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常陸国府への襲撃は、調停であり謀反ではなかった。


平将門が常陸国府に行ったか、襲撃はあったか


平将門が、常陸国府にいった証拠がない!

平将門が、常陸国府に行った証拠がありません。将門記は、軍記物語であり、原本がなく約160年後の写本であり、実際に原本がなく、原本が誰がいつ書いたかも不明で、しかも写本約160年後の写本で高野山の「源信」という学僧なのですが、存在したかどうかも不明なのです。そんな資料を、刑事の証拠にはなり得ません。


平将門は常陸国にいたのか、襲撃したのか

襲撃があったならな、かならず、証拠があるはずなのです。しかしながら、平将門が常陸国に行った証拠が全く存在しないのです。

その1:朝廷への謀反の至急の報告
将門記のような戦闘、火付け、印や国倉のもの、国府のものの強奪があった場合、国司は、養老律令や三大格式等の法律で報告することになっています。また、国印の紛失や強奪された場合にも報告しなかった場合、法律の規定で解任されますが、本人の不始末で報告しなかった場合には重罪で流罪や死刑になるのです。この報告が国府にも、調停にも存在しないのです。
その2:平将門追討の太政官符の存在
平将門追討の太政官官符は、何故か、原本は存在していないのですが、扶桑略記という本(1094年以降・平安末期成立:著者 皇円)の中に天慶3年1月11日付「平将門追討太政官符」の文面があるのです。本件については、別途、提示しますが、この官符には、常陸国や下野国、上野国を襲撃した記載がないのです。また、新皇宣言や除目の実施や、国印の強奪、国府建物等の火付けのことも記載されていません。太政官符は、法律に定められた命令書で行政文書の中で最も格式が高い文書で太政官の文書専門官が作成し、太政大臣が署名・押印して国府等に送付されるものです。
その3:謀反の事実を国司が朝廷に文書で提出していれば、将門記も太政官符もなかった!
どういうことかですが、将門記の記載の国府への襲撃、国府の建物への火付け、国印の強奪、国司の殺人は、養老律令の律(刑法)で謀反という最も重い罪で一発で「死刑」なのです。この結論は、平将門は、常陸国府にいった可能性は否定できないですが、国府への襲撃、国府の建物への火付け、国印の強奪、国司の殺人は、なかったことを法律的・歴史的に証明しています。では、何故、平将門の乱があるのかですが、これは冤罪とは別の説明に説寧する話です。当時の朝廷の天皇や法律を無視した貴族人治政治と国司・地域の利権豪族による暗殺と考えられます。

常陸国府への襲撃でななく国府と藤原玄明との調停であった

将門が常陸国府に向かった真の目的と当時の状況を整理すると、彼の行動は一貫して「法と義」に基づいていたことが見えてきます。

  1. 武力行使ではなく「対話と解決」のための現地赴任

藤原玄明を不当に追詰める常陸国司(藤原維幾ら)に対し、将門はハナから戦争をするために向かったのではありません。律令と延喜格を熟知した「法律家」として、また儒教の「義」を重んじる「指導者」として、両者の間に立ち、不当な搾取や冤罪(疑罪)を解消するための公的な「調停(話し合い)」を行うために常陸国府へ向かいました。

  1. 常陸国司側の「自滅」と「冤罪の捏造」

国府側は、法論(法律の議論)や道義で勝てるはずもない「法学者・将門」が乗り込んできたことに恐怖し、自分たちの不正(売官や過剰な徴税)が暴かれることを恐れました。 その結果、国司側が先に武力を行使したか、あるいは自ら国府を捨てて逃亡・混乱を引き起こした可能性が極めて高いと言えます。

  1. 「朝敵」へ仕立て上げるための言論格闘

国司たちは自分たちの不始末や逃亡を隠蔽し、京都の朝廷からの処罰を免れるために、「将門が国府を襲撃し、反乱を起こした(新皇を称した)」という大嘘(誣告)報告を京都へ送りつけました。 源経基の時と同じく、またしても「不正を行う国司側による嘘の告発(誣告)」が捏造されたわけです。


軍事・ロジスティクス・地理から見る『将門記』の誇張と矛盾


1.動員数の非現実性(1,000人対3,000人・馬の生存限界)

