「貞信公記抄」の解文(報告書と)と平将門の乱の有無
- 「貞信公記」と「貞信公記抄」
- 貴族政治家の日記記載の目的
- 九条家本の「貞信公記抄」
- 貞信公記と太政官符
- 国府謀反報告の調査結果
- 貞信公記により謀反無かった!
- 常陸国府の襲撃の捏造証明
- 上野国府の襲撃の捏造証明
- 平将門追捕の太政官符の捏造証明
- 将門記の捏造証明
「貞信公記」と「貞信公記抄」について
『貞信公記(ていしんこうき)』は、平安時代中期の摂政・関白である藤原忠平によって書かれた主に朝廷の政治に関わる日記です。業務日誌でもあり、後世の摂関家の業務マニュアルでもありました。「貞信公」とは忠平の没後に贈られた諡(おくりな)に由来します。
『貞信公記』に記されている時代は、907年(延喜7年)から948年(天暦2年)までの約40年間です。 承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)をはじめとする当時の政治情勢や、朝廷の儀式・公事の次第、貴族社会の人間関係などが記録されています。忠平が摂関政治の基礎を確立させた人物であることから、摂関家の日記の先駆けとして非常に重要な史料とされています。
『貞信公記抄(ていしんこうきしょう)』とは
「貞信公記」は、藤原忠平が自分の日常の業務において起こったこと、業務における経験や体験をそのまま記載した日記のはずです。その日記を藤原忠平が亡くなってから、調整・抜粋した写本が「貞信公記抄」です。
「貞信公記」が、以下に記載する日記記載の目的を考慮した場合、事実を記載しているものとの仮定した場合、他人に言えない、見せられないことも多く書かれていたことになります。例えば、延喜格の不履行に関する話、国印を不使用にする話や回収の話、公家等の除目申請参り、成功(じょうこう)における賄賂受取の話、将門記には記載されていない裏話等が多数書かれていた可能性があります。当然に、家族や朝廷側の人物であれば、都合の悪い話は削除するはずです。公に開示するにあっては、必要な部分だけを取り出して原本を削除するはずです。
実際に、忠平自身が書いた原本(正記)そのものは失われています。忠平の子である藤原実頼(小野宮)らが原本から重要な部分を書き抜いた『貞信公記抄(ていしんこうきしょう)』と呼ばれる抄本が伝わっています。ただし、実頼の編集した原本は無く、その写本が様々に存在しています。現存する写本で最も古いものが九条家本です。この本は、実際には誰が写本したものかはわかりませんが、平将門の乱の辻褄合わせのために改ざんされた可能性を否定できません。それでも、平将門の謎を読み解くうえで重要な証拠です。その理由は、関白・太政大臣という立場で「謀反」という国家の一大事の報告によって何が起こったのか、何の報告に対してどう対処したのか、確実に記載していたはずです。また、自らの直接関わる太政官符発行の日記を記載しないということは有り得ないからです。
平安貴族政治家の日記記載の目的
平安時代の藤原忠平等が日記を残した理由は、子孫に「政治の実務マニュアル」を継承し、家系の権力や利権を世襲するためです。
当時の朝廷は、過去の事例を何より重んじる「前例主義」の社会でした。政治や儀式のやり方に少しでも間違いがあれば、政治家として致命的な失態とみなされ、出世の道を閉ざされるリスクがありました。そのため、彼らは日々の朝廷の政務や儀式を正確に記録し、万が一トラブルが起きた時はどう対処したかという具体的な解決法まで詳細に書き残しました。
この時代は特定の家系が特定の官職を継ぐ「家業化」が進んでいたため、この日記は一族の秘伝書として子孫へと受け継がれました。失敗しないノウハウや先例の知識こそが、他家との出世競争を勝ち抜き、政治・利権の世襲を確実にするための最強の武器だったのです。
つまり彼らの日記は、個人的な感想文ではなく、一族の繁栄を守るための極めて実用的な「官僚の業務日誌」だったのです。
「貞信公記抄」と「太政官符」の辻褄合わせ
