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平将門の冤罪証明2:将門記の新皇宣言・国司の徐目の実施は虚偽記載


1.天慶2年12月15日(939年)に上野国府を襲撃した証拠なし

そもそも、平将門が天慶2年12月15日(939年12月28日)にいったという証拠がない。また、上野国の国府からの朝廷への報告も証明がない。
本来、養老令では、国府は襲撃されただけで、又は印鑑が奪われてだけで即座に朝廷に報告しなければならないことになっていました。それも、報告を行った証拠もないのです。役所は、訴訟も報告も文書です。その日の文書があれば、将門の追討太政官符など出さずとも平将門を容易に処刑にできたのです。

それができなかった、理由は以下の2つしか考えられません。

  1. 平将門の襲撃はなかった。新皇宣言も除目もなかった。
  2. 法律を無視して報告をしなかった。

平将門が天慶2年12月15日の上野国の介は、藤原尚範(ふじわらのひさのり)です。
官位(位階):従五位下(じゅごいげ)で、職位(官職):上野介(こうずけのすけ)で、乱後も同じです。 つまり、処罰は受けていないので襲撃がなかったという証明です。

平将門が殺されたのは天慶3年2月14日(940年3月25日)です。刑法は、今も昔も、本人の自白、その犯罪の客観的な事実、又は状況的な物的証拠(将門の刀、よろい等)がなければ、刑罰を与えることはできません。なお、養老律令には、「疑罪の規定」があり、犯罪の証拠や事実関係が不十分ではっきりしないもの、疑わしいときは重い刑罰を下さず、銅を納めることで実刑を免除(贖罪)させるという原則が定められていたのです。
なお、近代刑法の見本となったローマ法大全は、養老律令より、数百年古い古いのですが、「推定無罪」でした。


2.本拠地を離れて「上野国」で新皇宣言や除目を行う矛盾

まず、本サイトの目的は、「平将門の乱はなかった」という平将門の冤罪を晴らす目的です。平将門が何を考えていたかは、本人が書きしるしたものが無い以上、誰にも分りません。しかしながら、平将門の人間像や行っていたことを考慮すると、古代ローマ及び現代の国家の役割にも、該当する内容であり、平将門が平清盛や源頼朝のようになる可能性は大であり、貴族政治にとって代わる可能性は必然であったこと、アダムスミスの道徳感情論や国富論に当てはめると確実視されます。

  • 地元の支援者を無視する不合理:将門の権力基盤は、下総国(豊田郡・岡田郡)や常陸国にいる「在地領主(支援者)」たちです。彼らに推されてリーダーとなった将門が、万が一にも新しい国家や体制を宣言(新皇宣言・除目)するのであれば、当然、自らの地盤であり、最も忠実な支援者たちが集まる「地元(下総国)」で盛大に行うのが道理です。
  • アウェー(国府方)での宣言という不自然さ:ろくに地盤もなく、勢力圏の端にある知らない土地(上野国府)までわざわざ出向いて行って、そこで孤立した状態で国家樹立を宣言するなど、軍事・政治の常識から見ても完全に不自然です。

3. 法律の専門家・儒教の素養を持つ将門の「忠義」

  • 明法家(法律家)としての将門:将門は若い頃に京都(検非違使庁など)で働き、律令法や裁判の手続きを熟知した「法律の専門家」でした。また、当時の武士の最高位の鎮地府将軍の子弟として、「忠義」を絶対の徳目とする儒教教育を子供の頃から叩き込まれて育っています。
  • 朝廷への高い忠誠心:将門が目指したのは一貫して「東国における自らの正当な権利(領地や身分)の主張」であり、「 天皇」を裏切ることではありませんでした。事実、彼は戦闘中も朝廷に対して自身の正当性を訴える「解文(弁明書)」を何度も送ろうとしています。そのような法律と忠義を重んじる人間が、律令法上最悪の罪である「新皇宣言(大逆・謀反)」などという狂気の沙汰に走るわけがありません。

4.平将門が国司の「徐目」を行うことはありえません。

  • 将門は、徐目の考えは全くなかった:この当時、平将門の兄弟や仲間の地域豪族等は官職や官位がない若輩者であり、国司未経験者でした。いきなり国の「守」になることは有りえないことは将門自身が一番わかっていたのです。京の貴族は、国司の職位は、金で買えるものとおもっているから、このような文章を平気で書けるのです。守は、地方の税務署長であり、警察署長、検察署・裁判所の所長なのです。明らかに京の貴族僧のフィクションです。
  • 天皇以外が除目を行うと一発で死刑:平将門は法律の専門家であり、除目の最終任命権は天皇にある事、それを天皇以外が行った場合、「謀反」確定で「死刑」であること、連座制であることは知っているのであり、一族、及び地域豪族も死罪になるため行うはずがありません。

5.八幡大菩薩の使いの「巫女」の登場、虚構の世界の演出

確かに平将門にも信神はありました。そもそも下総国は香取神社の本社の地であり、神社でいえば将門が祈願した神社の多くは香取神社です。その中でも信仰したのは、将門が守護神とした弓田香取神社、将門の父が創建したと伝わる常総市向石下にある香取大明神のはずです。その他にも、関東最古の水神様である利根町の延期式内社の蛟蝄(こうもう)神社、父が信仰した延喜式内社の桑原神社等があります。寺では、石井の営所の鬼門除けの延命寺、鬼門除け本尊の慈光寺があります。平将門は、地域の身近にある神社や寺を信心していたのであり、奈良時代の宇佐八幡宮の「道教」の事件を彷彿させる八幡の神を登場させるフィクションは、漫画みたいな話で京の貴族僧が考えそうな話です。
なお、平将門は、妙見信仰者ではありません。妙見信仰は、叔父の良文です。また九曜紋も平将門の家紋ではありません。平将門の家紋はありません。


何故、上野国で、新皇宣言や除目の虚偽作文を作ったのか

なぜ『将門記』などの記録(作文)では、わざわざ「上野国で八幡大菩薩の神託を受け、新皇と称して除目を行った」というストーリーが捏造したのでしょうか。


1.藤原氏(朝廷)側の「合法的な死刑」の大義名分

将門が法律に則った正当な防衛・権利主張(受領たちとの内紛)をしているだけでは、朝廷は将門を「死刑(討伐)」に処する大義名分が立ちません。 そのため、京都の藤原氏やその息のかかった貴族僧(藤原氏出身の学僧)たちは、将門を「天皇に成り代わろうとした狂った大逆人」に仕立て上げる必要がありました。


2.上野国が選ばれた作文上の意図

上野国は、常陸国同様に天皇の親族が任じられる「親王任国」です。そこを襲撃して乗っ取ったという体裁にすることで、文学的・法的に「天皇(皇族)の権威を直接冒瀆した=大逆罪」という絵に描いたような罪状を構成しやすかったと考えられます。ただし、それが、確認できるようになったのは約160年後の話なのです。