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藤原玄明は架空の人物!平将門の常陸国府への襲撃は無かった。


平将門の乱の開始は、常陸国府襲撃であり、2つの観点を検証する必要があります。

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本ページは、平将門の乱は無かった、すなわち養老律令における「謀反」は無かったという検証です。平将門の乱の始まりは、将門記における常陸国府の襲撃と言われています。常陸国府の襲撃が無かった場合、概ねそれ以降の将門記の記載は、ほぼ、捏造、又は改ざんされたことになります。

まず、将門記では常陸国府の襲撃の始まりにいきなり、「藤原玄明」(ふじわら の はるあき)が登場します。そもそも、平将門が常陸国府に行く動機は、藤原玄明と常陸国府との調停です。ところが、将門記を精査すると、藤原玄明自体が有り得ない犯罪者として登場しています。ところが、一方で妻や子供を連れて逃げる記載があり、弱者を大切にする儒教的な存在と勘違いしてしまう記述があります。日本の歴史が騙されて来たのはこの部分だと考えられます。この部分が、書出しの部分にあり、将門の襲撃の話はこれからだろうと読み過ごしてしまうのです。実は、この部分がもっとも重要で、平将門は藤原玄明にあった事がない、まったく知らない可能性があるのです。藤原玄明の存在自体が架空視されるため、まずはその検証が必要です。本ページでは、以下の2つの観点から平将門の常陸国襲撃が無かった事を証明致します。


(1)将門記に登場する藤原玄明は、架空人物だった検証!

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まず、藤原玄明は将門記だけに存在する人物です。平将門が実際に存在したことを証明するのは、通常であれば本人の戸籍・計帳でもない限り困難です。しかしながら、現実離れした記載が多数あることで架空人物であることを証明するのは比較的容易に出来ます。

藤原玄明が架空の人物であれば、藤原玄明と常陸国府の藤原維幾の記載は基本的に虚偽記載文章です。その場合、結論は以下の通りになります。

  1. 藤原玄明は、京都の貴族及び貴族僧が平将門が死んだあとに作り上げた物語上の架空の人物である。
  2. 平将門は、藤原玄明に会った事もない。
  3. 平将門は、常陸国府に行く動機が無く、常陸国府襲撃は無かった。
  4. 平将門の乱、朝廷への養老律の「謀反」は無かった。
  5. 「扶桑略記」の平将門追捕の太政官符・藤原忠文の征東大将軍任命の太政官符の捏造、九条家本「貞信公記抄」の将門に関する記載の改竄又は裏日記が存在した。
  6. 平将門は、「法」によって殺されたのでは無く、当時の中央と地方悪の連携によって暗殺された。

(2)常陸国府で平将門による襲撃の合戦があり、放火や国印の強奪があったかの検証

将門記に記載されているような常陸国府に対して、平将門の謀反といえる襲撃があったかどうかです。平将門は、実際に常陸国府へ襲撃し、国府に放火したか、国印や正倉のものを強奪したか、殺人があったかどうか。結果として、国府から平将門の謀反についての解文が、即刻において朝廷宛に発せられていなければなりません。朝廷に平将門の自白があったかどうかも重要です。
次に公的に追捕の太政官符を発する場合には、将門が逃げて捕まらない状況があったかどうか、引き続き戦闘状態であったかどうかという事になるはずです。


常陸国府襲撃は無かった証明:藤原玄明は架空の人物であった!

『将門記』に登場する常陸国の「藤原玄明」という人物、および彼をめぐる国府襲撃事件は、当時の公文書、法律(律令)、戸籍制度、地理的条件、そして軍事常識から検証して、現実には実在しない人物であり完全なフィクション(創作)です。

以下の文章は、将門記における『藤原玄明』が最初に登場する文章です。この文章は、武蔵国の国府の介の源経基が、平将門を謀反の罪で疑訴した事件(平将門が謀反で訴えられた事件で太政官会議で無罪になり、源経基が逮捕された事件)の後にいきなり登場する文章です。
以下の文章を読んでみると常陸国の藤原玄明という人物がいて、極悪人でありながら、妻子を連れて儒教的にいい人と思ってしまいます。悪さは大げさに言っているだけであり、将門なら、困っている人を助けたであろうという考えに陥ってしまうのです。しかしながら、この文章が1000年以上日本の歴史をだまし続けたのです。この文章を法律行為的に考えると以下の結果になってします。

  • 常陸の国に、藤原玄明という、日ごろ強奪や窃盗、虐待を行い、納税もしない極悪人がいた。国府が命令しても全く言う事を聞かない。
  • 藤原玄明は、「行方郡」「河内郡」の2件の郡衛の朝廷が管理する不動倉の門や鍵を壊し、蔵の穀物を盗み、下総国の平将門の所に逃げた。
  • 平将門は、謀反人とも言えるような極悪人を保護し常陸国府の業務を妨害したすべの罪の共犯者(連座)である。