平将門追捕の太政官符は、1094年頃に比叡山の貴族僧の皇円によって編集されたものです。その平将門追捕の太政官符は、既に当サイトで偽造認定をしています。常陸国や下野国、上野国が襲撃され、国印や正倉の強奪、放火、新皇宣言や除目の実施が行われた場合には、国司は緊急事態として解文を太政官に提出しなければならないことになっています。
律令法では、国府の国司は、「謀反」が発生したら即報告しないと罰せられることになっていました。そのため、本来、追捕の太政官符の前に国府から朝廷への解文(緊急行政報告)があるはずなのです。
「貞信公記抄」における国府からの襲撃報告の矛盾
本サイトでは、「常陸国府の襲撃」や「上野国府の襲撃」がなかったことは、既に証明しています。また、平将門追討の太政官符の捏造も証明しています。
貞信公記抄には、常陸国府・下野国府・上野国府の襲撃、平将門追捕の太政官符の記載は有りません。本来、以下の理由で記載されるはずなのです。
- 乱の報告であれば、歌会の話では無く最重要な政治事件であるため到着日毎に記載するはずです。
- 国名と乱の起こった日、刻限、「乱」の記載はあるはずです。
- 藤原忠平本人が実際に記載した物であれば、「将門謀反」は最低でも記載したはずです。また、国印の強奪、新皇宣言、除目の宣旨ぐらいはあるべきです。
本サイトの目的は、平将門の冤罪証明ですので本来の目的達成は出来たということです。 しかしながら、以下のような疑問が残ります。
- 藤原摂関家をメインとした朝廷、及び一部の比叡山延暦寺の貴族僧等の大がかりな捏造があったにも関わらす、何故、最も改ざんが容易な日記の書換えの痕跡が無いのかという点です。もし、国府からの解文があったという捏造があれば太政官符の体裁は整います。
- 平将門の乱の終結は940年2月で、将門記の写本が1099年、九条家本の貞信公記抄が鎌倉時代初期であり、150年~250年後の話なのです。改ざんをしようと思えばいくらでもできたということです。何故、記載が無いのかです。
以上、2点が大きな疑問点です。2つです。 一方、貞信公記抄には、政治事件として最も辻褄合わせに後世に貴族や比叡山の貴族僧が改竄編集した可能性も否定できません。
以下の理由で九条家本の「貞信公記抄」における国府からの乱の報告(解文)の日記は、襲撃の内容が記載されていない為なんらかの悪意の意図があったと判断されます。次の項目で説明します。
2026年8月21日 小田部 文彦
九条家本の貞信公記抄で「将門」を検索した結果
以下は、九条家本の貞信公記抄のデータから「将門」の記載のある日記を抽出したものです。
以下のデータを見るとわかりますが、最初に登場するのは、天慶二 年(939年)の正月です。次は、天慶2.2.12/二日で武蔵国の源経基の将門の謀反の訴えの件です。
次に、登場するのが、天慶3.2.25/廿五日の平将門の死の知らせです。 問題は、天慶2.2.12~天慶3.2.25までにあるはずの、常陸国、下野国、上野国の襲撃、追捕大掾官符の発行の記載もないのです。国印、放火、新皇宣言、徐目の実施は全く出てこないという事です。いずれにしても、平将門の乱、養老律の「謀反」が無かった事の証明です。念のためのデータの異なる貞信公記抄の次の調査もご確認ください。
- 天慶2/大饗、〈不出簾外、〉七日節会、射礼、射遺、園韓神祭、無上卿可行事、将門事、不録、覧円堂会無童、賀茂祭、斎王依雨不渡河、出羽賊乱、神今食、依方忌不幸、繁時叙位事、祈雨事重可被行、於法性寺行法事、御書始、新嘗会、依納言以上不参無行幸、臨時祭、宣命参議奏事、陰陽寮依准三宮進新暦事、従内給誦経巻数度者等、
- 天慶2.2.12/二日、大納言来、便示明日可直物事、仁王会検校呪願文事、可催宮垣事、可問召将門使事
- 天慶3.2.25/廿五日、辛酉、左大臣入坐、慶幸率兵士向山崎関、臨時仁王会、無布施、信濃国飛駅、言上平将門為貞盛秀郷師被射殺之状、
- 天慶3.2.29/廿九日、遠江駿河甲斐等一紙飛駅、言上将門死状
- 天慶3.3.5/五日、左中弁定承国々所申縁兵雑事、陸奥飛駅来、常陸下野等任、甲斐解文信濃解文、秀郷申文来、将門殺状、右大将奏聞秀郷等功可賞事、而未畢大臣退出