  • 『律令制』下の健児(こんど)の制では、一国の警察・防衛戦力はせいぜい30人〜50人程度です。私兵を集めたとしても数百が限界であり、国府側に3,000人もの兵が集まることは物理的・経済的にあり得ません。
  • さらに、数千頭規模の馬が集結した場合、1頭あたり1日約3050リットルの水と大量の飼料(草・穀物)が必要です。陣営の周囲でその補給を継続することは不可能であり、1,0003,000の軍勢という数字は後世の軍記物(あるいは中国の史書の表現)に倣った完全な空想・誇張です。

以下写真は、当時行われたであろう合戦地です。この写真からも地理的矛盾が感じ取れます。

以下写真は、合戦が行われたとされる場所の現在の様子です。


2-1.地理的・戦術的リアリティの欠如:鎌輪から石岡までの道のり

  • 石岡(常陸国府跡)周辺の地形において、開墾事業(営所)の途上であった将門が「他人の調停」のためだけに直ちに1,000の軍勢を率いて30km移動すること自体が不自然です。

<以下写真は、将門が常陸国に向かう為に使ったであろう道筋です。>
馬の事を考え、筑波山は越えては向かわない事を想定すると、1枚目の写真のような道筋が考えられます。更に下、2枚目の3Dの写真を確認しても分かるように高低差はほぼ無く、平坦であった事が分かります。

実際の高さは、出発地点:約20m(鎌輪)、中間地点:約29m(宝篋山麓付近)、到着地点:約25m(常陸国府)と高低差は20mもありません。


2-2.地理的・戦術的リアリティの欠如:合戦が行われたであろう場所

  • 合戦の火災や混乱で直線距離で1km前後離れた「国分寺・国分尼寺」に被害が出たとされながら、目と鼻の先(国府跡のすぐ隣)に位置する「総社宮(常陸国総社宮)」への被害記録がまったく出てこないのは、地理的矛盾として極めて不自然です。

3.戦死者の不記載と財宝の誇張

  • 双方合わせて4,000人の大合戦でありながら「具体的な戦死者の氏名や殺害の描写がない」ことや、地方の国府に「絹万疋・金銀財宝の箱が幾千幾万もあった」とする記述は、当時の東国の経済規模(京への年貢の輸送体系)から見ても明らかにあり得ないフィクション(虚構)です。

国府印は平安時代初期に利用が廃止された

『将門記』等で「将門が奪い取った」とされる「国印」について。

  • 署名主義への移行と国印の形骸化 延喜格(908年)以降の貴族政治の運用において、公文書の正当性は「四等官(守・介・掾・目)の自筆署名」へと実質的に移行していました。仮に国印が存在したとしても、四等官の正規の署名が伴わなければ公文書としての法的効力(自筆の証明)を発揮できません。
  • 物理的・歴史的物証の不在 全国60余カ国の国府跡から「国印」が出土した例はただの1件も存在しないという客観的事実は、印章自体が厳重に回収されたか、あるいは公務上の実用性を失っていたことを物語っています。銅としての金属価値以外に、将門がこれらを奪う政治的・法的メリットは皆無でした。

以下:石岡市教育委員会”常陸国衙跡Ⅲ”より 提供:石岡市教育委員会 文化振興課文化財
常陸国府の国印(「常陸国印」の印影)は、石岡市が発行する『石岡市史』や歴史ガイドブックなどの書籍において利用されているものです。 この印影は本物ですが、平安時代のものでな無く、奈良時代のもので、常陸国府が東大寺に発行した書類等に押された印影が正倉院に保存さていました。石岡市がその印影を東大寺から提供を受けたものです。


平安時代に限った国府の文書類の原本:国印の実態

修正・更生したデータと事例解説

  1. 国印(○○国印)が押された平安時代の国府発行公文書の原本
  • 現状: 全国で「0件(未発見)
  • 事例解説               

律令制の規定では公式文書への国印の押印が義務付けられていましたが、平安時代の紙の原本 は1件も確認されていません。現在私たちが教科書などで目にする国印付きの公文書は、すべて後世に書き写された「写し(案文)」です。