と同時に、平将門を常陸国府で襲撃したことに結びける文章だったのです。

「その当時、常陸国に居住する藤原玄明(ふじわらのはるあき)等は、もともと国に危険な人物であり、人民にとって害毒となるものであった。農作物の時節になると、一町の土地を横領し、官納物に至っては一束一把(いっそくいちわ)ほどの納入もしない。国の使者がやってきて、責めるのを侮って辱め(あなどってはずかしめ)、さらに弱い人民の実を脅かして略奪さえも行った。その所業を見ると、夷狄(いてき)よりも甚だしく、その節操聞くと、盗賊と変わりない
そこで長官藤原維幾朝臣は、官納物を納入させるために、度々移牒の文書送ったけれども、逆らって拒むだけで一向に国府に出向かなかった。公の意向に背いては、思いのままに猛悪の所業を行った。
私的に居宅を構えては、その区域から強引に摂取を行って虐待したのであった。
長官(藤原維幾)は、漸(ようや)く度々の罪過を集め、官符の趣旨により追捕しようとしている間に、(玄明は)急に妻子を引き連れて下総国の豊田郡に逃れ渡った。
その行きがけに盗みとった行方・河内郡の不動倉の穀や糒(ほしい)などの数量は郡司が注進(急いで報告)した日記に記録があった。
それゆえに、(玄明を)捕らえて送り帰らせよとの内容の移牒が下総国並びに将門に送られた。
しかし、(将門は)常の逃亡中との理由をつけて、もともと捕らえ渡す考えがなかった。

上記の文章は、通常、読み流してしまいます。よく見てみると、藤原玄明と常陸国府の長官である藤原の維幾は、姓名で主語になっています。「平将門」という言葉はこの文章には登場しません。最後の部分に「捕らえて送り帰らせよとの内容の移牒が下総国並びに将門に送られた。」として、「将門」が1回記載されているだけです。平将門が主語になっていないこと、述語として何かの行為を行っていないので通常読み流してしますので。これが、比叡山の学僧の文章能力なのです。

その決定的な証拠は以下の通りになります。


1.常陸国の介藤原維幾は、国府の長官として藤原玄明に対して何らの法的手続きを実施していない。

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将門記の著者は、国司や郡司の役割をほとんど無視しています。当時の国府は、通信・交通、戸籍・計帳、徴税・正倉・不動倉の管理、警察・検察・裁判まで担う役所でした。

将門記の著者は、国司や郡司の役割をほとんど無視しています。「介」は、現地の長官であり、藤原玄明が将門記に記載されている内容を行っていた場合、国司は、強盗・窃盗の罪で逮捕し裁判を行い、処罰しなければなりません。地域の人を虐待した場合には、養老律令の「闘訟律(とうしょうりつ)」に基づき、「闘殴罪(とうおうざい)」や「傷人罪(しょうじんざい)」として処罰しなければならなかったのです。また、官納物の未納者に対しては、家畜や生産物、家屋や田畑等の差し押さえ手続きを実施する必要がありました。しかしながら、滞納の手続きも行っていないことも明確です。また、このような極悪人が「不動倉」を襲撃した場合には、大至急、朝廷に解文(報告書)を提出しなければならないのに、「出そうと思っていたところ」と言い訳を記載して結局、朝廷へ解文(報告書)は出していません。
よって、藤原玄明は、約160年後に比叡山の学僧が将門記の辻褄合わせに登場させた架空人物です。

次に「それゆえに、(玄明を)捕らえて送り帰らせよとの内容の移牒が下総国並びに将門に送られた。」と記載していますが有り得ないのです。その理由は「その行きがけに盗みとった行方・河内郡の不動倉の穀や糒(ほしい)などの数量は郡司が注進(急いで報告)した日記に記録があった。」ということが、有り得ない話だからです。行方郡と河内郡の2件の「不動倉」が妻と子連れの藤原玄明に襲われ、穀や糒を強奪され逃げられたという話はあるはずがないという事です。実際には無かったから良いものの、真実であれば、国司や郡司自身が罷免どころか重罪になるはずです。下総国の国司も将門も、受け取っていたら、有り得ないと思うはずです。今どきの、トラックやエンジンのついている船があったとしても、積み下ろしを誰がするのかという問題があり不可能なのです。