- 天慶3.4.10/十日、乙巳、臨時幣使発遣諸社、将門事西方事等也、左中弁将来山陽道申凶賊発起疑解文等
- 天慶3.4.25/廿五日、左大弁来、告将門首将来状、
- 天慶3.5.10/十日、左中弁相弁等有将門首不収市司、可懸外樹之事、仰左中弁、
- 天慶10.7.24/廿四日、中使随時朝臣来云、権中納言令奏曰、秀郷朝臣所申故将門兄弟可反事、可給功田事等
貞信公記抄データベースの平将門の乱関係の用語検索結果
九条家本の貞信公記抄は、少なくとも藤原忠平が書いた原本、長男である藤原実頼が抄出した抄本の原本も無い状況の為、実際に誰がいつ作成したのわからない状況です。そこで、それぞれに出てくる個々の日記の内容を調査するのではなく、再度、常陸国の襲撃、下野国の襲撃、上野国の襲撃の日記があるかを見てみました。
本件については、国際日本文化研究センターの摂関期古記録データベースで検索を実施してみました。検索条件と、結果は以下の通りです。「将門」については上記と同じで、追加で「OR検索」で「武蔵、下総、常陸、下野、上野」を追加しています結果は、結論としては同じです。
国際日本文化研究センター:京都市西京区御陵大枝山町3丁目2番地
摂関期古記録データベース:https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/
『貞信公記』のデータについては、大日本古記録(東京大学史料編纂所編、岩波書店、初刷1956年、主に第二刷1984年を利用した)が利用されています。
939年から940年の貞信公記の検索条件
貞信公記抄において、平将門又は平将門の乱について、939年から940年の2年間の藤原忠平の日記を見れば何かわかるだろうと考え以下の条件で検索をかけてみました。「将門」5国の国名でいずれかが記載されている日記の検索です。検索結果は、次の項目の通りです。
- 条件1:資料名:貞信公記
- 条件2:キーワード: 将門 【OR検索】 武蔵 下総 常陸 下野 上野
- 条件3:年月日:939年~940年
393年~940年の期間における貞信公記抄の平将門の乱に関わる日記
以下の検索結果は、見やすいように一部編集し、記載しています。この検索では、将門記に記載されている国印を奪ったとされる襲撃国名の「常陸」「下野」「上野」も対象としています。結果は同じで、常陸国、下野国、上野国の国府襲撃、平将門追捕の太政官符の記載がありません。
- 天慶二年(939年)二月十二日 [本文]:二日。大納言、来たる。便ち明日、直物すべき事、仁王会の検校・呪願文の事、宮の垣を催すべき事、将門を問ひ召すべき使の事を示す。
- 天慶二年(939年)三月三日 [本文]:三日。源経基、武蔵の事を告げ言す。左衛門督を使はし、昨の表を返し賜ふ。被物、例のごとし。
- 天慶二年(939年)五月十五日 [本文]:十五日。諸社に奉幣する使、立つ。軍賊の事を祈るなり。職に参る。武蔵守等を任ぜしむ。
- 天慶三年(940年)二月二十五日 [本文]:二十五日、辛酉。左大臣、入り坐す。慶幸、兵士を率ゐ、山崎関に向かふ。臨時仁王会。布施無し。信濃国の飛駅、平将門、貞盛・秀郷の師の為に射殺さるる状を言上す。
- 天慶三年(940年)二月二十九日 [本文]:二十九日。遠江・駿河・甲斐等、一紙に飛駅し、将門、死ぬる状を言上す。
- 天慶三年(940年)三月五日 [本文]:五日。左中弁、国々、申す所の兵に縁る雑事を定め承る。陸奥の飛駅、来たる。常陸・下野等を任ず。甲斐の解文・信濃の解文、秀郷の申文、来たる。将門を殺す状。右大将、秀郷等の功を賞すべき事を奏聞す。而るに未だ畢らず、大臣、退出す。
- 天慶三年(940年)四月二日 [本文]:二日。蔵人真材、武蔵国の解文を付す。興世の士卒を討殺せる事なり。
- 天慶三年(940年)四月三日 [本文]:三日。左中弁を呼び、武蔵の解文を給ふ。報符を給はしめんが為なり。
