平将門追捕(追悼)の太政官符:偽造文書の確実な証明!
- 平将門の乱と太政官符
- 追捕の太政官符とは
- 専門官:弁官と史
- 作り方で偽造判明
- 扶桑略記の太政官符原文
- 弁官:源相職とは
- 官符の偽造証明1:官符作成ルール違反
- 官符の偽造証明2:内容・目的の相違
- 官符の偽造証明3:発行主体・その他証拠
- 将門記の記載・平将門の乱の捏造!
- 常陸国府の襲撃・平将門の乱の捏造!
- 上野国府の襲撃・平将門の乱の捏造!
- 「貞信公記」は平将門の乱の捏造証拠
- 平将門
- 平将門の乱
- 時代背景
- 将門の家系図
- 平将門人物像
- 真福寺本将門記
太政官符とは何か、何故、平将門の冤罪の決定的な証拠なのか
最初に、本サイトでは、将門記を全否定するものではありません。あくまで、平将門が養老律令の律(刑法)の「謀反」を起こしたものではないことを証明することが目的です。将門記は、武蔵国の調停の事件以降、明らかに文章の内容が現実離れした有り得ない話が次々にでてきます。
当サイトでは、歴史の書き換えではな無く正常な状態に戻すだけです。常陸国府の襲撃、上野国の襲撃が無くなるだけで法律上の謀反は無くなるのです。
本来、追捕(ついぶ)の太政官符は、養老律令で最も厳しい手段です。太政官府で『謀反』の太政官符が出されたとする事例は、平将門の乱以外にはありません。その事例は150年後の捏造文書です。藤原純友の乱でも出されていません。
謀反で追捕の官符を出せるのは、謀反の罪が明確で、その犯罪者が逃げ回っていて捕まえられない場合で緊急を要する事態だけです。そもそも、平将門は、謀反の罪で武蔵国の国司(介)の源基経に訴えられ、939年に6月に勝訴しています。平将門は逆告訴し、源基経は疑告訴で逮捕されているのです。刑法は今も昔も人が生きているうちのその罪を犯した日付の証拠です。つまり、平将門が死んだ日(天慶3年(940年)2月14日)以前の日付の証拠がなければ、犯罪人にすることはできません。唯一、存在しているのが、この『平将門追捕の太政官符』なのです。よって、太政官符が捏造されたものである場合、「平将門の乱」は無かった、養老律令に反する将門の「謀反」という犯罪も無かったという客観的な証拠なのです。
律令制における朝廷の太政官符とは何か
太政官符(だいじょうかんぷ)とは、日本の古代律令制において、最高行政機関である太政官が管轄下の諸官庁や地方の国司などへ向けて発出した公式の命令文書のことです。法律の規定に基づいて、正確な法律用語を利用して専門官が作成して発する命令書です。その太政官符自体に、問題(正式文書の欠格事項)があった場合、その元の事象は虚偽(存在しない)又は、文書自体が後で作成され追加されたことになります。
平将門は、法律の専門家であったため、養老律令(律=刑法、令=行政法・一部民法)の知識だけでなく、文書の作成や手続きも可能だったと判断されます。
- 【太政官符の概要】
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- 最高機関である太政官から、下級の官司や地方の国衙へ命令を下すために使われました。
- 書の形式やルールは「公式令(くしきりょう)」という法律で細かく決められていました。
- 太政官の印が押され、法的効力を持つ重要な公文書として扱われました。
- 平安時代以降の変化として、平安時代以降、律令制の衰退や政治体制の変化に伴ってその役割が縮小し、より簡便な官宣旨(かんせんじ)や弁官下文(べんかんくだりぶみ)などに取って代わられていきました。
- 公文書(宣命や官奏など)との違い
- 国や国府などの公的機関が作成・処理する文書全般を言う
- 太政官官符:その中で律令制下で太政官が下位機関に出した最高ランクの命令書の事を言う
- 【公式令の概要】
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- 公式令とは、公文書や法令の様式、作成方法などを定めた法規のことです。
- 大宝令や養老令に置かれた編目のひとつで、養老令では、全89条から成っています。
- 詔書や官符、解、牒などの公文書の書き方や、役所間の文書の上下関係(符式)を定めています。
- 官人の執務や命令伝達のルールを明確にした文書です。
- 期限訴訟の申し立て方法や不服申し立て(上訴)の手続きも記載されています
太政官符の作り方で、太政官符の偽造が判明する!
以下は、太政官符を発行する内容です。要点は、事書(ことがき)が重要で「いつ」、「誰が」、「どこで」、「何を」やったのか、今どきの「5W1H」的に記載しなければならないということです。また、行政用語、法律用語を使用しなければ受け取る国司も理解できません。特殊な仏教用語や儒教用語は使用してはいけないということです。
平将門の追捕の太政官符の発行の事例として本サイト書いたものですが、法律用語、仏教用語を排除した現代語訳版は、以下のようになります。
「令和八年八月一日の朝、謀反を起こした下総国の平将門らが、常陸国府を襲撃して国府に故焼(放火)し、国印と官契を奪って常陸国介を人質とし、筑波山方面へ向かった件につき、至急追捕すべき事。」
- (1)太政官符の発行の仕組み
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- 作成と発行の仕組み発令主体: 国の最高官庁である太政官
- 実務の担当者: 文書を処理する官職である弁官と、実務・記録を担う下級官人の史
- 署名: 文書の末尾に、責任者である弁官と史の署名が入れられる仕組みでした。
- (2)太政官符の発行の書式 第二十一 公式令 13符式条
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- 宛出(あてさき):文書の冒頭に宛先を記載します。(例:「〇〇国の司に」)
- 事書(ことがき)と事実書: 用件の要約(事書)を掲げ、その下に具体的な理由や経緯(事実書)を命令内容が分かるように簡潔に記述する。
- 結語: 末尾は「符到奉行(符到らば奉行せよ=命令が届いたら直ちに実行せよ)」という決まり文句で締めくくる。
- 署名と日付: 本文の後に起草・責任者である弁官(大弁・中弁・少弁など)や史(し)の位署(位階と氏名)を連署し、最後に日付と使人の位署を記する。
- (3)記載内容の明確化と用語のルール