2. 記録の不在と描写の自己破綻

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そもそも、将門記の文章を誰が記載したかですが、将門記の写本(完成1099年)を書いたの比叡山延暦寺の仮称「源信」という学僧で平将門の死後約160年後の話なのです。この源信は、現実的には誰か知ることはできません。可能性としてあるのは扶桑略記(1094年)の「皇円」という貴族僧です。この「皇円」が平将門の追捕の太政官符を約155年後に偽造しているのです。いずれにしても、学僧なので文章力は一流です。ただし、法律(刑法や行政法)や納税制度、常陸国や常陸国府の地理をほぼ理解していない事がわかります。

例えば、常陸国府の説明に藤原玄明という極悪の地域豪族が登場します。この文章を簡単にすると「常陸国の藤原玄明は、地域で非道を繰り返し、税金を払わず常陸国府の国司藤原維幾に追われ、子供と妻を連れて下総国豊田郡の平将門の館を目指し、途中に行方郡と河内郡の不動倉を襲撃し、平将門に助けを求めた。」という内容です。この一文のせいで「平将門の乱」が起こったことになっているのです。しかも、1千年経った今でもです。平将門を歴史上の謀反人にする最初の文章なのです。逆にこの1文だけで、常陸国の藤原玄明が存在しない架空の人物であることを証明できるのです。

この内容は、とんでもない話なのですが、地元の人なら、すぐにあり得ないと思うはずです。比叡山延暦寺の学僧が書いた物語です。この文章だけで、藤原玄明は、架空の人物である事が分かります。藤原玄明という人物名は『将門記』だけに登場する名前であり、当時の「藤原氏の系図」や「諸氏の系図」等には一切出てきません。また、その他の平安時代の文献にも全く名前が登場せず、現在のインターネット上で検索しても素性が不明な人物であり、歴史上どこの誰だか全く分からないのです。これこそが、実際には存在しない人物である何よりの証拠です。
さらに、物語の描写自体も完全に破綻しています。文章上では「税を納めない」(裏返すと戸籍と計帳が国府にあった証明)、「国の倉庫を襲撃する」(謀反・大逆で連座制で家族共々逃げたら死刑、国司の罷免といった内容)という超大悪人として書かれているのですが、その一方で「子供や妻を連れて逃げる」という、状況的に家族を思いやる優しい人間として行動をしています。この矛盾は、平将門なら助けることを想定して書いているのです。大悪人という設定と、家族を連れて逃亡するという儒教的な発想に基づいているのですが、実際の行動が完全に矛盾しており、物語としての設定が自己破綻しています。


3.将門記の記載の子連れ逃亡路における「軍事的な不可能性」

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不動倉(国の米蔵)は、国家最重要の機密施設であり、武装した兵士によって昼夜を問わず厳重に警備されていました。現代のような道路もない平安時代、足手まといとなる妻や子供を連れて逃亡の道中に、このような国家拠点を次々と襲撃・略奪することなど物理的に100%不可能です。襲撃すれば即座に国府の追手が組織され、足の遅い妻子は真っ先に捕らえられます。不動倉が国家の重要施設であることや、防衛の実態を無視した、軍事的にあり得ない作り話です。規定では、不動倉の鍵は朝廷が管理していたのです。つまり、鍵はないのですから錠を破壊するか、建物自体は破壊する必要があるのです。現代の、鉄のハンマーやバールのようなものがあったとしても、よほど強盗集団でなければ不可能なのです。


4.霞ヶ浦を挟む「地理的・ルート的な破綻」

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物語の将門記には、藤原玄明が常陸国府から平将門の下総国の豊田郡の館へ逃げる途中で「行方郡」と「河内郡」の「不動倉」を襲撃したとされています。

まず、現在の地理と平安地代地理で常陸国及び下総国において決定的な大きな違いがあります。その大きな違いとは、平安時代には利根川が無かったという話です。徳川家康が江戸に入り、東京湾に流れていたと利根川を利根川東遷事業といって60年かけて、今の利根川が誕生したのです。それに伴い、河口付近も内海が亡くなり田園地帯が広がったという事情があります。霞ヶ浦は、香取海といわれ、今の印旛沼も内海だっのです。よって、行方郡から対岸の河内郡に行くためには一旦、船で信太郡に渡る必要がありました。

参考:国土交通省 関東地方整備局 利根川上流河川事務所 「利根川 東遷」

平安時代に、藤原玄明が、本拠地から将門の館まで行くルートは以下の2つの方法です。

  • 常陸国の本拠地-→行方郡(不動倉)~(船)~→信太郡→河内郡(不動倉)→下総国・豊田郡
  • 常陸国の本拠地-→行方郡(不動倉)→茨城郡(国府)→筑波郡→河内郡(不動倉)→下総国・豊田郡