- 天慶三年(940年)四月十日 [本文]:十日、乙巳。臨時幣使を諸社に発遣す。将門の事・西方の事等なり。左中弁、山陽道、申す凶賊、発起の疑ひの解文等を将ち来たる。
- 天慶三年(940年)四月十二日 [本文]:十二日。外記公忠宿禰、来たりて云はく、「常陸の飛駅の文、到来す」てへり。即ち諸卿に告ぐべき状を仰せしむ。蔵人真材、飛駅の解文を将ち来たる。
- 天慶三年(940年)四月十三日 [本文]:十三日。常陸の飛駅・馳駅等の奏解・遠江・駿河・上野等の解文、左中弁に給ふ。
- 天慶三年(940年)四月二十五日 [本文]:二十五日。左大弁、来たり、将門の首、将ち来たる状を告ぐ。
- 天慶三年(940年)五月十日 [本文]:十日。左中弁・相弁等、将門の首、市司、収めざること有り、外樹に懸くべき事、左中弁に仰す。
貞信公記と平将門の乱の無かった証明
上記の貞信公記抄の調査結果で、大きく5つの重大な結論が見えてきます。
(1)常陸国・下野国・上野国の国府襲撃の解文の証拠が無い
平将門が承平天慶の乱(天慶2年)において、常陸・下野・上野の各国府を襲撃・制圧した日時は以下の通りであり、それぞれの国司は、朝廷(太政官)に対して解文を即刻出さなければならなかったが、常識的に記載されているはずの解文の受取の日記が貞信公記に記載されていないことが明確です。すなわち、平将門の乱は無かったという事です。
- 常陸国(常陸国府襲撃)
- 天慶2年(939年)11月21日
- 概要: 常陸介・藤原維幾(ふじわらのこれちか)との交渉決裂から合戦となり、国府を制圧して国印と倉庫の鍵(印鎰)を奪いました。
- 下野国(下野国府襲撃)
- 日時: 天慶2年(939年)12月11日
- 概要: 常陸に続いて軍勢を向け、下野国府(介:藤原弘雅)を襲撃して受領らを降伏させ、同様に印鎰を没収しました。
- 上野国(上野国府占領)
- 日時: 天慶2年(939年)12月15日頃(移動・制圧)
- 概要: 下野国の次に上野国府(介:藤原尚範)へ進撃し、これを占領。「新皇宣言」と「除目の決定」を行いました。
(2)平将門の冤罪と平将門の乱が無かった証明
天慶3年(940年)庚子 正月11日の平将門追捕(ついぶ)の太政官符の日記記載がない。
太政官符の発行は、藤原忠平が自ら関わっている話であり、政治的に最重要事項であり、日記に記載しないはずはありません。既に、平将門追捕の太政官符は、偽造文書であることは証明しています。貞信公記抄でも平将門追捕の太政官符は無かったという証明ができたという事です。
貞信公記抄で判明した新たな事実:平将門の死の真実等
平将門は、天慶3年2月14日(940年3月25日)に確実に亡くなりました。これは、将門記の死因と異なります。将門記の死因は、平将門の乱、すなわち養老律における「謀反」による追捕による死です。既に、常陸国府の襲撃は無かった事、上野国の襲撃も無かった事は証明しています。また、将門追捕の太政官符も無かった事も証明しています。平将門の乱は、939年~940年に存在していなことは明確になっています。この結果は、平将門の追捕、法律的な追討命令はなかったことになります。すなわち、天慶3年(940年)2月14日に裏で暗殺が行われていた証明です。
「将門」の記載のある日記において、天慶2年(939年)の最後の日記が天慶2年2月12日で武蔵国の源経基の将門の謀反の訴えの件です。
次が1年後で、いきなり、天慶三年(940年)二月二十五日に信濃国の飛駅から解文が届くこと、この日記が天慶三年(940年)の最初の日記記載であることが最大の問題なのです。この解文は、「平将門の乱」の報告でなく別途裏側で計画されていた暗殺計画の実行報告であったということを証明しているのです。そのため、ここから将門の死の事後処理日記が続きます。
武蔵国の源経基の訴訟事件が確実にあったこと
武蔵国の国司の源経基が平将門を謀反の罪で告訴したことが記載されており、将門記の記載と一致します。
- 読み下し文:天慶二年(939年)三月三日 [本文]:三日。源経基、武蔵の事を告げ言す。左衛門督を使はし、昨の表を返し賜ふ。被物、例のごとし。