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- 記載の明確化:
曖昧さを排除するため、楷書(真書)を用いて正確に書き、数値や数量を表す場合は改ざんを防ぐために大字(だいじ)「壱」、「弐」、「参」等を使用する。 - 一般行政・法律用語の使用:
公文書としての客観性と普遍性を保つため、律令法が定める定型的な行政・法律用語を用いる。 - 特殊用語の排除:
宗教的な私見や特定のイデオロギーを交えないため、仏教用語や儒教用語などの特殊な修辞・教義的用語は公式の条文様式においては排除され、漢文による平明かつ実務的な公用文体で統一された。なお、太政官が寺に出す官符の場合には宗教用語は認められていました。
- 記載の明確化:
追捕の太政官符とは何か
太政官符で追捕できるのは、養老律令で最高刑の『謀反』が裁判で確定している状態です。 しかしながら、戦闘が継続中、犯罪者の反抗、又は犯罪者が逃げ回って捕まえられない状態、裁判を行う時間的余裕のない状態だけに限って、太政官符の追捕命令により、強制的に逮捕したり、従わない場合にその場で殺すことが認められていました。
律令制における『追捕(ついぶ)』は、国家を脅かす大悪人、強盗、反乱者を追い詰めて、最悪の場合は現場で殺害(格殺・誅戮)することも許された強力な強制執行(警察・軍事)権限です。
当時の基本法である「律令」の規定(格・式)に基づき、抵抗する犯罪者に対しては合法的な武力行使による殺害が認められていました。
平安時代の追捕は、単なる犯人逮捕ではなく「反乱や凶悪犯罪の鎮圧」を意味します。国家の治安を乱す者に対して、以下の法的根拠から殺害が肯定されました。
- 格殺(かくさつ)の法理:
逃亡する犯人や武器を持って抵抗する賊に対し、追捕側がやむを得ず格闘の末に殺害(格殺)することは、当時の法律(律令・格)で正当防衛や公務執行として認められていました。 - 「格殺不論(殺しても罪に問わない)」の宣旨:
平将門の乱や藤原純友の乱、あるいは地方の群盗(承平・天慶の乱など)の際、朝廷は「格殺不論」や「梟首(きょうしゅ:首を切り晒すこと)」を命じる公式な命令(太政官符や宣旨)を頻繁に出しました。これにより、生け捕りにせずその場で殺害することが公式に許可されました。
太政官の公文書の専門官『弁官』と『史』
簡単には、詔勅(しょうちょく)や太政官符等文書を作成するするのが『史』(し)で、それを管理監督し、作成した文書を精査し署名し発行する責任者が『弁官』(べんかん)です。律令や延喜格式の法令や、儒教・仏教・国政・地名等地理情報に至るまでの専門知識が求められる最高の官僚です。
- (1)『弁官』とは
- 弁官は、太政官の「判官(じょう:第三等官)」に位置づけられますが、省庁を監督する権限を持つため非常に高い地位にありました。左弁官局(中務・式部・治部・民部省を管轄)と右弁官局(兵部・刑部・大蔵・宮内省を管轄)に分かれていました。
- 大弁(だいべん / 左右各1名):正四位下局の長官。平安時代以降は参議(公卿)が兼任することが多くなりました。
- 中弁(ちゅうべん / 左右各1名):従五位上(後に正五位上)大弁を補佐。こちらも後に天皇の側近である「蔵人頭」などが兼任する要職となりました。
- 少弁(しょうべん / 左右各1名):従五位下弁官の登竜門。諸省からの報告を精査する実務を指揮しました。
- (2)『史』
- 史は、弁官の下で働く「主典(さかん:第四等官)」に位置づけられる実務官僚(技術官僚)です。こちらも左弁官局・右弁官局のそれぞれに配置されていました。
- 大史(だいし / 左右各2名):正六位上実務の最高責任者。太政官符の最終確認や、署名(下段)を行いました。
- 少史(しょうし / 左右各2名):正八位上文書の起草、公文書の管理・勘申(調査報告)などの実務を担当しました。
- (3)弁官局という一体的な組織
- 建前としては「弁官=判官(上司)」「史=主典(部下)」ですが、太政官の膨大な実務を処理するため、両者は「弁官局」として極めて緊密に連携していました。この組織は現在の内閣官房や事務次官・官僚機構に近い性質を持っています。
- (4)世襲化と専門性の向上
- 平安時代中期以降、政治が複雑化すると、法や先例(過去の政治のルール)に詳しい実務家が重用されました。史の世襲化:史の職は、次第に法律や文書作成に長けた小槻氏(おづきうじ)や壬生氏(みぶうじ)などの特定の家系が世襲するようになりました(官務家)。これにより、実務の専門性が極めて高く維持されました。
弁官(べんかん)の仕事内容
弁官は、太政官の最高幹部である「公卿」と、実務部隊である「八省」や地方官国官(国司)を結ぶパイプ役(公納・伝宣の過所)です。
身分としては諸大夫(四位・五位)クラスの有能な貴族が就任し、激務ですが出世の登竜門とされていました。
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上覆(じょうふく)と諸事の審理 八省や地方から太政官に提出された申請書類(解状など)をチェックし、問題点を整理して公卿たちの会議(陣定など)に提出します。
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公事・儀式の進行管理 朝廷の重要な儀式や年中行事の準備、進行を統括します。
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太政官符・官牒の署名 太政官の決定事項を公式文書(太政官符)として発給する際、チェックしその責任者として署名(覆書)します。
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天皇への奏上と伝宣 公卿の決定を天皇に奏上したり、逆に天皇や公卿からの命令(官宣旨など)を下の部署へ下達(伝宣)したりします。
史(し)の仕事内容
史は、弁官の下で働く主典(さかん)にあたる役職で、実務の現場を支える法律・文章の「公文書のプロフェッショナル」です。 大史(六位)や少史(七位)などがあり、次第に小槻(おづき)氏や壬生(みぶ)氏といった特定の官人による「家業(官司請負制)」となっていきました。
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公文書の作成(起草) 弁官の指示を受け、太政官符や官牒などの公式文書の文面を実際に作成(起草)します。
