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平将門の乱:上野国府の新皇宣言・国司の徐目の実施は100%捏造


上野国の国の襲撃と新皇宣言と徐目の実施について

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この上野国府の襲撃は、3つの点から無かったことを証明致します。

(1)藤原玄茂が存在した人物なのか?
上野国府で新皇宣言や除目の実施があったかどうかは、常陸国掾の藤原玄茂という国司が実在の人物かということが最重要点です。将門記の記載を精査すると、新皇宣言や除目の実施において、主宰、段取り、宣旨を実際に行ったのは、武蔵権守興世王と藤原玄茂ということになっています。除目に関しては藤原玄茂が中心になって行っています。また、除目は、八か国の国司ばかりでなく、太政官の組織や二官八省の役人まで及ぶことが記載されています。この決定に平将門が関わっていることが記載されていません。そこで、藤原玄茂が存在する人間だったかについて調査しました。 結果は、「常陸国府の掾」国府側:天皇宣言・除目の主宰者→「常陸国府の介」除目後・将門側→「将門側の副将軍」→相模国で死亡したことになっています。明らかに架空人物だということが分かります。
(2)平将門は、上野国に行って新皇宣言や除目を自ら決定し、自ら行ったのか?
平将門の乱を法律的行為、及び平将門の意思表示、その証拠があったかという問題です。文章をよく読むとわかりますが、平将門は、新皇宣言を宣言していません。宣言書の作成や徐目の決定の自らの行っていません。
(3)平将門は、上野国に行って新皇宣言や除目の実施の動機があったか?
平将門の乱を法律的、及び平将門の本人側から見た場合、新皇宣言や耳目を行う動機が存在したかという問題です。結果は、法律的に「謀反」の根拠が無いことから、平将門が上野国府の襲撃する動機はなかったという結論です。 以下に項目別に理由を明記しています。                                

新皇宣言・除目を主宰、副将軍になった藤原玄茂は架空の人物!

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将門記の上野国襲撃における「新皇即位」(新皇宣言)に登場する藤原玄茂(ふじわらはるもち)は、将門記の記載内容が出鱈目であり架空の人物です。

上記において、藤原玄茂は、平安時代の939年まで常陸掾の国司であり、平将門の新皇宣言の段どりや組織全体の除目の決定まで可能で、実際に騎馬戦一騎打ちも可能な平将門軍の副将軍として戦場で合戦まで行ったことになっています。平将門軍の副将軍であり、右大臣や左大臣、官八省等の人事決定まで出来る能力のある人間は、坂東地域はもちろんのこと、京にも存在し得ないのであり、藤原玄茂はフィクション登場人物である事は明確です

よって、新皇宣言、除目の実施が無かったことは確定的です。


架空人物の証明1:藤原玄茂は将門記だけの登場人物

平安時代に、「藤原玄茂」という人物が登場するのは、平将門が亡くなってから約160年後に造られた『将門記』又は『将門記』を引用・参照する形式のものだけです。藤原氏の系図や尊卑分脈等系図にも登場しません。ウィキペディアには、名前はでてきますがどこの誰かは不明です。常陸国の襲撃に登場した「藤原玄明」とお同じ様に架空の人物です。何故、那珂郡、久慈郡の藤原氏を登場させなければならなかったのか。それは、藤原玄明や藤原玄茂が出目の可能性を演出する為だと言えます。これを作成した比叡山の貴族僧の浅はかな考えです。

将門記における那賀郡、久慈郡の藤原氏が登場するのは、常陸再征の部分で以下のように記載されています。

「天慶三年正月中旬、残りの敵を討つために、5千の兵を引き連れて常陸国へ出向いた。その時、藤原氏国境に出迎え、美味を尽くして大いに饗応した。新皇が勅して言った。『藤原氏ら、掾貞盛ならびに為憲らのっ所在を示し申せ』と。」

この文章自体で「5千の兵」、「国境」、「美味を尽くして大いに饗応」、「掾貞盛」において破綻しているのがわかりますが、本題を記載します。

那珂、久慈両郡の藤原氏は、有り得ません。その理由は、以下の通りです。

(1)那賀郡、久慈郡の藤原氏の立場
  • 平安時代の中期までに、藤原氏や中臣氏が久慈郡・那珂郡の郡司、国造、豪族として古事記や日本書紀等、常陸国風土記等の文献に掲載はされていません。
  • 794年以前の久慈郡・那珂郡は、藤原氏のような中央貴族ではなく、建借馬命や船瀬足尼の後裔を称する「壬生氏」「丸子氏」「長幡部氏」といった古代の在地豪族(国造一族)が確固たる基盤を持って国作りを行っていた時代です。よって、これは、藤原玄明や藤原玄茂らの架空の人物を登場しやすくする捏造です。
(2)延期式内社に見る郡の地域支配

