平将門追悼の太政官符:謀反・大逆の罪状未記載、後世の偽造の疑いあり。
太政官符とは何か、何故、平将門の冤罪の決定的な証拠なのか
朝廷の太政官符とは何か
平将門追悼の太政官符における謀反・大逆の不記載
- (1)漢文『扶桑略記』天慶3年正月11日条 太政官符本文(漢文一字一句)
- 太政官符 東海東山道諸國司 応抜有殊功輩加不次賞事 右平將門,積悪弥長,宿暴暗成。
猥招烏合之群,只宗狼戻之事。
冤國宰而奪印鎰,領縣邑而事抄掠。
宜 発兵士,早加誅滅。
若有戮巨魁者,超加位叙,厚賜過課。 - (2)太政官符:読み下し文
- 天慶三年庚子正月十一日、官符に云はく、 太政官符 東海・東山道諸国司殊功(しゅこう)有る輩(ともがら)を抜き不次の賞を加ふべき事 右、平将門、積悪(せきあく)弥(いよ)いよ長じ、宿暴(しゅくぼう)暗(あん)に成る。
猥(みだ)りに烏合の群を招き、只(ただ)狼戻(ろうれい)の事を宗(むね)とす。
国宰(こくさい)を冤(えん)げて印鎰(いんいつ)を奪い、県邑(けんゆう)を領して抄掠(しょうりゃく)を事とす。
宜しく兵士を発し、早く誅滅(ちゅうめつ)を加ふべし。
若し巨魁(きょかい)を戮(りく)する者有らば、超えて位叙を加え、厚く過課(かか)を賜ふべし。 - (3)太政官符:現代語訳
- 天慶三年(940年)一月十一日、官符に次のように記されている。
太政官符 東海道・東山道の諸国司へ下す格別な功績を挙げた者を抜擢し、特別な恩賞を与える件について 右の平将門は、積み重ねてきた悪行がいよいよ長じ、日頃の暴挙がひそかに形となった。
みだりに烏合の衆を集め、ただ乱暴で無道な行いばかりを第一としている。
国司らを不当に苦しめて印や蔵の鍵を奪い取り、村々を領有して略奪行為を事としている。
速やかに兵士を動員し、早く(将門らを)討伐・滅亡させよ。
もしその巨魁(首謀者である将門)を討ち取った者があれば、破格の昇進を行い、手厚い恩賞(過課)を与えるものとする。
太政官符 正文からの見解
太政官符に示されている通り、朝廷側は将門を「開闢以来、これほど酷い叛逆者はいない」と最大級の文言で非難し、これに対抗するために「犯罪者への恩賞」という矛盾を孕んででも、現地の軍事力(武士)を動員するため「五位の位階」と「3年間の国知行(国の実質的な支配権)」という破格の利害条件を提示していました。
現代の刑事司法や厳格な法治国家の観点から見れば、この太政官符の後半部分は「追討の命令」というよりも、「本来なら処罰すべき犯罪者(現地で私戦を繰り返していた平貞盛や藤原秀郷ら)を、国家の都合で免罪・優遇することへの必死な弁明と妥協」と捉えるのが極めて自然です。
「追討令」の枠を超えて「弁明」や「懐柔策」に見える3つの理由
- 「犯罪者(藤原秀郷ら)に頼るほかない」朝廷の破綻
平貞盛や藤原秀郷ら現地の豪族(軍事貴族)は、朝廷から見ればもともと「私戦(私的な武力衝突)」を繰り返す秩序の破壊者であり、本来は国家が処罰すべき対象でした。
しかし、当時の朝廷(中央)には将門を鎮圧できる独自の軍事力(国軍)がすでにありませんでした。そのため、国家の法を犯している犯罪者(貞盛ら)であっても、将門を倒せる武力を持つ者には目を瞑り、味方に引き入れるしかなかったという国家側の「敗北宣言」であり「弁明」が、この格別の恩賞(不次之賞)という表現に表れています。
- 「前例(旧例)」を無視することへの自己正当化
文面に「不拘旧例(旧例に拘らず)」とわざわざ明記されています。律令制において前例(先例)を破ることは、朝廷の法秩序において極めて異例のことでした。
本来なら段階を踏まなければ上がれない「五位(貴族の身分)」や、国家の領地であるはずの国を「3年間私有化してよい(知行三年・便為永業)」という破格の条件を出すことは、国家の法制度の自己否定に等しい行為です。そのため、前半部分で将門を「開闢(世界の始まり)以来の最悪の悪人」とこれ以上ない言葉で罵ることで、「これほどの未曾有の危機なのだから、犯罪者を優遇してでも前例を破ることは正当化される」という朝廷側の必死な言い訳(自己弁護)が必要だったと考えられます。
- 「刑事事件」ではなく「利害関係の取引」への変質
この官符は、犯罪者を法に基づいて裁く「刑事手続き」の文書としては完全に破綻しています。
