奈良・平安時代の反乱と平安時代における貴族政治と賄賂制度
奈良時代:710年~84年間(和銅3年)の地域の反乱と貴族政治の関係について
奈良時代の貴族の賄賂政治について
天皇・朝廷による「法」と「制度」での取り締まり
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官吏の不正を裁く「弾正台」(だんじょうだい)の活用: 官人の風紀取り締まりや不正の弾劾を行う中央機関として弾正台が置かれ、賄賂や汚職の摘発にあたりました。
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地方監察官「巡察使」(じゅんさつし)の派遣: 地方の役人(国司)が中央の貴族と結託して私腹を肥やすのを防ぐため、朝廷から地方へ臨時の監察官である巡察使がたびたび派遣されました。彼らは国司の不正や農民の困窮ぶりを調査・報告しました。
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「養老律令」による罰則の明文化: 藤原不比等らが編纂した養老律令(757年施行)では、官人が賄賂を受け取る行為(「枉法贓(おうほうぞう)」=法を曲げて財物を得る罪など)に対して、極刑や流罪を含む厳しい刑罰が規定されていました。
天皇の究極の対応:「遷都」による決別有力
有力寺院や貴族の利権、贈収賄のネットワークが平城京に張り巡らされてしまい、小手先の改革では汚職構造を破壊できないと悟った天皇たちは、遷都という都の引っ越しとゆう手段を選びました。
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聖武天皇の彷徨(ほうこう): 藤原広嗣の乱や平城京内での政争・腐敗に嫌気がさした聖武天皇は、恭仁京、難波京、紫香楽宮へと次々に都を移し、利権構造からの脱却を試みました。※彷徨:目的や行き先を定めずに、あてもなく歩き回ることやさまようこと
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桓武天皇による長岡京・平安京への遷都: 奈良時代末期、地方政治の腐敗や奈良仏教界の介入に危機感を募らせた桓武天皇は、平城京の旧勢力や寺院の利権を根こそぎ置き去りにするため、都を794年に山背国(京都)「平安京」へと移しました。
平安時代の貴族による賄賂政治と賄賂制度
桓武天皇の平安京における政治
桓武天皇は、平城京における強大な仏教勢力の政治介入を排除し、天皇中心の強力な律令政治を立て直すために794年(延暦13年)平安京への遷都を断行しました。そこで、以下のような制度を実行しました。
- (1)仏教勢力との分離
- 旧都である平城京の巨大な寺院の移転を認めず、政治と宗教を切り離すことで寺社勢力の介入を防ぎました。
- (2)行政の刷新と監査(勘解由使の設置)
- 国司(地方の長官)の交替時に、前任者の不正や引き継ぎのトラブルを調査・監査する「勘解由使(かげゆし)」を設置し、地方政治の引き締めを図りました。
- (3)軍制の改革(健児の導入)
- 一般農民から徴兵していた従来の軍団を廃止(辺境の国は除く)し、郡司の子弟など体力に優れた者を「健児(こんでい)」として採用し、軍事力の強化と農民の負担軽減の両立を目指しました。
- (4)東北地方の経営(蝦夷征討)
- 東北地方(現在の東北北部)の蝦夷(えみし)平定を進めるため、坂上田村麻呂などを派遣し、朝廷の支配権を拡大しました。
宇多天皇の政治
宇多天皇の政治は、理想や政策そのものは非常に優れており、後世から「理想の政治(寛平の治)」と称えられました。しかし、結果としては「藤原氏の権力を抑え込む」という最大の目標を達成できず、志半ばで挫折してしまったため、失敗のイメージが強く残っています。
宇多天皇は、以下の行動を起こし、強大化しすぎていた藤原氏から政治の実権を取り戻し、「天皇中心のクリーンな政治」を目指しました。
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右腕に「菅原道真」を大抜擢
藤原氏に対抗するため、身分は高くないけれど超エリート学者だった道真をスカウトし、政治のトップに据えました。 -
寛平の新制:賄賂や汚職の大掃除
貴族たちが地方の富豪から賄賂をもらい、税金逃れを助けていた「初期の荘園(私営田)」を法律で厳しく取り締まりました。 -
遣唐使の停止:無駄なコストカット
道真の提案で、お金がかかり危険だった遣唐使をストップし、国の財政を守るとともに日本独自の文化(国風文化)が育つキッカケを作りました。
醍醐天皇の政治
醍醐天皇の政治は、父である宇多天皇の「天皇中心のクリーンな政治」という理想を受け継ぎつつも、藤原氏とのバランスを取りながら現実的な大改革を進めた政治です。後世、父の政治(寛平の治)と並んで、平安時代の理想的な政治の双璧である「延喜の治(えんぎのち)」と称えられました。