平安時代の常陸国は、以下の11郡です。
新治郡(にいはりぐん)、真壁郡(まかべぐん) (古くは白壁郡とも)、  筑波郡(つくばぐん)、河内郡(かわちぐん)、信太郡(しだぐん)、茨城郡(いばらきぐん)、 行方郡(なめかたぐん)、鹿島郡(かしまぐん)、那珂郡(なかぐん) (当時は那賀郡とも表記)、久慈郡(くじぐん)多珂郡(たかぐん)

延喜式における常陸国の延期式内社は、大社7座7社(名神大社)・小社21座20社の計28座27社です。

このうち、那珂郡は7社(大2座・小5座)、久慈郡には7社(大1座・小6座)であり、11郡の半分の延喜式内社が、那珂郡と久慈郡に集中していました。これらの神社は、鹿島神宮の武甕槌大神(たけみかづちのかみ)とは、異なる独自の祭神です。
この意味は、この2郡は、圧倒的な経済力とそれぞれの協力な豪族が存在していたということです。中臣氏や藤原氏は、関係ない、強力な神の存在があり、祭りごとを行っていたという事の証明です。これらの状況に変化が起こるのは、平将門が亡くなった以降の話です。

よって、那珂郡・久慈郡の藤原氏が平将門を国境に出迎えて宴席を設けて接待するような話はあり得ません。


架空人物の証明3:常陸国掾の藤原玄茂は100%存在しない

藤原玄茂が将門記に最初に登場するのは、上野国の襲撃時の新皇宣言の場面であり、官職は「常陸掾」であり、常陸国の国司です。しかしながら、常陸国は新王大国であり、「常陸掾」という官職はありません。「大掾」と「少掾」であり、藤原玄茂がどのような人物か知らないで記載していること、敵と味方の区別も混乱していることが明白です。ちなみに、本サイトの「平将門家系図と一族争い関係図」を見ればわかりますが、その時の「常陸大掾」は源護であって、平国香、平良兼、平良正は、常陸大掾の娘を妻にしており、介の藤原維幾は国香の妹を妻にしています。よって、常陸掾の藤原玄茂は、100%架空の人物です。


架空人物の証明4:藤原玄茂が新皇宣言の主宰者や除目の決定者・宣旨者は、100%有り得ない

国府側の常陸掾の藤原玄茂は、いきなり、上野国の新皇宣言や主宰者になって登場します。上野国の新皇宣言の主宰や除目の決定・宣旨に平将門の名は、出てきません。これは常陸国掾の国司が将門に味方したということになり、事実だとした場合、常陸国介の藤原維幾の責任問題であり、罷免どころの騒ぎではないのです。即、朝廷に報告され、藤原玄茂は、間違いなく「謀反」として「死刑」です。なお、近代の市史に「内応(内通・裏切り)」説がありますが、「謀反」に該当すること、「常陸掾」の官職自体が存在していない為あり得ません。

  • 藤原玄茂は、その後の日付が不明の日に、除目の決定、右大臣や、左大臣・・・文官100官などを決定していますが、将門側に右大臣や左大臣を勤まる人材・文官100の人材がいるわけも無く、夢物語です。比叡山の貴族僧が架空人物を登場させ約160年後に書いたつじつま合わせの100%フィクションです。

架空人物の証明5:藤原玄茂は、除目で「守」ではなく「介」なのか!架空人物だからです。

除目のめくらましと考えられますが、8人の国司を決定したにも関わらす、8人の内、6人は「守」で、藤原玄茂と武蔵権守興世王は「介」であることも不自然です。
武蔵権守興世王も実際に存在していたかという事になる疑問がありますが、武蔵国の将門の仲裁事件の記載もある事、本調査の趣旨は、上野国の襲撃に関して除目が存在しない事を目的としているため、藤原玄茂だけについて記載します。
この将門記の作者の意図は、実際に存在しない人物を「守」にしてしまうと藤原玄茂が注目されてしまい、嘘であることがバレやすいと考えたと思われます。将門記は、当時、公家や武家・豪族等を対象にしているものであり、一般に読まれことを想定していなかったのです。藤原玄茂を「守」にしてしまうと、京都に存在していたことになり、バレてしまう。「介」であれば、地方にいる役人という事で誰だかわからないと考えたはずです。