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勘文(かんもん)の作成 朝廷で前例のない事件や難題が起きた際、過去の法律(律令・格・式)や先例を調べ上げ、法的な意見書(勘文)を提出します。
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太政官の記録・管理 太政官の会議録(官記)や公文書の保管・管理を行います。彼らが先例を記録した日記(例:小槻氏の『左大史小槻時棟記』など)は、朝廷の運営に不可欠なデータベースとなりました。
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実務作業の指揮 弁官の下で、実際の事務作業や儀式の設営などを前線で指揮します。
弁官局という一体的な組織
建前としては「弁官=判官(上司)」「史=主典(部下)」ですが、太政官の膨大な実務を処理するため、両者は「弁官局」として極めて緊密に連携していました。この組織は現在の内閣官房や事務次官・官僚機構に近い性質を持っています。
【世襲化と専門性の向上】
平安時代中期以降、政治が複雑化すると、法や先例(過去の政治のルール)に詳しい実務家が重用されました。史の世襲化:史の職は、次第に法律や文書作成に長けた小槻氏(おづきうじ)や壬生氏(みぶうじ)などの特定の家系が世襲するようになりました(官務家)。これにより、実務の専門性が極めて高く維持されました。
平将門追捕の太政官符(扶桑略記の原文)
天慶三年庚子正月十一日,
右官符云:「太政官符東海東山道諸國司,應拔有殊功輩,加不次賞事。右平將門,積惡彌長,宿暴暗成。右猥招烏合之群,只宗狼戻之事。冤國宰而奪印鎰,領縣邑而事抄椋。右輕侠之黨,愚蠢之徒,或欲免一朝之辱,自赴勸誘之屬,或擬延片時之命,多入卻略之中。右將門不顧微分,還忘朝憲。遂恣逆亂之意,更夾窺覦之謀。縱有帶甲之千万,何犯畫象之化。縱有驍勇之數百,何越紆帶之城。右獨知井底之廣,空忘海外之守。右開闢以來,本朝之間,叛逆之甚,未有此比。適懷異心之志,空過殄滅之誅。右皇天自可施天誅,神明何有秘神兵。右抑一天之下,寧非王土,九州之內,誰非公民。右官軍黠虜之間,豈無憂國之士乎。右田夫野叟之中,豈無忘身之民乎者。」
右左大臣宣:「奉敕,宜仰國宰。若殺魁帥者,募以朱紫之品,賜以田地之賞。永及子孫,傳之不朽。又斬次將者,隨其勲功,賜官爵者。諸國承知,依宣行之。普告遐邇,令知此由。符到奉行。」
右從五位下右大史尾張言鑒,右少辨正五位下兼行內藏頭源朝臣相職
太政官符(扶桑略記の和文・読み下し文)
天慶三年庚子(かのえね)正月十一日、
官符に云わく:「太政官の符(だいじょうかんふ) 東海道(とうかいどう)・東山道(とうさんどう)の諸国司(しょこくし)等 殊功(しゅこう)有る輩(ともがら)を抜擢し、不次(ふじ)の賞を加うべき事」 右、平将門(たいらのまさかど)、積悪(せきあく)いよいよ長く、宿暴(しゅくぼう)暗(あん)に成る。 猥(みだ)りに烏合(うごう)の群(むれ)を招き、只(ただ)狼戻(ろうれい)の事を宗(むね)とす。 国宰(こくさい)を冤(えん)して印鎰(いんいつ)を奪い、県邑(けんゆう)を領して抄椋(しょうりょう)を事とす。 軽侠(けいきょう)の党、愚蠢(ぐしゅん)の徒、或は一朝の辱(はじ)を免れんと欲して自ら勧誘の属に赴き、或は片時の命を延ばさんと擬して多く却略(きゃくりゃく)の中に入る。 将門、微分(びぶん)を顧みず、還(かえ)って朝憲(ちょうけん)を忘る。 遂に逆乱の意を恣(ほしいまま)にし、更に窺 (きし・きゅうじ)の謀(はかりごと)を挟む。 縦(たと)い帯甲(たいこう)の千万有るとも、何ぞ画像の化(がぞうのか)を犯さん。 縦い驍勇(ぎょうゆう)の数百有るとも、何ぞ紆帯(うたい)の城を越えん。 独り井底(せいてい)の広さを知りて、空しく海外の守りを忘る。 開闢(かいびゃく)以来、本朝の間、叛逆(はんのぎゃく)甚だしき、未だ此の比(たぐい)有らず。 適(たまた)ま異心(いしん)の志を抱き、空しく殄滅(てんめつ)の誅(ちゅう)を過ぐ。 皇天(こうてん)自ら天誅(てんちゅう)を施すべく、神明(しんめい)何ぞ神兵を秘すること有らんや。 抑(そもそも)一天の下、寧(いずく)ぞ王土にあらざらん、九州の内、誰か公民にあらざらん。 官軍・黠虜(かつりょ)の間、豈(あに)憂国の士無からんや。 田夫野叟(でんぷやそう)の中、豈身を忘れるの民無からんや。
左大臣(藤原忠平)宣(のりたま)わく: 「勅(みことのり)を奉じるに、宜しく国宰(こくさい)に仰ぐべし。 若し魁帥(かいすい)を殺さば、募るに朱紫の品(しゅしのほん)を以てし、賜うに田地の賞(でんちのしょう)を以てせよ。 永久に子孫に及び、之を不朽(ふきゅう)に伝えしめよ。 又、次将を斬らば、其の勲功に従い、官爵(かんしゃく)を賜え。 諸国承知し、宣に依りて之を行い、普(あまね)く遐邇(かじ)に告げ、此の由(よし)を知らしめよ。 符(ふ)到らば奉行せよ。」
従五位下 右大史・尾張言鑑(おわりのときみ) 右少弁 正五位下 兼行内蔵頭・源朝臣相職(みなもとのあそんすけもと)
太政官符の現代語訳(口語訳)
天慶3年(940年)庚子 正月11日、
官符(太政官からの公式文書)に次のようにある。:
「太政官符(だいじょうかんふ) 東海道・東山道の諸国司たちへ 殊さら優れた功績のあった者を抜擢し、特別な恩賞を与える件について」
右の平将門は、積み重ねてきた悪行がいよいよ長くなり、日頃の暴虐がひそかに形となった。
無やみに烏合の衆を集め、ただ乱暴な振る舞いばかりを第一としている。
国の長官(国司)を不当に責めて印と蔵の鍵を奪い取り、県や村を支配して強奪を事としている。
血気にはやる無法者の党派や浅はかな者どもは、ある者は一朝の不覚(お咎め)を免れようとして自ら誘いに応じてその手下に加わり、ある者は束の間の命を延ばそうとして多くがその掠奪の渦中に入っている。 将門は自らの身分を省みず、かえって朝廷の法を忘れている。 遂に勝手気ままに反逆の心を生じさせ、さらに天下を狙う企みを抱いた。
(朝廷には)仮に鎧を着た兵が数百万いようとも、どうして天皇の威徳(画象の化)を侵すことができようか。
仮に勇猛な兵が数千いようとも、どうして都の守り(紆帯の城)を越えることができようか。