実際の地理において、行方郡と河内郡は広大な霞ヶ浦を挟んでほぼに反対(対岸)に位置しています。平安時代当時は、常陸国の行方郡から河内郡に行くには信駄郡まで船で「香取海」を渡る必要がありました。国府付近又は行方付近から将門の元へ向かう最短の陸路を無視し、わざわざ行方郡から船で信太郡に渡り、河内郡へ行き不動倉を襲い(小貝川渡し)、豊田郡へ向かうなど、命がけで逃げる人間のルートとして絶対にあり得ません。また、海を渡らない方法としては、行方郡から茨城郡へ行き、国府の前を通り、恋瀬川・桜川を渡り、筑波郡から河内郡(不動倉)に入り、(小貝川渡し)を越えて下総国の豊田郡に逃げるルートも有り得ません。将門記には、「妻子を連れて」としか書いていないのでわかりませんが、従者があったとしても、奪った米をどのように運ぶのかも考慮していません。地域の地形や川(渡し)や内回海があったこと、物を運ぶことなど全く考えていないフィクションなのです。


5.藤原玄明の罪は不動倉の襲撃と強奪「謀反」:何故国府は、朝廷に未報告!

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律令の法律において、国家の象徴である「不動倉の襲撃」は、「毀壊官物」、「私開門鎖」、「私開正倉」、「強盗」等に該当する重罪です。もし本当に郡衛の不動倉が2カ所襲撃されたのなら、常陸国司は何よりも真っ先に、都の朝廷へ緊急報告(解文の提出)をしなければなりません。これを怠ったり、隣国の将門に個人的な引き渡し要求をするなどという生ぬるい交渉で済ませたりすることは法律上にあり得ません。もし国司がこのテロ事件を隠蔽・報告しなければ、罷免されるばかりでなく、国司自身が重罪になります。しかし、当時の国司が交代・処罰された形跡は一切なく、官位も職位もそのまま安泰であり、朝廷への緊急報告の形跡もありません。藤原玄明が実在しないことの確定的な証明です。


6. 戸籍制度と「藤原姓」の特権性における矛盾

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「藤原」の姓は、源氏や平氏と同様に、天皇から特別な功績や血統に対して授けられる極めて高貴な姓です。一般の農民が勝手に名乗ることは厳しく禁じられており、密かに名乗れば厳罰に処されました。
当時の国府は、管轄する地域に誰が住んでいるかを「戸籍」や「計帳」によって厳重に管理していました。ましてや「藤原氏」という中央の最高権力者と同じ姓を持つ地域の豪族であれば、国府が「どこの誰か(出自や系譜)」を把握していないはずがありません。平将門に助けを求めるにあたって、襲撃の不動倉を行方郡、河内郡と記載し、将門のところは下総国豊田郡と言っているにもかかわらず、どこから出発したのか、何郡の人物なのか記載が一切ありません。藤原の姓をもちながらも「どこの誰だかよく分からない不法分子」のように記載していること自体、国府の戸籍管理能力から考えてフィクションであり、存在しない人物であったことの動かぬ証拠です。


7.『将門記』の作者の正体とその限界

将門記という物語の中で、常陸国府のすぐ隣にある重要な「総社」は無視されているにもかかわらず、遠い場所の「国分寺」や「国分尼寺」といった仏教施設が強調されて登場します。これは、この物語を書いた作者が、延暦寺(比叡山)などに所属していた藤原氏系の貴族僧(僧侶)であったことを雄弁に物語っています。作者は漢文の教養があり、華麗な文章(レトリック)を書く能力には長けていたため、仏教関係の施設については詳しく描写できました。
しかし、現場を知らない都の僧侶(素人)であったため、実際の地方行政の法律、厳格な戸籍制度、他国のリアルな地理関係、 軍事的な常識については全くの無知であったのです。自分の頭の中(机の上)だけでドラマチックな反逆劇を構成しようとしたため、文章は立派でも、中身を開ければ「法律・地理・行政・戸籍」のすべてにおいて素人丸出しの矛盾が大量に発生してしまったのです。


8.不動倉の襲撃は、貞信公記抄にも記載されていない

貞信公記は、藤原忠平の政治日記(業務日誌)日誌です。貞信公記抄は、その後に編集され写された抄本です。阿常陸国府襲撃以前に、これだけの大事件が記載されたいないのは本来あり得ないのです。


10.結論:将門記に登場する藤原玄明は、現実に存在しない架空の人物

藤原の玄明が架空人物であるまとめは、以下の通りです。

  1. 高貴な藤原姓でありながら国府の戸籍実態がなく、長いこと税金を払わなくても差し押さえにもならない、強盗や虐待を行っても逮捕されない、裁判も無く、罰を受けない存在です。
  2. 地理・空間・距離・時間・障害(内海や川)を無視して妻子を連れて徒歩や牛車で逃げることができる。その速さは、郡衛や国府の追手の追討の早馬よりも速い。
  3. 霞ヶ浦の対岸の不動倉2ヶ所を襲撃する武力をもち、大量の物資を持って簡単に逃げることができる。
  4. 国家テロを起こしても、本人や国司も含めて誰一人処分されない存在なのです。