架空人物の証明6:藤原玄茂が、平将門軍の副将軍は100%捏造

まず、当時は基本的に一騎打ちの騎馬戦です。騎馬上の槍の名手、接近戦では刀の名手です。国司出身の名も無い藤原玄茂が将門に次ぐ副将軍を勤まるわけは絶対にないのです。将門記において、日付不明の藤原秀郷と平貞盛との「下野の合戦」において、いきなり、将門軍の副将軍として登場し、陣頭を務め、敵の動きを知るために高い山にのぼり、4000の敵を見つけて将門等の本陣に伝えず、結果的に自ら負けて離散した戦況の記載があります。ちなみにこの時に死亡した思いきや、ご丁寧に残党狩りで何故か相模国で死んでいます。
将門記の著作者は、強力な平将門軍が負けるきっかけを、架空の人物である「藤原玄茂」を利用して演出したのです。


架空人物の証明7:大将軍藤原忠文への官符も無かった!

将門記では、「大将軍藤原忠文、副将軍藤原忠舒らを八か国(坂東)に遣わした。これにより、将門の兄・将俊(まさとし)および(常陸介の)藤原玄茂らが相模国で殺された。興世王は上総国で誅され、坂上遂高・藤原玄茂らは皆、常陸国でおいて斬られた。」と記載されています。
しかしながら、その後の記録の『古事談(こじだん)』や、平安時代の記録である『日本紀略(にほんきりゃく』、のちの歴史書である『百錬抄(ひゃくれんしょう)』では、大将軍藤原忠文、副将軍藤原忠舒の正規軍は、坂東に着くまでに岐阜あたりで引き返しており、辻褄が合っていません。


1.天慶2年12月15日(939年)に上野国府を襲撃した証拠なし

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そもそも、平将門が天慶2年12月15日(939年12月28日)に上野国に行ったというのは、将門記に記載されているだけで客観的な証拠が何もありません。また、上野国の国府からの朝廷への報告も客観的な証拠としてはありません。貞信公記抄平将門追捕の太政官符にも記載されていません。、
本来、養老律令では、国府は襲撃されただけで、又は印鑑が奪われてだけで即座に朝廷に報告しなければならないことになっていました。しかし、報告を行った証拠がないのです。役所は、訴訟も報告も文書です。その日の文書があれば、養老律によって「謀反」として平将門を容易に処刑にできたのです。

それができなかった、理由は以下の2つしか考えられません。

  1. 平将門の襲撃はなかった。新皇宣言も除目もなかった。
  2. 法律を無視して報告をしなかった。

平将門が天慶2年12月15日の上野国の介は、藤原尚範(ふじわらのひさのり)です。
官位(位階):従五位下(じゅごいげ)で、職位(官職):上野介(こうずけのすけ)で、乱後も同じです。 つまり、処罰は受けていないので襲撃がなかったという証明です。

平将門が殺されたのは天慶3年2月14日(940年3月25日)です。刑法は、今も昔もその犯罪の客観的な事実、本人の自白、又は状況的な物的証拠(将門の刀、よろい等)がなければ、刑罰を与えることはできません。なお、養老律令には「疑罪の規定」があり、犯罪の証拠や事実関係が不十分ではっきりしないもの、疑わしいときは重い刑罰を下さず、銅を納めることで実刑を免除(贖罪)させるという原則が定められていたのです。
なお、近代刑法の見本となったローマ法大全は、養老律令より、数百年古い古いのですが、「推定無罪」でした。


2.将門記における上野国の記載概要

以下は、将門記における上野国襲撃における記載内容の概略です。

  1. 将門は、天慶二年(939年)12月15日に上野国に入り、上野国府の の藤原尚範から印を奪い京都に追い返した。
  2. そして、国府を占領して、諸国の除目を思うままに行った
  3. 次に以下の文章が続きます。

    この時一人の巫女が現れた。(これが)云うことには、「八幡大菩薩の使いだ」と口ばしって、朕(天皇)の位 を蔭子平将門に授け奉ろう。 その位記は、左大臣正二位菅原朝臣(道真)の霊魂が表すところで、右八幡大菩薩がが八万の軍を起こしてお授けいたそう。・・・・・・・・・。
    このときに将門は、頭上に両手を高く上げて(位階を受ける動作をして)再拝した。
    ましてや、4万の陣は一斉に立ち上がって歓んだ。数千人がみな伏し拝んだ。・・・・・・・・・・。
    また、武蔵権守(興世王)ならびに常陸掾藤原玄茂らが、その時の主催者となって例えば貧しい人が喜ぶさまは、富を得たかのようであり、はなやかに笑うさまは、まるでハスの(はなの)美しい色が咲き広がったようである。 ここで、自分たちで作成して諡号を奏上した。将門を名づけて新皇といった。(おそらく、「新皇万歳と声をあげた」)


