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奈良・平安時代の貴族政治がもたらした地域の反乱

以下は、平将門の乱を除いた奈良時代から平安時代の後期にかけての地域の農民や豪族・武士が、受領等の過酷な租税の徴収に耐え切れず、自ら国府等を襲った乱の14件の事例です。これらは、当時、記録として残され、現在まで残された資料によるものであり、実際にはこの数倍の乱や事件があったと思われます。文武天皇時(701年~)の大宝律令や、孝謙天皇・宇多天皇時の養老律令(757年~)、平安時代の醍醐天皇の命令の荘園整理令(802年)や、天皇の命令で改正施行された延喜格(807年完成・808年施行)が厳格に即刻履行され、貴族の賄賂政治が行われていなければ、以下の事態は軽減できていたはずです。


現時点において、以下に乱の事例に「平将門の乱」は加えていない理由

当時の刑法である養老律令や延喜格では、以下の事例の主犯者は訴状による訴え以外の乱は、ほとんど極刑です。本サイトの「平将門の乱(謀反)」に対する立場は、現地の取材と地域の評価、当時の貴族政治と賄賂制度、将門記の記載内容の分析、平将門追悼の官符等に重大な矛盾があります。平将門の常陸国府や上野国府の行為(国印・蔵の鍵の強奪、新皇宣言、除目)で平将門追悼の官符の日から乱の終結日(将門の死亡日)までに法律上、国府や朝廷は、平将門を逮捕又は極刑にできなったという立場です。すなわち、平将門の乱はなかったということです。別途、詳細を近日記載します。


1. 720年:隼人の反乱

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※隼人の反乱は、もともと大和朝廷に組しない民俗的な反乱から始まっており、陸奥国の蝦夷と同じで他の反乱とは異なり根が深い事情があります。

記載記録名

続日本紀

国(場所)

  • 大隅国(現在の鹿児島県東部)

  • 隼人七城(鹿児島県南部一帯)

受領等責任者名

  • 殺害された国司:陽侯史麻呂

  • 朝廷側の征討大将軍:大伴旅人

  • 副将軍:笠御室・巨勢真人

事件の内容

720年、大隅国で国司・陽侯史麻呂が隼人に殺害され、これを契機に隼人が朝廷に反乱を起こした。隼人は七つの城に籠城し激しく抵抗したため、朝廷は大伴旅人を大将軍として九州諸国から大軍を動員し討伐にあたった。戦闘は1年以上続き、721年に鎮圧された。捕虜は1400人に及び、この反乱を契機に南九州への朝廷支配が強化された。


2. 740年:藤原広嗣の乱

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※藤原広嗣の乱は、重税に苦しむ農民や豪族の反乱ではなく、朝廷の貴族間の権力・利権争いです。結果として、利権政治、重税に繋がっていきます。

記載記録名

続日本紀

国(場所)

九州地方(大宰府・豊前国・筑前国など)特に戦闘の中心は、豊前国板櫃川(現・北九州市)

受領等責任者名

  • 反乱側:藤原広嗣(大宰少弐)

  • 朝廷側:大野東人(大将軍)、紀飯麻呂(副将軍)、勅使 佐伯常人・阿倍虫麻呂

事件の内容

740年、藤原広嗣は吉備真備・玄昉の排除を求める上表を提出したが受け入れられず、九州で挙兵した。広嗣は豊前・筑前などの兵を集め三方面から官軍を包囲しようとしたが、朝廷は大野東人を将とする1万7千の軍を派遣。板櫃川での戦闘で広嗣軍は敗走し、五島列島の値嘉島で捕らえられ処刑された。乱後、聖武天皇は遷都を繰り返すほど動揺し、政治不安が深まった。


3. 780年:宝亀の乱・蝦夷の反乱

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※もとは、大和朝廷の民族支配的な征伐から始まっていますが、徐々に重税や奴隷的な扱い対する反乱が多発します。

記載記録名

続日本紀

国(場所)

陸奥国・出羽国(現・宮城県・山形県・秋田県周辺)中心地は、 伊治城(宮城県栗原市)と 多賀城(宮城県多賀城市)

受領等責任者名

  • 反乱側:伊治公呰麻呂

  • 朝廷側:紀広純(陸奥按察使)