書かれている内容は、国家の正義ではなく、「将門の首を取れば、過去の罪は不問にした上で、莫大な富と地位(五位と国)をやる」という、朝廷と地方の武力勢力との間の「取引(契約)」です。
決定的な客観的証拠:官符に「謀反」「新皇」の文言がない
もし平将門が本当に「国家の乗っ取り(謀反)」を働き、「国印を強奪」し、「自ら新皇と宣言」して「勝手に除目(官吏任命)を行った」のであれば、朝廷が全国に発行する公式文書である『太政官符(追討官符)』に、それらの最重要容疑(罪状)が記載されないなどということはあり得ません。
- 朝廷側の最大の正当化事由: 朝廷や藤原忠平にとって、「新皇を自称した賊」「国家を盗んだ朝敵」という大義名分こそ、私兵を動員し武力討伐を行うための最大の言いがかり(大義名分)になります。
- 記載できなかった理由=「存在しなかったから」: それにもかかわらず、官符の公式記録(『貞信公記』等の関連史料)や後世の公式記録の骨子において、それらの凶悪な罪状が法的に明記されていないという事実は、「当事者である朝廷自身が、当時そのような事実が存在しなかったことを知っていた(捏造の余地すら法的に作れなかった)」という何よりの動かぬ証拠です。
この太政官符は、形式上は「将門を討て」という追討の体裁(官符)をとっていますが、その本質は「国家の警察権・司法権が機能していないことを認め、犯罪者たちに利害を提示して頭を下げた、朝廷の困窮と妥協の弁明書」である。
この朝廷の「なりふり構わぬ妥協(弁明)」が、結果として「武士」という新たな階級を公式に認めるきっかけとなり、のちの武家社会へとつながっていくことになります。
「徳」と軍事力を兼ね備えた将門への恐怖と、卑劣な抹殺劇
孟子の『易姓革命・王道論』が教える通り、民の信望を集め、法を熟知し、圧倒的な生産力・製鉄力と「徳(仁義)」を備えた指導者(将門)の存在は、売官と不当な過剰徴税で成り立っていた京都の腐敗貴族(藤原忠平ら)にとって、自らの体制を内側から崩壊させる恐怖そのものでした。
- 合法的には勝てない相手: 法廷闘争でも勝てず、地元の信頼でも勝てず、正攻法の軍事でも勝てない。だからこそ、朝廷は正当な「法の手続き(合議や適正な裁判)」を一切飛ばし、忠平個人の専横によって「追討」の命令を下すしかなかった。
- 賞金首と流刑者(秀郷)の利用: 現地で相手にされない平貞盛を「下野介」に急遽仕立て上げ、地元で罪を得て逃亡・服役中であった藤原秀郷のようなアウトロー(ならず者)に恩赦や賞金をぶら下げて差し向け、闇討ち・暗殺のごとく将門を抹殺した。これが「将門の乱平定」の無残な裏の真実です。
『将門記』の正体と『延喜格』消滅の歴史的隠蔽工作
なぜこれほどまでに辻褄の合わない歴史が残されたのかという最後の謎に対する解答も、完璧に説明がつきます。
- 『将門記』=失敗国家・朝廷側の「官製スピン(隠蔽・プロパガンダ)」: 法を守らず、真の指導者を闇に葬った自らの腐敗と失敗(国家機能の麻痺)を隠蔽するため、後世に「将門は狂乱して新皇を称した恐ろしい朝敵であり、朝廷はそれを正義の武士(貞盛・秀郷)を使って平定した」という都合の良いフィクション(軍記物語)を仕立て上げる必要がありました。
- 『延喜格』が歴史から消された(伝わらない)理由: 法令集である『延喜式(施行細則・マニュアル)』が現代までほぼ完全な形で残っているにもかかわらず、本法・改訂法である『延喜格』が散逸し、原文が闇に包まれている不自然さ。 貴族政治の過剰な汚職や自らの特権乱用を厳罰に処すための「天皇による直命の改訂法」であった『延喜格』は、自らの都合で法を破り続けてきた公家貴族たちにとって、後世に残って最も困る「不都合な真実」そのものだったわけです。

太政官符(だいじょうかんぷ)とは、日本の古代律令制において、最高行政機関である太政官が管轄下の諸官庁や地方の国司などへ向けて発出した公式の命令文書のことです。法律の規定に基づいて、正確な法律用語を利用して専門官が作成して発する命令書です。その太政官符自体に、問題があった場合、その元の事象は虚偽(存在しない)又は、文書自体が後で作成され追加されたことになります。
平将門は、法律の専門家であったため、養老律令(律=刑法、令=行政法・一部民法)の知識だけでなく、文書の作成や手続きも可能だったと判断されます。