- 現代語訳:三日。源経基が、武蔵国の件について訴え出た。左衛門督(さいえもんのかみ)を使いとして遣わし、昨日の上表文をお返しになった。禄物(ほうもの/お祝いや褒美の衣類など)は、いつも通りであった。
武蔵国の源経基の訴訟事件が確実にあったこと
武蔵国の国司の源経基が平将門を謀反の罪で告訴したことが記載されており、将門記の記載と一致します。
- 読み下し文:天慶二年(939年)三月三日 [本文]:三日。源経基、武蔵の事を告げ言す。左衛門督を使はし、昨の表を返し賜ふ。被物、例のごとし。
- 現代語訳:三日。源経基が、武蔵国の件について訴え出た。左衛門督(さいえもんのかみ)を使いとして遣わし、昨日の上表文をお返しになった。禄物(ほうもの/お祝いや褒美の衣類など)は、いつも通りであった。
貞信公記抄における平将門の乱が無かった証明の結論
本サイトで考えている平将門の乱は、将門記における源経基の偽訴解決の翌日から、平将門の死までの期間です。貞信公記には、939年11月21日の常陸国府の襲撃、12月11日の下野国府の襲撃、12月15日の上野国府の襲撃の日記は記載されていません。また、940年1月11の平将門追捕の太政官符の日記も記載されていません。本件において、「平将門の乱」は、無かったことが証明されます。
天慶三年(940年)二月二十五日の平将門の死の報告の疑問点
貞信公記抄は、平将門の乱に関する襲撃や平将門追捕の太政官官符の日記記載が無いにもかかわらず、いきなり、天慶三年(940年)二月二十五日の日記(平将門の射殺の報告)が、以下のように登場するのです。
- 【読み下し文】
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天慶三年(940年)二月二十五日 [本文]:二十五日、辛酉。左大臣、入り坐す。慶幸、兵士を率ゐ、山崎関に向かふ。臨時仁王会。布施無し。信濃国の飛駅、平将門、貞盛・秀郷の師の為に射殺さるる状を言上す。
- 【現代語訳】
-
二月二十五日、辛酉(かのととり)。左大臣が参内された。藤原慶幸が兵士を率いて山崎の関へ向かった。臨時に仁王会(仏事)が行われたが、僧侶への布施はなかった。信濃国からの早馬(飛駅)が到着し、平将門が平貞盛と藤原秀郷の軍勢によって射殺されたという詳細な状況を言上した。
- (1)報告の遅れと死んだ日又は今日の報告日の捏造の可能性について
- 上記における疑問点は、将門が死亡日は2月14日であり、朝廷への報告は緊急報告であったはずです。報告が届いたのが、2月25日であり、将門が死んでから11日後であること自体あり得ない話です。上野国から京までは緊急で3日間から4日で届けることができたのです。
- 京までの距離とルート: 上野国府(現在の群馬県前橋市・高崎市付近)から平安京までは、古代の官道である東山道を経由して約500kmの道のりでした。
- 飛駅の移動速度: 律令規定で飛駅は1日に10駅以上(約160km以上)進むことが求められていました。昼夜を問わず各駅家(うまや)で馬を乗り換える超特急便であったため、500km以上の距離であっても丸3日、あるいは4日目には京に届けることが可能でした。
- 「飛駅使」は原則として途中で交代せず、目的地まで1人で走りきりました。これは、公文書(解文)を届けるだけでなく、現地の詳細な状況を都の天皇や貴族へ「口頭で直接説明する(復命)」役割も持っていたためです。
- 「駅馬」は16キロごとに交代した人間は交代しませんが、「馬(駅馬)」は激しく消耗するため、約16キロメートル(当時の規定で30里)ごとに設置された「駅家(うまや)」でその都度、元気な馬に乗り換えていました。
- (2)詳細な状況報告が何故「言上」なのか
- 平将門の乱は、既に無かった事は証明されているため、上記報告は、法律に基づかない暗殺計画の実施に関する報告が前提です。ここで、それを前提とした場合、事情を知らない「飛駅使」に内容を説明すること自体出来ないはずです。この役割を担えるのは平貞盛だけと考えられます。その場合には、2月25日の報告の到着の日記は、追記、捏造がされているということになります。又は、将門記の平将門の死亡した日が捏造されているということです。