  • 鎮圧軍:藤原継縄(征東大使)など

事件の内容

780年、陸奥国の俘囚の族長・伊治公呰麻呂が、日頃の恨みから紀広純・道嶋大楯ら国司を伊治城で殺害し、蝦夷軍を率いて多賀城を急襲した。多賀城は略奪され焼失し、朝廷の東北支配は大打撃を受けた。朝廷は藤原継縄・大伴益立らを派遣して鎮圧にあたったが、呰麻呂は捕捉されず、反乱はその後の蝦夷との全面対立を加速させ、三十八年戦争の本格化につながった。


4. 878年:元慶の乱

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記載記録名

日本三代実録、藤原保則伝

国(場所)

出羽国(秋田)秋田城(現 秋田市)

事件の内容

出羽国で秋田城介・良岑近らの過酷な租税徴収に対し、帰順していた蝦夷(俘囚)が蜂起しました。反乱軍は秋田城を急襲して焼き払い、圧倒的な武力で官軍を壊滅状態に追い込みました。危機感を抱いた朝廷は、藤原保則を出羽権守、小野春風を鎮守将軍として派遣。保則らは強硬な武力鎮圧を行わず、飢えた俘囚への食糧支給や実直な説得による寛大な懐柔策を展開し、約1年で乱を収束させました。


5. 889年:寛平の物部氏永の乱

記載記録名

日本記略、扶桑略記

国(場所)

東国(関東地方)

受領等責任者名

  • 反乱側:物部氏永

  • 朝廷側:東国諸国の国司(受領)

  • 朝廷側:追捕使(ついぶし)

事件の内容

東国で群盗が蜂起し、物部氏永がその首領として反乱を指導した。彼らは地方の治安悪化を背景に武装集団化し、国司の統制が及ばない地域で勢力を拡大した。朝廷は東国諸国の国司に鎮圧を命じ、追捕使を派遣して反乱を制圧した。事件は平安前期の地方社会の不安定さと、国司支配の限界を象徴するものとされる。


6. 939年:藤原純友の乱

記載記録名

日本記略、扶桑略記

国(場所)

瀬戸内海全域、伊予国日振島(本拠地)、大宰府などの西国国府

受領等責任者名

  • 反乱側:藤原純友

  • 朝廷側:小野好古

  • 朝廷側:源経基

事件の内容

瀬戸内海の海賊勢力を率いた藤原純友が蜂起し、瀬戸内沿岸の国府や港を襲撃した。朝廷は平将門の乱と同時発生したため対応が遅れ、懐柔策を試みたが純友は活動を続けた。941年には九州の大宰府を攻撃し一時占領するが、小野好古・源経基らの追討軍に敗れ、伊予で橘遠保に討たれた。反乱は律令国家の統治力の衰退と地方勢力の台頭を象徴する事件である。


7. 940年:天慶の出羽俘囚の乱

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記載記録名

日本記略、貞信公記抄

国(場所)

出羽国(秋田城周辺)

事件の内容

出羽国で発生した俘囚による反乱。将門や純友の乱と同時期に起きた広域騒乱の一つで、反乱軍には「異類」と呼ばれる北方民族とみられる集団も加わり、秋田城周辺などで官軍と激しく衝突した。史料には朝廷が鎮圧を指示したことのみが記され、詳細な経過や結末の記述はない。しかし、近年の考古学的調査から、この乱を契機に東北地方が激しい戦乱の時代へ突入したと考えられている。


8. 941年:藤原純友による淡路国府府襲撃・大宰

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記載記録名

日本記略

国(場所)

淡路国府(現在の兵庫県南あわじ市付近)、大宰府(現在の福岡県太宰府市・大宰府政庁跡周辺)

事件の内容

天慶3年(940年)に淡路国府を襲撃して焼き払った純友軍は、翌941年、朝廷の本格的な追討により本拠地を追われ西へと逃亡した。窮地に陥った純友は、西国統治の最高機関である大宰府を急襲。政庁施設に放火して累代の財宝や官物を強奪し、朝廷に最大の痛撃を与えた。しかし、直後に博多湾で行われた決戦で小野好古や大蔵春実らの官軍に大敗を喫し、乱は急速に鎮圧へと向かうこととなった。


9. 988年:永延の尾張国郡司百姓等解文

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記載記録名

平安遺文、鎌倉時代の古写本(早稲田大学、東京大学史料編纂所、真福寺などが所蔵)

国(場所)

尾張国(現在の愛知県西部)