(将門は)ただ井の中の狭さしか知らず、空しく海外(天下全体)の広さを忘れている。
天地開闢以来、わが国において反逆のひどいこと、未だこれほどの例はない。
たまたま異心を抱いたものの、空しく滅ぼされる罰を免れて今日まで過ごしてきたのだ。
天なる神は自ずから天誅を下されるはずであり、神々がどうして神の兵を隠しておかれようか(いや、必ず討伐される)。
そもそも、天下のあらゆる土地は、どうして王の土地(王土)でないことがあろうか。
全国(九州)のどこにいようと、誰が国の民(公民)でないことがあろうか。
官軍とあの利口ぶった賊徒のあいだにも、どうして国を憂える士がいないことがあろうか。 農夫や田舎の老人の中にも、どうして身を忘れて国に尽くす民がいないことがあろうか。
左大臣(藤原忠平)の宣(の宣旨): 「勅命を奉じる。宜しく国司たちに命じよ。もし賊の首魁(将門)を討ち取った者は、三位・五位などの高位(朱紫の品)に抜擢して公募し、田地の恩賞を与えよ。永久に子孫にまで及ぼし、不朽のものとして伝えさせよ。 また、次将(副将格の者)を斬り取った者は、その勲功に応じて官位や爵位を与えよ。 諸国はこれを承知し、宣旨にしたがってこれを行い、遠く近く(あらゆる者)に広く告げ知らせて、この趣旨を知らしめよ。官符が到着したならば、直ちにこれを奉行せよ。」
従五位下 右大史・尾張言鑑(おわりのときみ) 右少弁 正五位下 兼行内蔵頭・源朝臣相職(みなもとのあそんすけもと) 【以上】
平将門追捕の太政官符の偽造証明1:作成ルール違反
太政官符には、律令に基づいた作成規定と弁官局等における作成のルールがあります。そのルールに従って発行されなければ、正式な太政官符では無いという事です。太政官符は、律令の法律用語を利用して作成すること、仏教等の特殊な用語は使用しないことになっていました。本証明では、法律用語が多数利用されていない、中国の郡県制の言葉等は有り得ない話です。仏教の用語が多数利用されていることにより、弁官局の『史』が作成し『弁官』が検査・署名した太政官符では無いことは明白であり、作成のルール上では偽造文書であることは確定です。
律令の法律用語の不使用証明
扶桑略記の平将門追捕の太政官符は、以下の通り律令の法律用語を利用していません。よって、偽造文書であることは確実です。なお、お寺に出す官符の場合には仏教用語が認められていました。
- 国宰(こくさい)⇒ 【律令】国司(こくし) または 〇〇国守(かみ)
(「国宰」は中国の雅称・文学的表現です。法令上の正式名称は「国司」、またはその長官を指すなら「〇〇国守」又は「〇〇国介」です。 - 印鎰(いんいつ)⇒ 【律令】国印(こくいん) および 正倉鑰(しょうそうのやく)、盗国印、盗官鑰
(「印鎰」は印と鍵を指す修辞的表現です。律令法上、紛失や強奪が罪となる対象は「国印」と「正倉の鍵(鑰)」と罪名としては盗国印、盗官鑰です。 - 県邑(けんゆう)⇒【律令】国(くに) / 郡(こおり・ぐん) / 郷(ごう)
(「県邑」は中国の行政区画(秦の始皇帝から始まった「郡県制」の言葉)にちなんだ文学的表現です。日本の律令制における正式な行政単位は「国・郡・里(郷)」です。 - 朝憲(ちょうけん)⇒ 【律令】律令(りつりょう) / 格式(きゃくしき) / 国法(こくほう)
(「朝憲」は国家の規律を指す抽象的な言葉です。当時の具体的な実体法を指す場合は「律・令・格・式」となります) - 朱紫の品(しゅしのほん)⇒ 【律令】五位以上の位階(ごい・貴の位) または 通貴(つうき)
(「朱紫」は赤い衣服の五位、紫の衣服の三位以上という衣服の色の例えです。法制上は「五位以上(または三位以上)」と位階の等級で表します。 - 田地の賞(でんちのしょう)⇒ 【律令】功田(こうでん) または 賞田(しょうでん)
(手柄に対して与えられる法的な土地の区分名は、律令法(賦役令)において「功田」や「賞田」と規定されています。 - 逆乱(ぎゃくらん) / 叛逆(はんぎゃく)⇒ 【律令】謀反(むほん)
(国家や天皇に対する謀反は、律令の刑法(律)における最高罪「八虐(はちぎゃく)」の第一「謀反(むほん)」が正式な罪名で。 - 天誅(てんちゅう) / 殄滅の誅(てんめつのちゅう)⇒ 【律令】極刑(きょくけい) または 死罪(しざい) / 誅戮(ちゅうりく)
(「天の罰」という文学的・思想的表現ではなく、法的な処刑は律の五刑(笞・杖・徒・流・死)のうち「死(死罪)」、または反逆者を討ち果たす「誅戮」です。 - 魁帥(かいすい) / 次将(じしょう)⇒ 【律令】首謀者(しゅぼうしゃ) / 同悪(どうあく/ 随従者(ずいじゅうしゃ)
「魁帥」は賊のボスという修辞です。律の規定(名例律)では、共犯関係において最も罪の重い者を「造意(首謀者)」、それに従った者を「随従(同悪)」と呼びます。 - 官軍(かんぐん)⇒ 【律令】征討軍(せいとうぐん) または 使(し)
(例:征東使など) (「官軍」は一般的な政府の軍という意味ですが、法的に編成される討伐隊は、天皇から節刀を授かる「征討使(将軍)」の軍です。
特殊な仏教用語の利用
太政官符作成において、仏教用語や儒教用語等の宗教用語は用いないことになっていました。例外的に、相手が寺の場合に限って慣例的に認められました。従って「平将門追捕の太政官符」は偽造文書であることは確定です。この仏教用語の利用によって、比叡山延暦寺の藤原氏系の学僧・貴族僧が記載したと言えます。仏教用語は、一部貴族や国司等でも意味が理解できない用語です。
- 積悪(せきあく)
悪業(悪い行い)を積み重ねること。仏教の「因果応報(いんがおうほう)」や「業(ごう・カルマ)」の思想において、悪因を重ねて将来に苦しみをもたらす行為を指す言葉です。 - 一朝(いっちょう)
ある朝。転じて、にわか、ひとたび。仏教では世の「無常(むじょう)」を表す際、「一朝(ある朝突然に)」命が尽きたり事態が急変したりする文脈で非常に多く使われます。 - 開闢(かいびゃく)
天地が開け、世界が始まること。仏教の宇宙観において、世界が破壊されたあとに再び新しい世界が生成される最初(成劫:じょうこうの初め)を指す言葉として仏典で多用されます。 - 異心(いしん)
別の心、二心、謀反の心。仏教では、仏の教えや純粋な信仰から心が離れてしまう「異心(迷いの心・邪心)」を表す言葉として使われます。 - 不朽(ふきゅう)