『将門記』は、後世(約160年後)に藤原氏系の貴族僧が、自分の限定的な仏教知識と漢文の筆力だけを頼りに書き上げた「完全なるフィクション(ファンタジー小説)」です。順法精神の塊であり、自分から仕掛けた戦いは一度もない平将門を、どうしても悪者に仕立て上げるための強引な『言い訳(プロット)』として生み出された架空のキャラクター、それが「藤原玄明」の正体なのです。


『将門記』では:平将門の目的は襲撃でななく国府と藤原玄明との調停であった!

以下の文章は、2026年7月1日以前の文章です。藤原玄明が、将門記以外に登場しない架空の人物でであることが証明できたため、以下の文章はそれまでのアーカイブとしてお読みください。なお、万が一、藤原玄明が実在の人物だとしても、以下の理由で平将門が常陸国を襲撃し、合戦になり国印の強奪や放火がなっかったことは明確です。

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将門が常陸国府に向かった真の目的と当時の状況を整理すると、彼の行動は一貫して「法と義」に基づいていたことが見えてきます。

  1. 武力行使ではなく「対話と解決」のための現地赴任

藤原玄明を不当に追詰める常陸国司(藤原維幾ら)に対し、将門は、はなから戦争をするために向かったのではありません。律令と延喜格を熟知した「法律家」として、また儒教の「義」を重んじる「指導者」として、両者の間に立ち、不当な搾取や冤罪(疑罪)を解消するための公的な「調停(話し合い)」を行うために常陸国府へ向かいました。

  1. 常陸国司側の「自滅」と「冤罪の捏造」

国府側は、法論(法律の議論)や道義で勝てるはずもない「法学者・将門」が乗り込んできたことに恐怖し、自分たちの不正(売官や過剰な徴税)が暴かれることを恐れました。 その結果、国司側が先に武力を行使したか、あるいは自ら国府を捨てて逃亡・混乱を引き起こした可能性が極めて高いと言えます。

  1. 「朝敵」へ仕立て上げるための言論格闘

国司たちは自分たちの不始末や逃亡を隠蔽し、京都の朝廷からの処罰を免れるために、「将門が国府を襲撃し、反乱を起こした(新皇を称した)」という大嘘(誣告)報告を京都へ送りつけました。 源経基の時と同じく、またしても「不正を行う国司側による嘘の告発(誣告)」が捏造されたわけです。


平将門が常陸国府に行ったか、襲撃はあったか

将門記による乱の始まりの原因は、常陸国の藤原玄明が納税を怠り、常陸国から追われ平将門に助けを求めたことが原因で始まっています。
上記のように藤原玄明が、架空の人物になってしまうと乱自体が無くなってしまうのです。
平将門の乱がなかったという話は、謀反がなかった、悪者ではなかったという冤罪の話です。何らかの事件があり、平将門が死んだ又は殺されたという話は別の話です。

将門記では、北山の戦いで流れ矢があたって死んだという都合がよい話で終わっています。しかしながら、様々な説があります。平将門の叔父である『平良文』については、鎌倉時代の僧侶・宗蓮(1231年)『大法師浄蔵伝』等には、将門記には出てこない話があります。それらは、平将門の乱とは別に、裏側で起こっていた話です。
世界の国では、トップ政治に道徳哲学が無い国では邪魔物を消すということが起こっている話なのです。


平将門が、常陸国府に行った証拠がない!

平将門が、常陸国府に行った証拠はありません。将門記は、軍記物語であり、原本がなく約160年後の写本であり、実際に原本がなく、原本が誰がいつ書いたかも不明で、しかも写本約160年後の写本で高野山の「源信」という学僧なのですが、存在したかどうかも不明なのです。そんな資料は、刑事の証拠にはなり得ません。


