常陸国府への襲撃は、調停であり謀反ではなかった。
平将門が常陸国府に行ったか、襲撃はあったか
平将門が、常陸国府にいった証拠がない!
平将門は常陸国にいたのか、襲撃したのか
常陸国府への襲撃でななく国府と藤原玄明との調停であった
軍事・ロジスティクス・地理から見る『将門記』の誇張と矛盾
1.動員数の非現実性(1,000人対3,000人・馬の生存限界)
- 『律令制』下の健児(こんど)の制では、一国の警察・防衛戦力はせいぜい30人〜50人程度です。私兵を集めたとしても数百が限界であり、国府側に3,000人もの兵が集まることは物理的・経済的にあり得ません。
- さらに、数千頭規模の馬が集結した場合、1頭あたり1日約30〜50リットルの水と大量の飼料(草・穀物)が必要です。陣営の周囲でその補給を継続することは不可能であり、1,000〜3,000の軍勢という数字は後世の軍記物(あるいは中国の史書の表現)に倣った完全な空想・誇張です。
以下写真は、当時行われたであろう合戦地です。この写真からも地理的矛盾が感じ取れます。

以下写真は、合戦が行われたとされる場所の現在の様子です。

2-1.地理的・戦術的リアリティの欠如:鎌輪から石岡までの道のり
- 石岡(常陸国府跡)周辺の地形において、開墾事業(営所)の途上であった将門が「他人の調停」のためだけに直ちに1,000の軍勢を率いて30km移動すること自体が不自然です。
<以下写真は、将門が常陸国に向かう為に使ったであろう道筋です。>
馬の事を考え、筑波山は越えては向かわない事を想定すると、1枚目の写真のような道筋が考えられます。更に下、2枚目の3Dの写真を確認しても分かるように高低差はほぼ無く、平坦であった事が分かります。

実際の高さは、出発地点:約20m(鎌輪)、中間地点:約29m(宝篋山麓付近)、到着地点:約25m(常陸国府)と高低差は20mもありません。

2-2.地理的・戦術的リアリティの欠如:合戦が行われたであろう場所
- 合戦の火災や混乱で直線距離で1km前後離れた「国分寺・国分尼寺」に被害が出たとされながら、目と鼻の先(国府跡のすぐ隣)に位置する「総社宮(常陸国総社宮)」への被害記録がまったく出てこないのは、地理的矛盾として極めて不自然です。
3.戦死者の不記載と財宝の誇張
国府印は平安時代初期に利用が廃止された
『将門記』等で「将門が奪い取った」とされる「国印」について。
- 署名主義への移行と国印の形骸化 延喜格(908年)以降の貴族政治の運用において、公文書の正当性は「四等官(守・介・掾・目)の自筆署名」へと実質的に移行していました。仮に国印が存在したとしても、四等官の正規の署名が伴わなければ公文書としての法的効力(自筆の証明)を発揮できません。
- 物理的・歴史的物証の不在 全国60余カ国の国府跡から「国印」が出土した例はただの1件も存在しないという客観的事実は、印章自体が厳重に回収されたか、あるいは公務上の実用性を失っていたことを物語っています。銅としての金属価値以外に、将門がこれらを奪う政治的・法的メリットは皆無でした。
以下:石岡市教育委員会”常陸国衙跡Ⅲ”より 提供:石岡市教育委員会 文化振興課文化財
常陸国府の国印(「常陸国印」の印影)は、石岡市が発行する『石岡市史』や歴史ガイドブックなどの書籍において利用されているものです。 この印影は本物ですが、平安時代のものでな無く、奈良時代のもので、常陸国府が東大寺に発行した書類等に押された印影が正倉院に保存さていました。石岡市がその印影を東大寺から提供を受けたものです。


平将門が、常陸国府に行った証拠がありません。将門記は、軍記物語であり、原本がなく約160年後の写本であり、実際に原本がなく、原本が誰がいつ書いたかも不明で、しかも写本約160年後の写本で高野山の「源信」という学僧なのですが、存在したかどうかも不明なのです。そんな資料を、刑事の証拠にはなり得ません。