朽ちないこと、永遠に伝わること。一般語としても広く使われますが、もともとは仏教において「不変不滅の真理(法・ダルマ)」や、仏の功徳が永遠に滅びないことを表す言葉です。 - 画像の化(がぞうのか)
絵に描いた仏像や神仏の姿、あるいはその霊験・教化のこと。解説: ここでは「絵に描いたようなもの、あるいは仏神の加護・威光」といったニュアンスを持ち、人間の浅はかな武力などは仏神の威光の前には無力であるという比喩として使われています。 - 井底(せいてい)
井戸の底。解説: 元々は仏教の経典(『法華経』など)に見える「井底の蛙(ぜいていのあが/いかのあが)」などの比喩に由来し、狭い見識しか持たず世間を知らない状態を指す仏教・漢籍共通の教養語です。
太政官符の読み下し文における法令文の未使用と仏教用語の使用箇所
下記は、和文と仏教用語が使用されているか、法律用語が正しく利用されていたか調査した結果です。
文章中の赤字は、仏教用語です。黒字は、法律用語で置き換えられる文字です。法律用語で記載することことが前提であるため弁官局の『史』や『弁官』が記載・検査したものではないことが証明されます。
以下のように、天慶三年庚子(かのえね)正月十一日の平将門の太政官符は、法律用語に基づいて作成されていないことは明確です。また、宗教用語も多数使用されています。よってこの太政官符は、作成の専門官『史』が作成したものではなく、また、専門の『弁官』が弁官確実に偽造文書と言う事がわかります。
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天慶三年庚子(かのえね)正月十一日、
官符に云わく:「太政官の符(だいじょうかんふ) 東海道(とうかいどう)・東山道(とうさんどう)の諸国司(しょこくし)等 殊功(しゅこう)有る輩(ともがら)を抜擢し、不次(ふじ)の賞を加うべき事」 右、平将門(たいらのまさかど)、積悪(せきあく)いよいよ長く、宿暴(しゅくぼう)暗(あん)に成る。 猥(みだ)りに烏合(うごう)の群(むれ)を招き、只(ただ)狼戻(ろうれい)の事を宗(むね)とす。 国宰(こくさい)を冤(えん)して印鎰(いんいつ)を奪い、県邑(けんゆう)を領して抄椋(しょうりょう)を事とす。 軽侠(けいきょう)の党、愚蠢(ぐしゅん)の徒、或は一朝の辱(はじ)を免れんと欲して自ら勧誘の属に赴き、或は片時の命を延ばさんと擬して多く却略(きゃくりゃく)の中に入る。 将門、微分(びぶん)を顧みず、還(かえ)って朝憲(ちょうけん)を忘る。 遂に逆乱の意を恣(ほしいまま)にし、更に窺 (きし・きゅうじ)の謀(はかりごと)を挟む。 縦(たと)い帯甲(たいこう)の千万有るとも、何ぞ画像の化(がぞうのか)を犯さん。 縦い驍勇(ぎょうゆう)の数百有るとも、何ぞ紆帯(うたい)の城を越えん。 独り井底(せいてい)の広さを知りて、空しく海外の守りを忘る。 開闢(かいびゃく)以来、本朝の間、叛逆(はんのぎゃく)甚だしき、未だ此の比(たぐい)有らず。 適(たまた)ま異心(いしん)の志を抱き、空しく殄滅(てんめつ)の誅(ちゅう)を過ぐ。 皇天(こうてん)自ら天誅(てんちゅう)を施すべく、神明(しんめい)何ぞ神兵を秘すること有らんや。 抑(そもそも)一天の下、寧(いずく)ぞ王土にあらざらん、九州の内、誰か公民にあらざらん。 官軍・黠虜(かつりょ)の間、豈(あに)憂国の士無からんや。 田夫野叟(でんぷやそう)の中、豈身を忘れるの民無からんや。
左大臣(藤原忠平)宣(のりたま)わく: 「勅(みことのり)を奉じるに、宜しく国宰(こくさい)に仰ぐべし。 若し魁帥(かいすい)を殺さば、募るに朱紫の品(しゅしのほん)を以てし、賜うに田地の賞(でんちのしょう)を以てせよ。 永久に子孫に及び、之を不朽(ふきゅう)に伝えしめよ。 又、次将を斬らば、其の勲功に従い、官爵(かんしゃく)を賜え。 諸国承知し、宣に依りて之を行い、普(あまね)く遐邇(かじ)に告げ、此の由(よし)を知らしめよ。 符(ふ)到らば奉行せよ。」
従五位下 右大史・尾張言鑑(おわりのときみ) 右少弁 正五位下 兼行内蔵頭・源朝臣相職(みなもとのあそんすけもと)
太政官符の偽造証明2:記載内容と目的の問題
1.平将門の追捕の太政官符に、最高刑の「謀反」の記載がない、新皇宣言・除目の実施等の記載がない
しかしながら、太政官符には、『謀反』というという文字の記載がないこと、罪状である『新皇宣言』、『除目の実施』、『国府への襲撃と国印の略奪』、『国府への襲撃と火付け』等の罪状の記載がありません。これは、太政官符の記載手続きに違反しています。
- 平将門が、追捕された場合、刑は、養老律令の最高刑の『謀反』です。関係国司に連絡する場合、太政官符を使用する場合、謀反であること、罪状である『新皇宣言』、『除目の実施』、『国府への襲撃と国印の略奪』、『国府への襲撃と火付け』等の罪状を記載しなければならない。
- この将門追捕の太政官符では、具体的にどこで、何時、何が起こったのかが不明です。ここで、実際の太政官の文官は、実際に、939年~940年に起こっていないことは太政官符に書けないという事です。なぜなら、法律用語がある場合には法律用語を利用して規定に基づた文書を作成しなければならないからです。
- 一方、「将門記」の巻末(奥書)には、承徳三年(1099年)に「源信」という人物が写した旨が記されており、源信という存在不明の比叡山延暦寺の僧の写本が終わったのは1,099年です。つまり、太政官府の文面を記載した時には、「将門記」の写本と言われるもの無かったったのです。常陸国、下野国、上野国の襲撃のことは書けなったことで、辻褄が合うのです。武蔵国の事件は、登場人物がそれぞれに存在することは確認でき、謀反の裁判が行われて将門の謀反は無かった事と、裁判で将門が無罪であることは証明されています。その5か月後の常陸国、下野国、上野国の襲撃については、あり得ない現実離れしたフィクション内容です。
つまり、皇円の書いた扶桑略記の平将門の追捕官符は、平将門の乱がなかったことも証明しているのです。そればかりか、将門記の謎を解き明かす結果になっています。扶桑略記は皇円が記載したものですが、源信は皇円であった可能性があるという事です。同一人物でなかったとしても、当時の比叡山の藤原氏系の貴族僧であったという事は間違いないはずです。
2.太政官符の偽造者は、太政官符への謀反・新皇宣言・除目等の記載の意義を理解していない!