何故、貞信公記に謀反の証拠である国府の襲撃や追捕の太政官符の記載が無いのか
常陸国府襲撃、下野国襲撃、上野国襲撃において各国府の解文の日記が無いという事は、貞信公記の記載目的及び事件の重要性からすると考えられません。また、自身が直接関わる「平将門追捕の官符」を記載しないことは有り得ません。平将門の乱は、実際に将門が死んだ時から約160年後に捏造されたフィクションであるため、襲撃や追捕の官符な無いのは当たり前なのです。しかし、当時、別途の裏の抹殺計画によって平将門が死亡したのは事実であり、報告だけは日記に出てくるのです。平将門が、天慶3年(940年)2月に死亡したのは確実です。
疑問は、何故、940年に平将門が殺されたのか、どこで、どのように殺されたのか、日記や将門記からもわからないのです。 考えられる話は、以下の3つの内容です。
- 報告を公文書には書けない内容だったので解文は出さず、平貞盛等が忠平に私文書として報告を送っていた。
- 裏の解文が書いてあったが都合が悪いので削除後世に削除された。
- 各国府からの解文(報告)はもともと無かった。各国の国府はもともと関わっていなかった。
上記のいずれの場合においても、平将門の乱は無かった証明になります。同時に、平将門が殺されたことが記載されているため、律令の法に基づいて「謀反の罪」で殺されたのではないことは確定的です。本サイトで考えている平将門の乱は、将門記における源経基の偽訴解決の翌日から、平将門の死までの期間です。 この期間において、おそらく、別途、平将門の暗殺計画が着々とすすめられていたのです。その可能性については、次の事項のことが考えられます。ただし、実際には、1099年に比叡山延暦寺の仮称「源信」が真福寺本「将門記」を捏造するあたり、参考にした報告本や資料でも出てこない限りわからないのです。 2026年9月1日 小田部 文彦
裏の平将門抹殺実行計画人物ネットワークの可能性
平貞盛は、将門の所業を朝廷に対する脅威であることを訴え続け、藤原忠平も条件の「破格の恩賞(刑の免除、官位・官職の付与の役職)」等も了承し、将門の暗殺を指示したと考えられます。
以下のネットワークを利用して、綿密な計画及び付の交渉を行えば平将門を暗殺することは容易であったはずです。この交渉に捏造の太政官府があった可能性もあります。
- 平貞盛(国香の子:以下の全関係者と繋がり):国香の仇討ちであったが、当初、仕方がなかったと考え、積極的ではなかったが叔父等の誘いがあり、打倒将門に加わり中心となっています。
- 関白・藤原忠平(京の貞盛の元主人):貞盛の出世は、「成功」と考えられ連絡を取れる関係にあった。平安時代の賄賂政治の中心人物です。本来、律令や儒教を習得している人物、道徳哲学者であったならば、平将門を活用していたはずです。
- 常陸国介:藤原維幾(貞盛の叔母の夫):藤原玄明は、約160年後の将門記の虚構であり、藤原維幾は、平将門の武蔵国での謀反の訴えに対して将門の冤罪解文を出していることから、必ずしも敵対的な関係にあったとは言えない。将門を罠にはめることは出きたはずです。
- 常陸大掾:源護(貞盛の母の父):野方の戦いにおいて、子の3人が平将門の合戦において死んでいるため将門は、子の仇討ちである。
- 平良正(貞盛の叔父・妻の父が玄茂):源護、貞盛の味方で当初より、将門のメインの私闘相手である。
- 平良文(貞盛の叔父:将門の味方説):将門記では、当初味方側であったが、他の文献に裏切り説有り。将門の勢力配置、行動、宿営情報を流すだけでも有効です。将門の死後、下総国の介(長官)になっているため可能性は大です。
- 藤原秀郷(貞盛の従兄:貞盛の二人目の母の実家説):桔梗の前の秀郷の姉説)卑怯な手を使っても将門の頚を撮れた人物です。
- 桔梗の前(将門の妾):秀郷の姉説、秀郷側無い通説等あり、桔梗の前の屋敷に夜に来ていることを知らせるだけでも容易に首を取れたはずです。