    ※諡号(しごう)とは、神道における「尊号」のことで主に帝王や貴人などの生前や死後に、事績や徳を称えて奉られる特別な名前(贈り名)のことです。日本では歴代天皇の名称で「おくりな」(〇〇の命)とも呼ばれ、仏教の戒名にあたるものとして使われています。
  4. その後、私君・太政大臣藤原忠平への陳状の文章が続くが、将門が自白したような有り得ない話が多数出てくるため、謀反の証明とは直接関係ないと判断し省略しています。
  5. その後、「ある時、」で始まる弟と平将門のやり取りの作り話の記載がでてきますが省略しています。
  6. その後、期日不明の決定を行い、国司(8ヵ国)の守と諸国の受領決定、王城建設の議決、皇居の場所、右大臣・左大臣、納言産後、文官百官(※文官100人)、六弁八史ら(※弁官局)をすべて決定したことが記載されています。かなりばかげた話の為、重要な最初の部分だけ記述します。
    「まさに武蔵権守興世王は、この時の主宰者であった。玄茂らは、宣旨そして、さらに諸国の徐目を思いのまま行った。 下野守に、弟の平朝臣将頼を任命する。上野守に常羽御厩の別当多治経明を任命する。常陸介に藤原玄茂を任命する。上総介に武蔵権守興世王を任命する。安房守に文屋好立を任命する。相模守に平将文を任命する。伊豆守に平将武を任命する。下総守に平将為を任命する。」と明記されているます。

上記、将門記の上野国府の襲撃に関わる文章のほとんどが問題点のある記述ですが、上野国の襲撃がなかった証明として重要な部分を記述しています。


3.平将門の上野国への襲撃も新皇宣言も無かった!

平将門は、上野国で、新皇宣言や除目の宣旨において言葉及び文章において意思表示は行っていません。
将門記の上野国襲撃の新皇即位の前記文章で確認する事ができます。

この時の即位の式の主宰者だったのは武蔵権守(興世王)と常陸掾藤原玄茂である。この文書が仮に事実だった場合でも、将門自身は集まった人に対し、明確な意思表示をしたとは言えません。除目の決定においても、将門は関わっていない事がわかります。除目の決定と宣旨を行ったのは、興世王と藤原玄茂になります。しかし、既に当サイトでは、藤原玄茂は架空の人物であることを証明しています。藤原玄茂が架空だったという事は、文章を作成した仮称「源信」が創作した捏造であるといえます。結果、平将門が上野国の国府に行った証拠も襲撃した事も無かったと言えるのです。


4.本拠地を離れて「上野国」で新皇宣言や除目を行う矛盾

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まず、本サイトの目的は、「平将門の乱は無かった」という平将門の冤罪を晴らす目的です。平将門が何を考えていたかは、本人が書き記したものが無い以上、誰にも分りません。しかしながら、平将門の人間像や行っていたことを考慮すると、古代ローマ及び現代の国家の役割にも、該当する内容であり、平将門が平清盛や源頼朝のような存在になる可能性は大きく、貴族政治にとって代わる可能性は必然であったこと、アダム・スミスの道徳感情論や国富論に当てはめると確実視されます。もし、平将門が亡くなっていなかったら、武士の時代が無かったかもしれません。

  • 地元の支援者を無視する不合理:将門の権力基盤は、下総国(豊田郡・岡田郡)や常陸国にいる「在地領主(支援者)」たちです。彼らに推されてリーダーとなった将門が、万が一にも新しい国家や体制を宣言(新皇宣言・除目)するのであれば、当然、自らの地盤であり、最も忠実な支援者たちが集まる「地元(下総国)」で盛大に行うのが道理です。
  • アウェー(国府側)での宣言という不自然さ:ろくに地盤もなく、勢力圏の端にある知らない土地(上野国府)までわざわざ出向いて行って、そこで孤立した状態で国家樹立を宣言するなど、軍事・政治の常識から見ても完全に不自然です。

平将門は田畑の開拓を目指していました。地図上でも分かるように、上野国の地形は山が多く、新規開拓が可能な土地は少なく、難しい地形です。さらに、将門の本拠地には、まだまだ、広大な開拓をする土地が存在する為、わざわざ他国に襲撃に行き、奪うような事はするはずがないと考えられます。


