藤原玄明は架空の人物!平将門の常陸国府への襲撃は無かった。
- 藤原玄明は架空の人物
- 常陸国府への襲撃は無かった!
- 襲撃ではなく調停?
- 合戦は無かった!地理的・物理的矛盾
- 国印強奪は無かった・制度の変更
- 国府への放火無かった・国衙発掘調査
- 上野国府の襲撃・平将門の乱の捏造!
- 平将門の乱:追捕太政官符・偽造文書
- 「貞信公記」は平将門の乱の捏造証拠
- 平将門
- 平将門の乱
- 時代背景
- 将門の家系図
- 平将門人物像
- 真福寺本将門記
平将門の乱の開始は、常陸国府襲撃であり、2つの観点を検証する必要があります。
(1)将門記に登場する藤原玄明は、架空人物だった検証!
(2)常陸国府で平将門による襲撃の合戦があり、放火や国印の強奪があったかの検証
常陸国府襲撃は無かった証明:藤原玄明は架空の人物であった!
『将門記』に登場する常陸国の「藤原玄明」という人物、および彼をめぐる国府襲撃事件は、当時の公文書、法律(律令)、戸籍制度、地理的条件、そして軍事常識から検証して、現実には実在しない人物であり完全なフィクション(創作)です。
以下の文章は、将門記における『藤原玄明』が最初に登場する文章です。この文章は、武蔵国の国府の介の源経基が、平将門を謀反の罪で疑訴した事件(平将門が謀反で訴えられた事件で太政官会議で無罪になり、源経基が逮捕された事件)の後にいきなり登場する文章です。
以下の文章を読んでみると常陸国の藤原玄明という人物がいて、極悪人でありながら、妻子を連れて儒教的にいい人と思ってしまいます。悪さは大げさに言っているだけであり、将門なら、困っている人を助けたであろうという考えに陥ってしまうのです。しかしながら、この文章が1000年以上日本の歴史をだまし続けたのです。この文章を法律行為的に考えると以下の結果になってします。
- 常陸の国に、藤原玄明という、日ごろ強奪や窃盗、虐待を行い、納税もしない極悪人がいた。国府が命令しても全く言う事を聞かない。
- 藤原玄明は、「行方郡」「河内郡」の2件の郡衛の朝廷が管理する不動倉の門や鍵を壊し、蔵の穀物を盗み、下総国の平将門の所に逃げた。
- 平将門は、謀反人とも言えるような極悪人を保護し常陸国府の業務を妨害したすべの罪の共犯者(連座)である。
と同時に、平将門を常陸国府で襲撃したことに結びける文章だったのです。
「その当時、常陸国に居住する藤原玄明(ふじわらのはるあき)等は、もともと国に危険な人物であり、人民にとって害毒となるものであった。農作物の時節になると、一町の土地を横領し、官納物に至っては一束一把(いっそくいちわ)ほどの納入もしない。国の使者がやってきて、責めるのを侮って辱め(あなどってはずかしめ)、さらに弱い人民の実を脅かして略奪さえも行った。その所業を見ると、夷狄(いてき)よりも甚だしく、その節操聞くと、盗賊と変わりない。
そこで長官藤原維幾朝臣は、官納物を納入させるために、度々移牒の文書送ったけれども、逆らって拒むだけで一向に国府に出向かなかった。公の意向に背いては、思いのままに猛悪の所業を行った。
私的に居宅を構えては、その区域から強引に摂取を行って虐待したのであった。
長官(藤原維幾)は、漸(ようや)く度々の罪過を集め、官符の趣旨により追捕しようとしている間に、(玄明は)急に妻子を引き連れて下総国の豊田郡に逃れ渡った。
その行きがけに盗みとった行方・河内郡の不動倉の穀や糒(ほしい)などの数量は郡司が注進(急いで報告)した日記に記録があった。
それゆえに、(玄明を)捕らえて送り帰らせよとの内容の移牒が下総国並びに将門に送られた。
しかし、(将門は)常の逃亡中との理由をつけて、もともと捕らえ渡す考えがなかった。」
上記の文章は、通常、読み流してしまいます。よく見てみると、藤原玄明と常陸国府の長官である藤原の維幾は、姓名で主語になっています。「平将門」という言葉はこの文章には登場しません。最後の部分に「捕らえて送り帰らせよとの内容の移牒が下総国並びに将門に送られた。」として、「将門」が1回記載されているだけです。平将門が主語になっていないこと、述語として何かの行為を行っていないので通常読み流してしますので。これが、比叡山の学僧の文章能力なのです。
その決定的な証拠は以下の通りになります。
1.常陸国の介藤原維幾は、国府の長官として藤原玄明に対して何らの法的手続きを実施していない。
2. 記録の不在と描写の自己破綻
3.将門記の記載の子連れ逃亡路における「軍事的な不可能性」
4.霞ヶ浦を挟む「地理的・ルート的な破綻」
5.藤原玄明の罪は不動倉の襲撃と強奪「謀反」:何故国府は、朝廷に未報告!
6. 戸籍制度と「藤原姓」の特権性における矛盾
8.不動倉の襲撃は、貞信公記抄にも記載されていない
10.結論:将門記に登場する藤原玄明は、現実に存在しない架空の人物
『将門記』では:平将門の目的は襲撃でななく国府と藤原玄明との調停であった!
平将門が常陸国府に行ったか、襲撃はあったか
平将門が、常陸国府に行った証拠がない!
平将門は常陸国にいたのか、襲撃したのか
『将門記』の常陸国襲撃の軍事・ロジスティクス・地理から見る誇張と矛盾
1.動員数の非現実性(1,000人対3,000人・馬の生存限界)
- 『律令制』下の健児(こんど)の制では、一国の警察・防衛戦力はせいぜい30人〜50人程度です。私兵を集めたとしても数百が限界であり、国府側に3,000人もの兵が集まることは物理的・経済的にあり得ません。
- さらに、数千頭規模の馬が集結した場合、1頭あたり1日約30〜50リットルの水と大量の飼料(草・穀物)が必要です。陣営の周囲でその補給を継続することは不可能であり、1,000〜3,000の軍勢という数字は後世の軍記物(あるいは中国の史書の表現)に倣った完全な空想・誇張です。
以下写真は、当時行われたであろう合戦地です。この写真からも地理的矛盾が感じ取れます。
地理院地図で四角の赤枠が石岡小学校の校庭・運動場で『常陸国府跡』です。
その下赤枠が、常陸国総社宮です。総社宮は、将門記の襲撃被害状況の説明に出てきません。
一方、地図の右上が『国分寺』で国府跡から直線で赤い点線で表せている距離が約900メートルです。左側上、国府から約1300メートル地点が『『国分尼寺』です。合戦の説明は地理的にも破綻しています。合戦はなかったことが証明できます。