太政官符を使用して、関係国府に連絡する場合は緊急事態であり、太政官符を使用する場合、謀反であること、罪状が『新皇宣言』、『除目の実施』、『国府への襲撃と国印の略奪』、『国府への襲撃と火付け』等の記載が手続き上必要ですが、緊急性、非常事態を国司に知らせる言葉として、最も有効な用語が、『謀反』、『新皇宣言』、『除目の実施』、『国司の襲撃と国司の殺人』等です。
国印の強奪は、記載してあるとおり、フィクションであることが他の国司にばれてします。自分も持っていないものを、盗まれるはずがないという話です。それを、坂東の地域の国司に追捕の官符を出すことはあり得ないのです。 新皇宣言や除目が実際にあったのであれば、上野国の国司は、朝廷に即刻報告し、その旨が記載された太政官符が正式に届いていなければならないのです。 また、報告をしても、謀反が起こった場合、罰を受けることになります。それを故意に行わなかった場合、官職を罷免されたうえで重罪になります。 常陸国の国司も、上野国の国司も官職を失っていない為、上野国の襲撃や新皇宣言、除目は無かったという証明になります。偽造文書は明白です。
太政官符の偽造証明3:発行主体・その他客観的証拠
まず、扶桑略記の太政官符の原本はなく、比叡山(延暦寺)の僧である皇円(こうえん)阿闍梨とが1094年(寛治8年/嘉保元年)以降に偽造したフィクションです。文官(弁官・史)が書いたものではないということです。そもそも、原文は無かったのです。
平将門追捕の太政官符が、虚偽文書と断定できる理由は以下の通りです。
1.朝廷(太政官・検非違使庁を含む)自身が、追捕の太政官符が出せないことを一番知っていた!
将門記には、武蔵国の調停事件と謀反告訴事件が記載されています。本件は、特に不審な点が無いことにより、将門記の内容を採用しています。 事件の経過概略は、以下の通りです。
- 源経基は、武蔵国の調停事件の勘違いで京に逃げ帰り、939年3月に平将門を「謀反」として告発しました。
- 平将門は、939年5月2日に朝廷(検非違使庁:今の最高裁判所)に謀反を起こしていない反証と反訴、及び5か国の国司の下文を朝廷に提出しました。
- 太政官の実務官僚(右少弁)である源相職は、5月中旬〜下旬(5月2日の後)に藤原忠平の「将門の言い分をさらに詳しく推問(尋問・調査)せよ」という旨(仰せの旨)に従い、将門に対して推問の書状(御教書)を作成・送付しました。将門は、回答を提出しました。
- 平将門は、939年の6月には、無罪となり、一方、武蔵国の介の源経基は、疑告罪で逮捕されました。
結論は、太政官会議(今でいう最高裁判所)で、下総国の平将門が同じ坂東の武蔵国の事件の調停に入った件で『謀反』で訴えられ、「無罪」の判決は確定しているのです。よって、朝廷も、検非違使庁も同じ『謀反』では、対応できないことは承知していたのであり、6か月後に謀反の疑いもない、逃げてもいない平将門を始末しろという『追捕の太政官符』を国府へ出せるわけがないのです。平安時代も現在でも法律的な常識からみても100%あり得ないのです。
※実際には、内々に計画し、官位の保証、罪の名所を約束し勝手にやらせたということです。平将門には、法律でも勝てない、地域の信用でも勝てない、経済でも勝てない、武力でも勝てない、このまま放置すると今まで気づいた賄賂ネットワークが崩壊してしまうという危機感から奥の手を使用したのです。
2.関東5国の国司は、939年5月2日に平将門が謀反が無いことの解文を朝廷に出している。
将門記には、武蔵国の調停事件と謀反告訴事件が記載されています。本件は、特に不審な点が無いことにより、将門記の内容を採用しています。 事件の経過概略は、以下の通りです。源経基は、武蔵国の調停事件の勘違いで京に逃げ帰り、939年3月に平将門を「謀反」として告発しました。平将門は、939年5月2日に朝廷(太政官会議又は検非違使庁)に謀反を起こしていない反証と反訴、及び5か国の国司の解文を提出しました。平将門は、939年の6月には、無罪となり、一方、武蔵国の介の源経基は、疑告罪で逮捕されました。平将門の「謀反」は無かったという「無罪」の判決は確定しているのです。もし、6か月後に、解文を提出した5か国に平将門追捕の太政官符が発行された場合、各国司は以下の理由でパニックに陥ってしまいます。
- 5か国は、939年5月に平将門の謀反の冤罪証明の解文を朝廷に提出している。何らのかの責任問題となる。
- 常陸国、下野国、上野国へは実際に将門の襲撃はないのであり、何の事だかわからないという話です。実際に、939年に常陸国、下野国、上野国には、襲撃はなかったのです。襲撃があったのは、約160年後の将門記上の話なのです。
実際には、160年後の謀反の捏造の話とは関係なく、内々に計画し、官位の保証、罪の名所を約束し勝手にやらせたということです。平将門には、法律でも勝てない、地域の信用でも勝てない、経済でも勝てない、武力でも勝てない、このまま放置すると今まで気づいた賄賂ネットワークが崩壊してしまうという危機感から奥の手として暗殺という手段を使ったのです。
3.決定的な証拠:貞信公記抄に「平将門追捕の太政官符」の記載が無い
九条家本の貞信公記抄は、現存する貞信公記抄では、最も古いとされる貞信公記抄です。貞信公記は、藤原忠平の日記(業務日誌)に、「平将門追捕の太政官符」が記載されていません。また、常陸国府襲撃、下野国襲撃、上野国襲撃の記録も抜け落ちているのです。本平将門追捕の太政官符は、後世に比叡山の貴族僧「皇円」が捏造し、1094年以降に加筆したものです。
本件については、「貞信公記による平将門の乱が無かった証明」をご確認ください。
弁官の源相職とは? 将門が信頼する正統な貴族で能力のある高級官僚でした!