5. 法律の専門家・儒教の素養を持つ将門の「忠義」

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  • 明法家(法律家)としての将門:平将門は、若い頃に京都で「滝口の武士」として天皇の護衛につき、律令法や裁判の手続きを熟知した「法律の専門家」でした。また、当時の武士の最高位の鎮地府将軍の子弟として、「忠義」を絶対の徳目とする儒教教育を子供の頃から叩き込まれて育っています。
  • 朝廷への高い忠誠心:将門が目指したのは一貫して「東国における自らの正当な権利(領地や身分)の主張」であり、事実、武蔵国で国司の源経基の「謀反」の訴えにも冤罪を勝ち取っています。そのような法律と忠義を重んじる人間が、律令法上最悪の罪である「新皇宣言(大逆・謀反)」などという狂気の沙汰に走るわけがありません。

6.平将門が国司の「徐目」を実施することは有りえない!

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  • 将門は、徐目の考えは全くなかった:この当時、平将門自身及び兄弟や、仲間の地域豪族等は、官職や官位がない若輩者であり、国司未経験者でした。いきなり国の「守」になることは有りえないことは将門自身が一番わかっていたのです。京の貴族や学僧は、国司の職位は、金で買えるものと思っているから、このような文章を平気で書けるのです。守は、地方の税務署長であり、警察署長、検察署長・裁判所の所長なのです。明らかに京の貴族僧のフィクションです。
  • 天皇以外が除目を行うと一発で死刑:平将門は法律の専門家であり、除目の最終任命権は天皇にある事を熟知していました。それを天皇以外が行った場合、「謀反」確定で「死刑」であること、連座制であることは知っているのであり、一族、及び地域豪族も死罪になるため行うはずがありません。

7.八幡大菩薩の使いの「巫女」の登場、虚構の世界の演出

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確かに平将門にも信神はありました。そもそも下総国は香取神社の本社の地であり、神社でいえば将門が祈願した神社の多くは香取神社です。その中でも信仰したのは、将門が守護神とした弓田香取神社、将門の父が創建したと伝わる常総市向石下にある香取大明神のはずです。その他にも、関東最古の水神様である利根町の延期式内社の蛟蝄(こうもう)神社、父が信仰した延喜式内社の桑原神社等があります。寺では、石井の営所の鬼門除けの延命寺、鬼門除け本尊の慈光寺があります。平将門は、地域の身近にある神社や寺を信心していたのであり、奈良時代の宇佐八幡宮の「道教」の事件を彷彿させる八幡の神を登場させるフィクションは、漫画のような話で京の貴族僧が考えそうな話です。
なお、平将門は、妙見信仰者ではありません。妙見信仰は、叔父の良文です。また九曜紋も平将門の家紋ではありません。平将門の家紋はありません。


8.何故、上野国で、新皇宣言や除目の虚偽作文を作ったのか

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なぜ『将門記』などの記録(作文)では、わざわざ「上野国で八幡大菩薩の神託を受け、新皇と称して除目を行った」というストーリーを捏造したのでしょうか。


1.藤原氏(朝廷)側の「合法的な死刑」の大義名分

将門が法律に則った正当な防衛・権利主張(受領たちとの内紛)をしているだけでは、朝廷は将門を「死刑(討伐)」に処する大義名分が立ちません。 そのため、京都の藤原氏やその息のかかった貴族僧(藤原氏出身の学僧)たちは、将門を「天皇に成り代わろうとした狂った大逆人」に仕立て上げる必要がありました。


2.上野国が選ばれた作文上の意図

上野国は、常陸国同様に天皇の親族が「守」に任じられる「親王任国」です。そこを襲撃して乗っ取ったという体裁にすることで、文学的・法的に「天皇(皇族)の権威を直接冒瀆した=大逆罪」という絵に描いたような罪状を構成しやすかったと考えられます。ただし、それが、確認できるようになったのは約160年後の話なのです。なぜ、155年後の太政官符(扶桑略記の皇円)、160年後の将門記(源信)なのかです。

律令も崩壊寸前、京も含めて人々の間で御霊(ごりょう)信仰や怨霊意識が強まり、非業の死を遂げた将門の強力な霊力が人々に意識されるように地域で祀れらるようになりだしました。特に東国の民衆や武士の間で「神」や「守り神」として鎮魂・信仰されるよう変化しだしたのです。菅原道真の時も同様でした。当時は、関東の地域の人たちは朝廷に殺されたと思っていたはずです。そこで、反逆者に仕立て上げる必要があったということです。結果、間に合わなかったという事です。