2-1.地理的・戦術的リアリティの欠如:鎌輪から石岡までの道のり
- 石岡(常陸国府跡)周辺の地形において、開墾事業(営所)の途上であった将門が「他人の調停」のためだけに即座に1,000の軍勢を率いて30km移動すること自体が不自然です。
<以下写真は、将門が常陸国に向かう為に使ったであろう経路です。>
馬の事を考え、筑波山を越えては向かわない事を想定すると、1枚目の写真のような道筋が考えられます。
更に下、2枚目の3Dの写真を確認しても分かるように高低差はほぼ無く、平坦であった事が分かります。

実際の高さは、出発地点の鎌輪の営所:約20m(鎌輪)、中間地点:約29m(宝篋山麓付近)、到着地点の常陸国府:約25mと高低差は10mもありません。

2-2.地理的・戦術的リアリティの欠如:合戦が行われたであろう場所
- 合戦の火災や混乱で直線距離で1km前後離れた「国分寺・国分尼寺」に被害が出たとされながら、目と鼻の先南側(国府跡のすぐ隣)に位置する「総社宮(常陸国総社宮)」への被害記録がまったく出てこないのは、有り得ない話です。上記のルートで常陸国府に入った場合、国府より総社宮の方が先に被害を被ることになり、将門記の記載は地理的に破綻しています。
3.戦死者の不記載と財宝の誇張
平将門の国府印の強奪はなかった!国印は平安時代初期に利用が廃止!

『将門記』等で「将門が奪い取った」とされる「国印」について
- 署名主義への移行と国印の形骸化: 延喜格(908年)以降の貴族政治の運用において、公文書の正当性は「四等官(守・介・掾・目)の自筆署名」へと実質的に移行していました。仮に国印が存在したとしても、四等官の正規の署名が伴わなければ公文書としての法的効力(自筆の証明)を発揮できません。
- 物理的・歴史的物証の不在: 全国60余カ国の国府跡から「国印」が出土した例はただの1件も存在しないという客観的事実は、印章自体が厳重に回収されたか、あるいは公務上の実用性を失っていたことを物語っています。銅としての金属価値以外に、将門がこれらを奪う政治的・法的メリットは皆無でした。
以下:石岡市教育委員会”常陸国衙跡Ⅲ”より 提供:石岡市教育委員会 文化振興課文化財
常陸国府の国印(「常陸国印」の印影)は、石岡市が発行する『石岡市史』や歴史ガイドブックなどの書籍において利用されているものです。 この印影は本物ですが、平安時代のものでな無く、奈良時代のもので、常陸国府が東大寺に発行した書類等に押された印影が正倉院に保存されていたものです。石岡市がその印影を東大寺から提供を受けたものなのです。