上記の平将門追捕の太政官符の「署名と日付」欄には、「従五位下 右大史・尾張言鑑(おわりのときみ) 右少弁 正五位下 兼行内蔵頭・源朝臣相職(みなもとのあそんすけもと)」と記載されています。この源相職とは誰かでが、調べてみると平将門と意外な関係にあります。実は、平将門が蔵人所の「滝口の武士」の任にあったときに立場は違えど修業時代が一緒なのです。
源 相職(みなも と のすけもと)は、平安時代前期から中期にかけて活動した文徳源氏の貴族・高級官僚であり、文徳天皇の孫(中納言・源当年の子)にあたる正統な皇血の出身の貴族です。実務を担う弁官(右少弁・左少弁・右大弁など)を歴任して朝廷の法や先例に基づく行政事務を堅実に遂行し、のちに蔵人頭にも任じられた正当な公共官僚です。賄賂政治に関わるような人物では無く、血統と能力によって出世しているのであり、成功(じょうこう)によって出世した人物では無いことは明確です。
- 天皇の秘書役(蔵人頭):天皇の側近として、機密文書の管理や、天皇と言い分を伝える取次(最高機密の伝達)を行っていました。今でいう「宮内庁」の「侍従長」のような職です。
- 事務をつかさどる事務官(弁官):太政官(最高行政機関)の最高実務責任者です。各省庁から上がってきた書類をチェックし、法律や先例に違反していないかを確認して天皇や大臣に回す、実務官僚のトップでした。今でいう「内閣官房長官」のような存在です。
このような人物が、上記のような出鱈目な「平将門追捕の太政官符」を出すわけがありません。約155年後に偽装された文書の真実性を表明するために名前が悪用されたのです。
源 相職(みなもと の すけもと)という人物とは?
- 平安時代前期から中期にかけての貴族。文徳源氏、中納言・源当時の子。官位は従四位下・右大弁。
- 経歴:
- 時期不詳:非蔵人 期間不明・罪人不明
- 時期不詳:六位蔵人 在任期間 6年
- 時期不詳:従五位下。右少弁
- 承平6年(936年) 正月8日:五位蔵人
- 承平7年(937年) 9月9日:兼内蔵頭。日付不詳:見勘解由次官従五位上
- 時期不詳:正五位下
- 天慶3年(940年) 正月7日:従四位下。12月6日:左少弁
- 天慶4年(941年) 3月15日:左中弁 兼蔵人頭、内蔵頭如元
- 天慶5年(942年) 3月29日:右大弁、内蔵頭如元
- 天慶6年(943年) 4月9日:卒去 享年43。右大弁従四位下
- 家系図 第55代 文徳天皇 └ 右大臣 源能有(皇子・賜姓) └ 中納言 源当時 └ 右大弁 源相職
上記において、源相職は、第55代 文徳天皇の曾孫にあたる人物であり、天皇の血を引く正統な貴族であることで「成功(じょうこう)」によって出世していないことは明白です。また、太政官の実務官僚(右少弁)である源相職は、939年5月中旬〜下旬(5月2日の後)に藤原忠平の「将門の言い分をさらに詳しく推問(尋問・調査)せよ」という旨(仰せの旨)に従い、将門に対して推問の書状(御教書)を作成・送付し、それに将門は回答しています。結果、源相職の正しい調査結果に基づき、謀反の疑いが晴れ無罪になったと考えられます。
しかしながら、155年後に自身の名前が太政官符の偽造文書に利用されたという事です。
平将門と源相職は、実は過去に毎日顔を合わせる関係でした
以下は、平将門の上洛と帰郷時の概略です。
- 京へ上洛の年・15歳(917年頃):平将門は、延喜3年(903年)生まれとする説に基づくと、15歳(917年頃)のときに京都へ赴きました。当時の有力者である藤原忠平に仕え、滝口の武士になり、検非違使の幹部を目指しました。
- 帰郷の年・延長8年(930年)・27歳前後:将門は京都に12年ほど在京していましたが、成功(じょうこう)等のため望んでいた官職(検非違使など)に就くことができず、延長8年(930年)、27歳前後の頃に下総国に戻りました。
平将門は、京に出て藤原忠平に仕えつつ、蔵人所の滝口の武士を務め、宮中の清涼殿の護衛にあたりました。 清涼殿は、内裏(だいり)で天皇の暮らす宮殿)において、天皇が日常生活を送るための主殿(私的な居所)です。 南側には、公的な空間として日中の政務を行う「昼御座(ひのおまし)」や、高位の貴族(殿上人)が控える「殿上の間(てんじょうのま)」が置かれました。 北側や西側には、私的な空間として寝所である「夜御殿(よんのおとど)」や食事を整える「台盤所(だいばんどころ)」などの生活エリアがありました。 平将門は、官位は低くかったものの天皇のお顔を見る機会や挨拶をする等の機会はあったという事です。
ここで本題ですが、源相職は将門が「滝口の武士」をしているときに事務方のエリートとして蔵人所にいました。 蔵人所に入ることが、当時の貴族社会で最もエリートコースだったのです。 高位貴族の子息や実務に優れた中下級貴族の若者たちが「非蔵人」や「六位蔵人」として採用されます。 ただし、漸次、空きが出ないと上級職に出世できなかったそうです。 非蔵人と六位蔵人の詳細説明は省略しますが非蔵人も官位は六位だったのだそうです。要は官職空き待ちで見習い仕事は出来たようです。
平将門が、帰郷するのは、延長8年(930年)・27歳のときです。一方、源相職が、亡くなったのは、「天慶6年(943年) 4月9日:卒去 享年43。」から43歳です。つまり、930年の時の源相職の年は30歳で、将門より3つ上という事です。上の項目の源相職の経歴を見ればわかりますが、30歳の時の官位・官職は「六位蔵人」か「従五位下。右少弁」のどちらかです。ここで、何が分かるかですが、平将門の修業時代、及び法律の猛勉強時代と、朝廷のエリートの源相職の修業時代は一致するという事です。将門の12年間の修業時代すべてに関わっている可能性もあるということです。立場は異なるものの、若い者同士、天皇の血筋ということもあり、弓矢や乗馬を将門が教え、法律については、源相職から教えてもらったという関係があったと考えられます。また、職場の若い者同士で祭りや比叡山や高野山や奈良の方に旅に出かけることもあったことが考えられます。将門が京に出たときには蔵人所へ寄るとか、源相職に合う関係であったと思われます。政治の議論もすることがあったと考えられます。いずれの文献にもでてきませんが、平将門にとって京で最も信頼できる人物であったはずです。