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荘園整理令
不正な土地(荘園)を没収する法律です。貴族たちの「税金逃れ」に初めて国がメスを入れました。 -
延喜格の編纂・施行
父・宇多天皇が作った「賄賂政治の取り締まり」などの法令(寛平の新制)をしっかりと法制化し、世の中に浸透させました。 -
国風文化の開花『古今和歌集』編纂
905年、紀貫之らに命じて初の「勅撰和歌集(天皇の命令で作る歌集)」である『古今和歌集』を編纂させました。遣唐使が止まったことで、日本独自の華やかな文化がここで頂点を迎えます。
藤原氏と手を組みながら、現実的な法律整備や文化振興で国家の全盛期を作ったが、律令制そのものの寿命を止めることはできなかった。
平安時代の農民・豪族を苦しめた賄賂制度
受領(ずりょう)制度
受領とは、平安中期以降、国司の最上席者として実際に任国へ赴任し、地方政治の全権を握った官人のことです。朝廷が地方統治を国司請負制へと転換したことで、受領は一定の税さえ朝廷に納めれば、残りの余剰分を自らの富として合法的に蓄積できるようになりました。
これにより受領は莫大な富を得る「成功(じょうごう)」の原資を手に入れ、富裕階級へと上り詰めます。当時の貴族社会では「受領は倒るる所に土を掴め」と揶揄されるほど、強欲に利得を貪る存在と見なされていました。一方で、彼らはその富を中央の有力貴族(藤原氏など)に貢いでお気に入りのポスト(大国や上国の受領)を維持・獲得しようとしたため、地方の富が中央の賄賂政治を支えるエコシステムが確立することになりました。
遥任(ようにん)制度
遥任とは、国司に任命されながらも任国へ赴任せず、京都(中央)に留まったまま、現地の統治を「目代(もくだい)」と呼ばれる代理人に任せる制度です。受領が現地でリスクを背負いながら富を搾取するのに対し、遥任の国司は京都にいながらにして任国の収益の一部を受け取りました。
この制度が生まれた背景には、当時の貴族たちが文化的な中心地である京都を離れたがらなかったこと、そして中央での権力闘争や出世レースに取り残されないようにする目的がありました。遥任を希望する貴族、あるいは遥任のポストを維持したい貴族は、中央の権力者に絶えず莫大な付け届け(賄賂)を行い、便宜を図ってもらう必要があったため、この制度自体が中央での金権政治や腐敗をさらに加速させる原因となりました。
成功(じょうごう)
成功とは、内裏の修理、寺社の造営、朝廷の儀式といった国家的な大事業の費用を、貴族や受領が私財から寄付(朝廷への献上)することで、見返りとして官職や位階を得る売官・売位の公認制度です。 実質的には、朝廷の財政難を背景に始まった官許の「賄賂システム」と言えます。特に富裕な受領たちは、この成功を利用してより実りの多い(収入の多い)国の受領に就任しようと、競うように巨額の富を差し出しました。成功は朝廷にとっては手っ取り早い財政補填の手段でしたが、任官された受領は投資した以上の富を任国の領民からさらに激しく搾取して回収しようとしたため、地方政治のさらなる荒廃と、中央貴族の特権的な利権化を招く結果となりました。
重任(ちょうにん)
重任とは、国司などの任期(通常は4年)が満了した際、引き続き同じポストに再任されることを指します。特に収入の多い豊かな国の受領(受領のなかでも「受領の功者」と呼ばれる者たち)にとって、重任されることは富を倍増させる最大のチャンスでした。 しかし、重任を勝ち取るためには、前述の「成功」を上回るような巨額の私財を朝廷や摂関家へ献上する必要がありました。また、任期中に確実に朝廷への税を納め、有力貴族への「付け届け」を欠かさなかったという実績(公事の優劣)も重視されました。結果として、重任の制度は受領たちにさらなる領民への搾取を促す動機となり、中央の権力者にとっては、定期的かつ安定的に莫大な賄賂(私財の提供)を吸い上げるための絶好のツールとして機能したのです。
春と秋の徐目(じょもく)の賄賂制度
徐目とは、朝廷が官吏を任命する人事除目の儀式のことです。主に春の徐目(正月)では地方官(国司など)が、秋の徐目(京官除目・県召除目)では中央の官職や地方官の追加任免が行われました。
この徐目の時期になると、京都は官職を求める貴族や受領たちの裏工作(任官運動)で狂騒状態に陥りました。任官を望む者たちは、人事権を握る摂関家などの有力者の邸宅へ夜な夜な通い詰め、高級な絹織物、馬、あるいは金銀といった莫大な賄賂(「名簿」の提出や進物)を贈り届けました。当時の日記(『御堂関白記』など)には、誰が何を贈ってきたかが克明に記録されています。このように、春と秋の徐目は、朝廷の公式な人事システムでありながら、実態は最高権力者が巨万の富を合法的かつ定期的に集める「賄賂政治のピークイベント」となっていたのです。

奈良時代の貴族社会では、律令制度が形骸化するにつれて、賄賂政治は行われました。