受領等責任者名

  • 藤原元命

  • 尾張国の郡司・百姓

事件の内容

永延2年(988年)、尾張国の郡司や有力百姓(田堵)らが、国守である藤原元命の非法な暴政を朝廷に直接訴え出た事件。元命は在任中の3年間、法外な重税の徴収、官物の横領、一族や従者による乱暴狼藉などを行い、その悪政は31か条にわたり糾弾された。耐えかねた現地有力者らの結束による愁訴(抗議)を受け、朝廷は翌年元命を国守の任から解任(更迭)した。受領の貪欲さと、それに対抗する地方社会の成長を象徴する重要な出来事である


10. 1028年:長元の平忠常の乱

記載記録名

小右記、左経記、日本記略

国(場所)

房総三カ国(上総国・下総国・安房国/現在の千葉県全域および茨城県南部)

受領等責任者名

  • 反乱側:平忠常

  • 鎮静側:源頼信

事件の内容

上総の武士・平忠常が国司の苛政に反発して挙兵し、上総・下総一帯を支配下に置いた。朝廷は源頼信を追捕使として派遣し、3年にわたる攻防の末、忠常は1031年に降伏した。忠常は京へ護送される途中で病死し、反乱は終結した。この事件は東国武士の台頭と源氏の勢力拡大を決定づけた重要な転換点である。


11. 1031年:長元の出雲国、橘俊孝の虚偽託宣と国衙騒擾事件

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記載記録名

小右記、日本記略

国(場所)

出雲国(島根県東部)

受領等責任者名

  • 橘俊孝

  • 出雲国の郡司・百姓

事件の内容

出雲守・橘俊孝は、神が国司の命令に従うよう告げたとする虚偽の託宣を作成し、郡司・百姓に服従を強要した。これに反発した人々が国衙に押しかけ騒擾となり、朝廷は俊孝の行為を不正と判断して罷免した。この事件は、受領の専横が地方社会を混乱させた典型例であり、平忠常の乱と同年に発生したことで、平安中期の地方支配の不安定さを象徴する。


12. 1083年:永保の後三年の役(出羽国府・清原氏の抗争と国衙麻痺)

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記載記録名

後三年合戦絵詞

国(場所)

出羽国(秋田県)

受領等責任者名

  • 出羽守(受領)

  • 清原氏(出羽の実質支配者)

事件の内容

出羽国では清原真衡と武衡・家衡の対立が激化し、出羽国府(秋田城)の行政機能が完全に麻痺した。国司は清原氏の内紛に巻き込まれ、租税・軍事・裁判が停止し、国衙は放棄状態となった。これを受けて陸奥守・源義家が介入し、清原家衡との衝突から後三年の役が本格化した。事件は武士勢力が国衙を凌駕し、律令国家の地方支配が崩壊した象徴的出来事である。


13. 1108年:天仁の源義親の乱(出雲国府襲撃・国司殺害事件)

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記載記録名

中右記

国(場所)

出雲国(現在の島根県東部、出雲国府周辺)

受領等責任者名

  • 反乱側:源義親(みなもと の よしちか)

  • 被害者:出雲国司(受領)

  • 鎮圧側:平正盛(たいら の まさもり)

事件の内容

九州での乱行により隠岐へ流刑となっていた源義親が、対岸の出雲国へ渡り出雲国府を襲撃しました。義親は現地の目代や郎従らを殺害し、官物を強奪する暴挙に及びます。1108年、朝廷の命を受けた因幡守の平正盛が追討使として急襲し、わずか1ヶ月足らずで義親を討伐しました。この事件は、名門・河内源氏の凋落と、平清盛の祖父である伊勢平氏が中央へ台頭する決定的な転機となりました。


14. 1143年代:康治の源義朝による武蔵国府(国衙)不法侵入・実力行使事件

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記載記録名

長秋記

国(場所)

相模国(神奈川県)、武蔵国(埼玉県府中市周辺:武蔵国府が義朝の不法侵入を受ける)

受領等責任者名

  • 加害側:源義朝(みなもと の よしとも)

  • 武蔵国司(受領)

事件の内容

1143年、源義朝は武蔵国府に無断で侵入し、在庁官人を強制的に動員して相模国大庭御厨へ武力介入した。義朝は「国府の権威」を盾に荘園紛争へ不法に介入し、国司の統制を無視したため、国衙行政は混乱した。『長秋記』『兵範記』は義朝の行動を国衙権限の私物化として批判する。この事件は、在地武士が国衙を凌駕し始める転換点であり、後の源氏台頭の前兆となった。