平将門は常陸国にいたのか、襲撃したのか

襲撃があったなら必ず証拠があるはずです。しかしながら、平将門が常陸国に行った証拠が全く存在しないのです。

その1:朝廷への謀反の至急の報告
将門記のような戦闘、火付け、印や国倉のもの、国府のものの強奪があった場合、国司は、養老律令や三大格式等の法律で報告することになっています。また、国印の紛失や強奪された場合にも報告しなかった場合、法律の規定で解任されますが、本人の不始末で報告しなかった場合には重罪で流罪や死刑になるのです。この報告が国府にも、調停にも存在しないのです。
その2:平将門追捕の太政官符の存在
平将門追討の太政官符は、何故か原本は存在していないのですが、扶桑略記という本(1094年以降・平安末期成立:著者 皇円)の中に天慶3年1月11日付「平将門追捕の太政官符」の文面があるのです。本件については、別途、提示しますが、この官符には、常陸国や下野国、上野国を襲撃した記載がないのです。また、新皇宣言や除目の実施や、国印の強奪、国府建物等の火付けのことも記載されていません。太政官符は、法律に定められた命令書で行政文書の中で最も格式が高い文書で太政官の文書専門官が作成し、太政大臣が署名・押印して国府等に送付されるものです。しかしながら、太政官符は、律令の法令用語を利用して作成されていません。また、国司宛のものは、仏教用語の利用もできないことになっていますが、仏教用語が多数利用されています。完全に150年後の比叡山延暦寺の貴族僧が扶桑略記で偽造した太政官符です。
その3:謀反の事実を国司が朝廷に文書で提出していれば、将門記も太政官符もなかった!
どういうことかですが、将門記の記載の国府への襲撃、国府の建物への火付け、国印の強奪、国司の殺人は、養老律令の律(刑法)で謀反という最も重い罪で一発で「死刑」なのです。平将門は、常陸国府にいった明確な証拠はないのですが、将門記に記載されているため調査した結果では、国府への襲撃、国府の建物への火付け、国印の強奪、国司の殺人は、なかったことが法律的・歴史的に証明がされています。では何故、平将門の乱が存在するのかですが、これは冤罪とは別の話で、当時の朝廷の天皇や法律を無視した貴族人治政治と国司・地域の利権豪族が関わる地域の裏の計画があったというような話です。
その4:平将門の常陸国襲撃及び平将門追捕の太政官符の発行自体が「貞信公記抄」に無い!
常陸国襲撃及び平将門追捕の太政官符の発行は、朝廷にとって最重要事件なのです。「貞信公記抄」に記載されていない事自体あり得ない話なのです。

『将門記』の常陸国襲撃の軍事・ロジスティクス・地理から見る誇張と矛盾

以下の文章も、まだ藤原玄明が存在していると仮定している段階での証明です。


1.動員数の非現実性(1,000人対3,000人・馬の生存限界)

  • 『律令制』下の健児(こんど)の制では、一国の警察・防衛戦力はせいぜい30人〜50人程度です。私兵を集めたとしても数百が限界であり、国府側に3,000人もの兵が集まることは物理的・経済的にあり得ません。
  • さらに、数千頭規模の馬が集結した場合、1頭あたり1日約3050リットルの水と大量の飼料(草・穀物)が必要です。陣営の周囲でその補給を継続することは不可能であり、1,0003,000の軍勢という数字は後世の軍記物(あるいは中国の史書の表現)に倣った完全な空想・誇張です。

以下写真は、当時行われたであろう合戦地です。この写真からも地理的矛盾が感じ取れます。
地理院地図で四角の赤枠が石岡小学校の校庭・運動場で『常陸国府跡』です。
その下赤枠が、常陸国総社宮です。総社宮は、将門記の襲撃被害状況の説明に出てきません。
一方、地図の右上が『国分寺』で国府跡から直線で赤い点線で表せている距離が約900メートルです。左側上、国府から約1300メートル地点が『『国分尼寺』です。合戦の説明は地理的にも破綻しています。合戦はなかったことが証明できます。

以下写真は、合戦が行われたとされる場所の現在の空撮景観写真です。写真をクリックするとVRツアーでご覧いただけます。

https://www.vr-ibaraki.jp/ibaraki-tour/?h=-171.6658457778157&v=33.29175886093419&f=73.64327709900232&s=0fedf6875eff1884d9e3b453deb8dc50ff81a496

2-1.地理的・戦術的リアリティの欠如:鎌輪から石岡までの道のり

  • 石岡(常陸国府跡)周辺の地形において、開墾事業(営所)の途上であった将門が「他人の調停」のためだけに即座に1,000の軍勢を率いて30km移動すること自体が不自然です。

<以下写真は、将門が常陸国に向かう為に使ったであろう経路です。>
馬の事を考え、筑波山を越えては向かわない事を想定すると、1枚目の写真のような道筋が考えられます。
更に下、2枚目の3Dの写真を確認しても分かるように高低差はほぼ無く、平坦であった事が分かります。

実際の高さは、出発地点の鎌輪の営所:約20m(鎌輪)、中間地点:約29m(宝篋山麓付近)、到着地点の常陸国府:約25mと高低差は10mもありません。


2-2.地理的・戦術的リアリティの欠如:合戦が行われたであろう場所

  • 合戦の火災や混乱で直線距離で1km前後離れた「国分寺・国分尼寺」に被害が出たとされながら、目と鼻の先南側(国府跡のすぐ隣)に位置する「総社宮(常陸国総社宮)」への被害記録がまったく出てこないのは、有り得ない話です上記のルートで常陸国府に入った場合、国府より総社宮の方が先に被害を被ることになり、将門記の記載は地理的に破綻しています。