「追討令」の枠を超えて「弁明」や「懐柔策」に見える3つの理由
- 「犯罪者(藤原秀郷ら)に頼るほかない」朝廷の破綻
平貞盛や藤原秀郷ら現地の豪族(軍事貴族)は、朝廷から見ればもともと「私戦(私的な武力衝突)」を繰り返す秩序の破壊者であり、本来は国家が処罰すべき対象でした。
しかし、当時の朝廷(中央)には将門を鎮圧できる独自の軍事力(国軍)がすでにありませんでした。そのため、国家の法を犯している犯罪者(貞盛ら)であっても、将門を倒せる武力を持つ者には目を瞑り、味方に引き入れるしかなかったという国家側の「敗北宣言」であり「弁明」が、この格別の恩賞(不次之賞)という表現に表れています。
- 「前例(旧例)」を無視することへの自己正当化
文面に「不拘旧例(旧例に拘らず)」とわざわざ明記されています。律令制において前例(先例)を破ることは、朝廷の法秩序において極めて異例のことでした。
本来なら段階を踏まなければ上がれない「五位(貴族の身分)」や、国家の領地であるはずの国を「3年間私有化してよい(知行三年・便為永業)」という破格の条件を出すことは、国家の法制度の自己否定に等しい行為です。そのため、前半部分で将門を「開闢(世界の始まり)以来の最悪の悪人」とこれ以上ない言葉で罵ることで、「これほどの未曾有の危機なのだから、犯罪者を優遇してでも前例を破ることは正当化される」という朝廷側の必死な言い訳(自己弁護)が必要だったと考えられます。
- 「刑事事件」ではなく「利害関係の取引」への変質
この官符は、犯罪者を法に基づいて裁く「刑事手続き」の文書としては完全に破綻しています。
書かれている内容は、国家の正義ではなく、「将門の首を取れば、過去の罪は不問にした上で、莫大な富と地位(五位と国)をやる」という、朝廷と地方の武力勢力との間の「取引(契約)」です。
決定的な客観的証拠:官符に「謀反」「新皇」「除目」の文言がない
もし平将門が本当に「国家の乗っ取り(謀反)」を働き、「国印を強奪」し、「自ら新皇と宣言」して「勝手に除目(官吏任命)を行った」のであれば、朝廷が全国に発行する公式文書である『太政官符(追討官符)』に、それらの最重要容疑(罪状)が記載されないなどということはあり得ません。
- 朝廷側の最大の正当化理由: 朝廷や藤原忠平にとって、「新皇を自称した賊」「国家を盗んだ朝敵」という大義名分こそ、私兵を動員し武力討伐を行うための最大の言いがかり(大義名分)になります。
- 記載できなかった理由=「存在しなかったから」: それにもかかわらず、官符の公式記録(『貞信公記』等の関連史料)や後世の公式記録の骨子において、それらの凶悪な罪状が法的に明記されていないという事実は、「当事者である朝廷自身が、当時そのような事実が存在しなかったことを知っていた(捏造の余地すら法的に作れなかった)」という何よりの動かぬ証拠です。
この太政官符は、形式上は「将門を討て」という追討の体裁(官符)をとっていますが、その本質は「国家の警察権・司法権が機能していないことを認め、犯罪者たちに利害を提示して頭を下げた、朝廷の困窮と妥協の弁明書」である。
この朝廷の「なりふり構わぬ妥協(弁明)」が、結果として「武士」という新たな階級を公式に認めるきっかけとなり、のちの武家社会へとつながっていくことになります。
「徳」と軍事力を兼ね備えた将門への恐怖と、卑劣な抹殺劇
孟子の『易姓革命・王道論』が教える通り、民の信望を集め、法を熟知し、圧倒的な生産力・製鉄力と「徳(仁義)」を備えた指導者(将門)の存在は、売官と不当な過剰徴税で成り立っていた京都の腐敗貴族(藤原忠平ら)にとって、自らの体制を内側から崩壊させる恐怖そのものでした。
- 合法的には勝てない相手: 法廷闘争でも勝てず、地元の信頼でも勝てず、正攻法の軍事でも勝てない。だからこそ、朝廷は正当な「法の手続き(合議や適正な裁判)」を一切飛ばし、忠平個人の専横によって裏の「追討」の命令を下すしかなかった。
- 賞金首と流刑者(秀郷)の利用: 現地で相手にされない平貞盛を「下野介」に急遽仕立て上げ、地元で罪を得て逃亡・服役中であった藤原秀郷のようなアウトロー(ならず者)に恩赦や賞金をぶら下げて差し向け、闇討ち・暗殺のごとく将門を抹殺した。これが「将門の乱平定」の無残な裏の真実です。
『将門記』の正体と『延喜格』消滅の歴史的隠蔽工作
なぜこれほどまでに辻褄の合わない歴史が残されたのかという最後の謎に対する解答も、完璧に説明がつきます。
- 『将門記』=失敗国家・朝廷側の「官製スピン(隠蔽・プロパガンダ)」: 法を守らず、真の指導者を闇に葬った自らの腐敗と失敗(国家機能の麻痺)を隠蔽するため、後世に「将門は狂乱して新皇を称した恐ろしい朝敵であり、朝廷はそれを正義の武士(貞盛・秀郷)を使って平定した」という都合の良いフィクション(軍記物語)を仕立て上げる必要がありました。
- 『延喜格』が歴史から消された(伝わらない)理由: 法令集である『延喜式(施行細則・マニュアル)』が現代までほぼ完全な形で残っているにもかかわらず、本法・改訂法である『延喜格』が散逸し、原文が闇に包まれている不自然さ。 貴族政治の過剰な汚職や自らの特権乱用を厳罰に処すための「天皇による直命の改訂法」であった。『延喜格』は、自らの都合で法を破り続けてきた公家貴族たちにとって、後世に残って最も困る「不都合な真実」そのものだったわけです。
何故、平将門の太政官符が具体的に犯罪や罪状・国名等記載できない偽文書だったのか?
これで、全容がスッキリする話なのですが、1094年の扶桑略記(皇円)の平将門の追捕太政官符の掲載時には、将門記の複写本(1099年:仮名 源信)や原本がなかったと考えるとすべての辻褄が合ってしまうのです。ただし、確実に言えるのは平貞盛や藤原秀郷は、褒美を得るために顛末報告書を出しているはずです。また、各国司、地域の豪族や農民等も平将門がいなくなった本当の理由を知っていたはずです。
おそらく、平将門が藤原秀郷にどのように討たれたかは疑問がのこりますが、実際に褒美をもらっているため討たれたのは事実です。最後の貞盛のと戦いがあったか、平良文の裏切り説等もありますが本件についてはここまでです。また、平貞盛や藤原秀郷は、現実にあった事は朝廷又は藤原忠平に報告していたはずです。そして、それらをある程度まとめたものが940年の時点であったはずです。
2026年8月15日 小田部 文彦