  1. 国印の押印が無い国府発行の公文書の原本
  • 現状: 全国で「10件〜20件程度
  • 事例解説

高野山伝来の国宝『観音寺文面(紀伊国府発行)』など、国印はないものの、日付や国司の署名が揃った公式な原本です。平安後期に国印の代わりに国司の手書きサイン(花押)だけで発行された「国宣」などもここに含みます。

  1. 国印以外の「私印・業務印」がある原本(裏紙・出土品含む)
  • 現状: 全国で「10件〜20件程度
  • 事例解説

多賀城跡などの国府遺跡から出土する「漆紙文書」において、倉庫管理に使われた「米」や「請」などの小さな日常の業務印(検印)が押された破片や、国司個人が手紙に捺した「私印(プライベートな印)」の極めて稀な実例です。

  1. 押印が「一切ない」国府関連の原本(署名・花押のみ、裏紙・出土品含む)
  • 現状: 全国で「300件〜500件程度
  • 事例解説

国宝『医心方』の裏紙などから大量に発見されている、国府内部の役人同士の連絡メモ、報告書の下書き、税金計算の帳簿の断片です。これらはもともと公式なハンコを捺す必要がない「身内の紙くず」だったため大量に残りました。


国府印を「紛失」した場合の罰則(雑律)

不注意や過失により、うっかり国印をなくしてしまった(亡失)場合の罰則です。

    • 刑罰:「杖(じょう)八十」(木の杖で背中や太ももを80回叩く肉体刑)
    • 条文(雑律・復元文):

「諸(これ)符・節・印及び門鑰(もんやく)を亡失し、及び誤って毀(こわ)す者は、
各(おのおの)二等を減ず」

    • 法解釈の正確な根拠:
      (1)国印などの「諸司・諸国の印(余の印)」を意図的に破壊・破棄した場合の本来の刑罰は、同じ雑律の規定で「徒(ず)一年(1年間の強制労働)」と定められています。
      (2)しかし、故意ではなく「誤って失くした(亡失)」場合は、そこから二等(2ランク)減刑するという法規が適用されます。律令の刑罰の序列(五刑:笞・杖・徒・流・死)において、「徒一年」から2ランク軽くなると「杖八十」となるため、これが紛失時の正確な処罰となります。

国府印を「盗まれた」場合の罰則(賊盗律)

国印が何者かに盗まれた場合、「盗んだ犯人に対する罰則」と、「盗まれた管理責任者に対する罰則」の双方が規定されていました。

    • 盗んだ犯人への罰則
      • 刑罰:「杖一百」(100回叩く刑)または「流刑(島流し)」(目的による)
      • 条文(賊盗律・現存文):

凡(およそ)余の印を盗まば、杖一百。亦(また)利を負(むさぼ)りて行用(こうよう)するに非(あら)ざるを謂(い)う。余の印とは、諸司・諸国の印を謂う」

      • 法解釈の正確な根拠:
        (1)養老律の「賊盗律」に現存する条文です。国印(余の印)を、偽造や悪用目的ではなく「単に物として盗んだ」場合は「杖一百」の刑に処されます。
        (2)ただし、もし「公文書を偽造して悪用する目的(行用)」で国印を盗んだり偽造したりした場合は、国家を揺るがす重大犯罪(偽造神璽符節罪)とみなされ、犯人は「近流(ごんる:最も近い配流地への流罪)」という極めて重い刑に処されました。
    • 盗まれた管理責任者(国司・主鈴)への罰則
      • 刑罰:「笞(ち)三十」から「杖(じょう)六十」(管理の怠慢度合いによる)
      • 条文(雑律・監守衛侍官物亡失条などに基づく):
        (1)律令法では、鍵のかかる公的な倉庫や保管庫(印匣)から官物が盗まれた場合、厳重に鍵を閉めていたにもかかわらず盗賊に破られたのであれば、管理者の罪は免除されるか、最も軽い「笞(ち)三十(30回叩く)」程度に軽減されました。
        (2)しかし、管理者(国府では主に公印の管理を任されていた「主鈴(しゅれい)」という役職や国司)が鍵をかけ忘れたり、保管場所を離れるなどの明確な過失(不謹慎)があって盗まれた場合は、前述の「紛失(亡失)」と同等か、それに準じる過失責任(杖六十〜八十など)を問われ、処罰されました。

藤原玄明は、実際に存在したか。フィクションの人物だった!