3.戦死者の不記載と財宝の誇張

  • 双方合わせて4,000人の大合戦でありながら具体的な戦死者の氏名や殺害の描写がないことや、地方の国府に「絹万疋・金銀財宝の箱が幾千幾万もあった」とする記述は、当時の東国の経済規模(京への年貢の輸送体系)から見ても明らかにあり得ないフィクション(虚構)です。この記載は、京の都でも有りえないのです。

平将門の国府印の強奪はなかった!国印は平安時代初期に利用が廃止!

『将門記』等で「将門が奪い取った」とされる「国印」について

  • 署名主義への移行と国印の形骸化: 延喜格(908年)以降の貴族政治の運用において、公文書の正当性は「四等官(守・介・掾・目)の自筆署名」へと実質的に移行していました。仮に国印が存在したとしても、四等官の正規の署名が伴わなければ公文書としての法的効力(自筆の証明)を発揮できません。
  • 物理的・歴史的物証の不在: 全国60余カ国の国府跡から「国印」が出土した例はただの1件も存在しないという客観的事実は、印章自体が厳重に回収されたか、あるいは公務上の実用性を失っていたことを物語っています。銅としての金属価値以外に、将門がこれらを奪う政治的・法的メリットは皆無でした。

以下:石岡市教育委員会”常陸国衙跡Ⅲ”より 提供:石岡市教育委員会 文化振興課文化財
常陸国府の国印(「常陸国印」の印影)は、石岡市が発行する『石岡市史』や歴史ガイドブックなどの書籍において利用されているものです。 この印影は本物ですが、平安時代のものでな無く、奈良時代のもので、常陸国府が東大寺に発行した書類等に押された印影が正倉院に保存されていたものです。石岡市がその印影を東大寺から提供を受けたものなのです。


平安時代に限った国府の文書類の原本:国印の実態

※以下は、当サイトが独自の視点でネット上調査したものであり、正確性を保証するものではありません。以下の調査結果から、平安時代に、国印が実際に利用されていなかったことは、明確です。平将門は、法律の専門家でもあり、京の賄賂政治をあきらめで帰国したのであり、国印を手に入れようなどと微塵も思っていなかったのです。万一に奪ったという事が有り得たとしても謀反にはなり得ないのです。

調査したデータと事例解説

  1. 国印(○○国印)が押された平安時代の国府発行公文書の原本
  • 現状: 全国で「0件(未発見)
  • 事例解説               

律令制の規定では公式文書への国印の押印が義務付けられていましたが、平安時代の紙の原本は1件も確認されていません。現在、教科書などで目にする国印付きの公文書は、すべて後世に書き写された「写し(案文)」です。

  1. 国印の押印が無い国府発行の公文書の原本
  • 現状: 全国で「10件〜20件程度
  • 事例解説

高野山伝来の国宝『観音寺文面(紀伊国府発行)』など、国印はないものの、日付や国司の署名が揃った公式な原本です。平安後期に国印の代わりに国司の手書きサイン(花押)だけで発行された「国宣」などもここに含みます。

  1. 国印以外の「私印・業務印」がある原本(裏紙・出土品含む)
  • 現状: 全国で「10件〜20件程度
  • 事例解説

多賀城跡などの国府遺跡から出土する「漆紙文書」において、倉庫管理に使われた「米」や「請」などの小さな日常の業務印(検印)が押された破片や、国司個人が手紙に捺した「私印(プライベートな印)」の極めて稀な実例です。

  1. 押印が「一切ない」国府関連の原本(署名・花押のみ、裏紙・出土品含む)
  • 現状: 全国で「300件〜500件程度
  • 事例解説

当時は、紙は貴重であり、紙の裏面も利用していたため国宝『医心方』の裏紙などから大量に発見されています。国府内部の役人同士の連絡メモ、報告書の下書き、税金計算の帳簿の断片です。これらはもともと公式なハンコを捺す必要がない「身内の紙くず」だったため大量に残りました。


国府印を「紛失」した場合の罰則(雑律)

不注意や過失により、うっかり国印をなくしてしまった(亡失)場合の罰則です。

  • 刑罰:「杖(じょう)八十」(木の杖で背中や太ももを80回叩く肉体刑)
  • 条文(雑律・復元文):

