12月15日発行
  • 平将門と東国武士団 著者:鈴木哲雄 発行日:2019年4月1日第三刷発行 発行所:吉川弘文館
  • 平将門 その真実 著者:塩野浩 発行日:2021年2月20日 発行所:青山ライフ出版(株)

2026年5月:記載者 株式会社つくばマルチメディア者:小田部 文彦