「諸(これ)符・節・印及び門鑰(もんやく)を亡失し、及び誤って毀(こわ)す者は、
各(おのおの)二等を減ず」

  • 法解釈の正確な根拠:
    (1)国印などの「諸司・諸国の印(余の印)」を意図的に破壊・破棄した場合の本来の刑罰は、同じ雑律の規定で「徒(ず)一年(1年間の強制労働)」と定められています。
    (2)しかし、故意ではなく「誤って失くした(亡失)」場合は、そこから二等(2ランク)減刑するという法規が適用されます。律令の刑罰の序列(五刑:笞・杖・徒・流・死)において、「徒一年」から2ランク軽くなると「杖八十」となるため、これが紛失時の正確な処罰となります。

国府印を「盗まれた」場合の罰則(賊盗律)

国印が何者かに盗まれた場合、「盗んだ犯人に対する罰則」と、「盗まれた管理責任者に対する罰則」の双方が規定されていました。

  • 盗んだ犯人への罰則
  • 刑罰:「杖一百」(100回叩く刑)または「流刑(島流し)」(目的による)
  • 条文(賊盗律・現存文):

凡(およそ)余の印を盗まば、杖一百。亦(また)利を負(むさぼ)りて行用(こうよう)するに非(あら)ざるを謂(い)う。余の印とは、諸司・諸国の印を謂う」

  • 法解釈の正確な根拠:
    (1)養老律の「賊盗律」に現存する条文です。国印(余の印)を、偽造や悪用目的ではなく「単に物として盗んだ」場合は「杖一百」の刑に処されます。
    (2)ただし、もし「公文書を偽造して悪用する目的(行用)」で国印を盗んだり偽造したりした場合は、国家を揺るがす重大犯罪(偽造神璽符節罪)とみなされ、犯人は「近流(ごんる:最も近い配流地への流罪)」という極めて重い刑に処されました。
  • 盗まれた管理責任者(国司・主鈴)への罰則
  • 刑罰:「笞(ち)三十」から「杖(じょう)六十」(管理の怠慢度合いによる)
  • 条文(雑律・監守衛侍官物亡失条などに基づく):
    (1)律令法では、鍵のかかる公的な倉庫や保管庫(印匣)から官物が盗まれた場合、厳重に鍵を閉めていたにもかかわらず盗賊に破られたのであれば、管理者の罪は免除されるか、最も軽い「笞(ち)三十(30回叩く)」程度に軽減されました。
    (2)しかし、管理者(国府では主に公印の管理を任されていた「主鈴(しゅれい)」という役職や国司)が鍵をかけ忘れたり、保管場所を離れるなどの明確な過失(不謹慎)があって盗まれた場合は、前述の「紛失(亡失)」と同等か、それに準じる過失責任(杖六十〜八十など)を問われ、処罰されました。

将門記の常陸国府の放火と火災:国衙の発掘蝶調査の結果

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将門記には、平将門軍により常陸国府や地域が放火され焼ける様子や、兵に強奪される様子が大げさに記載されています。平安時代の平将門の乱で国府が大火災になった焼痕は発見されていません。よって、将門記に記載されている襲撃や放火は無かったことが客観的な証拠により証明されます。

(1)ふるさと歴史館第36回 企画展の資料パンフレット
常陸国府跡 土に埋まる古代県庁の跡
P17に次のように記載されています。 「発掘調査ではこの時期の建物に焼土など火事の証拠は確認されておらず、 将門記には誇張があるようです。」
(2)常陸国衙跡Ⅲの報告書
常陸国衙跡Ⅲ 国衙域の第3次調査概報 2005年 石岡市教育委員
P11 に、次のように記載されています。
「従って、本来火災に遭ったのは、この古墳時代の住居跡であったのではないか。」という記載がありますが、平安時代に火災があったという報告は記載されていません。

解説で重要な用語一覧


役所間の文書(上下関係や対等関係による使い分け)

律令法で役所同士のやり取りでは、対当する関係(上から下か、対等か、下から上か)によって明確に文書名(書式)が決められていました。これのら、用語が正しく使われているかも捏造に関わる話なのです。

符(ふ)・官符:【上級官庁 ➔ 下級官庁】
  • 上司から部下の役所へ発する命ぜられた命令書。
  • 例:太政官から各省や国司に出す「太政官符(だいじょうかんぷ)」など。
解(げ)・解文:【下級官庁 ➔ 上級官庁】
  • 下から上へ報告・要望・申請を上げるための公文書。
移(い)・移牒(いちょう):【対等な役所間】
  • 上下関係のないほぼ対等な官庁同士で連絡・指示・照会を行う文書。
牒(ちょう)〇〇〇:【独立関係・上下が不明確な役所間】
  • 直接の上下関係がない官庁間や、寺社など行政組織の外に位置する機関や個人とやり取りする文書
  • ※平安時代中期以降、蔵人所(くろうどどころ)や検非違使庁(けびいしちょう)などの令外官(りょうげのかん)が発行する命令書としても多用されました。