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平安時代の藤原氏貴族政治:政敵の抹殺・排斥事件


藤原氏(北家)の貴族政治における政敵の抹殺・排斥事件について

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藤原氏北家による摂関政治は実質的な専制に近く、法的な特権や法令の運用も自派に有利に行われました。平将門の乱の捏造どころではないことが実際に行われていたのです。昌泰の変や安和の変といった政変で他氏だけでなく天皇や皇太子まで排斥・擁立されたほか、醍醐天皇の宣旨による『延喜格』などの法令も、その運用実態は不透明であり、延期式(行政法)は存在しているにも関わらず、藤原氏北家に都合の悪い「延喜格」(刑法)自体は存在していないのです。平将門が939年に常陸国府を襲撃して国印を奪ったとされる事件も、1099年(承徳3年)の奥書を持つ『将門記』による藤原氏の後世の捏造、及び藤原氏仕切る朝廷側が仕組んだ冤罪なのです。そもそも国府では908年以降、実務での国印の利用は行われておらず、現地に存在すらしていなかったと考えられるのです。宣言平将門の上野国府の襲撃・新皇や除目の決定・宣旨も捏造なのです。中央朝廷は、地方政治の混乱や受領の暴政を放置する一方で、存在しないはずの国印の奪取や新皇宣言等を名目に将門を強引に謀反人へと仕立て上げたのです。菅原道真の左遷(昌泰の変)も名目上は地方官への異動でしたが、実際は大宰府での監獄同然の過酷な生活や事実上の抹殺を意味していました。現地での道真は公的な給与や衣食も支給されず、地域の人々の密かな差し入れなどで辛うじて生き延びる有様で、その2年後に没しています。大宰府への赴任という字面から受ける印象とは裏腹に、その実態は過酷な生活を強いて政敵を精神的・肉体的に追い詰める、事実上の抹殺だったのです。


藤原北家の貴族政治における政敵の抹殺・排斥事件の事例

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以下は、藤原北家が他氏ばかりで無く、藤原氏の他家までも陥れる事件が起こっていた事例です。なお、本事例は、次の天皇や皇太子の排斥事件にも見方を変え記載されています。


薬子の変(810年): 藤原氏北家 藤原冬嗣

  • 排斥された者: 藤原仲成、藤原薬子(式家)
  • 事件内容: 薬子の変(くすこのへん)は、平城上皇の復位と平城京還都の動きに対し、嵯峨天皇側が素早く制圧した事件です。藤原冬嗣は蔵人頭として天皇を支えて勝者に回り、それまで勢力を誇った藤原式家が没落していきます。これは、必ずしも藤原北家が仕切ったものではありませんが、結果的に藤原冬嗣が蔵人頭を手に入れることで藤原氏北家が仕切る契機なった事件です。事後処理に藤原冬嗣は関わっていたはずです。
  • 刑罰等: 仲成は射殺・処刑され、薬子は服毒自殺し、上皇は出家させられました。これにより北家が台頭する契機となったのです。

2. 承和の変(842年):藤原氏北家 藤原良房

  • 排斥された者: 恒貞親王、伴健岑、橘逸勢(たちばなのはやと)
  • 事件内容: 承和の変は、嵯峨上皇の崩御後、皇太子・恒貞親王を廃して別系統の皇子を立てようとする陰謀があるとの密告があり、藤原良房がこれを主導して皇太子派を一掃した事件です。
  • 刑罰等: 恒貞親王は廃太子となり、伴健岑は隠岐国へ、橘逸勢は伊豆国へ流罪(逸勢は途中で病死)となり、皇族以外の他氏は封じ込められました。

3. 応天門の変(866年):藤原氏北家 藤原良房

  • 排斥された者: 伴善男、源信
  • 事件内容: 応天門が放火された事件です。当初は大納言・伴善男が左大臣・源信の犯行と訴えましたが、北家の藤原良房がこれを退け、のちに真犯人が伴善男父子であることを暴き出して失脚させました。
  • 刑罰等: 伴善男は伊豆国へ流罪となり、伴氏は没落した。この事件の事後処理で手腕を発揮した藤原良房は、のちに皇族以外で初の「摂政」に就任したのです。

4. 阿衡の紛議(887年)藤原氏北家:藤原基経

  • 排斥された者: 橘広相(たちばなのひろあみ)
  • 事件内容: 宇多天皇の即位に伴い、詔書に藤原基経(ふじわらのもとつね)の役職を中国の古い官職名である「阿衡(あこう)」という言葉が使われました。基経は「阿衡には実権がない」と抗議して政治をボイコットし、朝廷を機能停止に追い込んだのです。
  • 刑罰等: 天皇が折れて詔書を撤回し、起草した学者・橘広相は責任を問われて失脚・孤立しました。これにより藤原基経の「関白」の地位と政治的優位性が完全に確定したのです。

5. 昌泰の変(901年) 藤原氏北家: 藤原時平

  • 排斥された者: 菅原道真(すがわらのみちざね)
  • 事件内容: 宇多上皇の信任を受け、急速に台頭して政治改革を進めていた右大臣・菅原道真に対し、左大臣・藤原時平らが「宇多上皇を廃して別の皇子を立てようとした」と天皇に讒言して排斥した。
  • 刑罰等: 菅原道真は大宰権帥として大宰府へ左遷され、現地で失意のうちに病死した。これにより藤原時平が政権を完全に掌握し、摂関政治への道が固まった。

6. 安和の変(969年)藤原氏北家: 藤原実頼

  • 排斥された者: 源高明(みなもとのたかあきら)
  • 事件内容: 左大臣であった源高明(醍醐天皇の皇子)が、皇位を脅かす存在として藤原氏( 藤原実頼(ふじわらのさねより)等に警戒されました。武士・源満仲らの密告により、源高明が謀反を企てているという嫌疑をかけられて失脚した事件です。
  • 刑罰等: 源高明は太宰権帥として大宰府へ左遷され、数年後に許されて京に戻りましたが、政治の表舞台には二度と復帰しませんでした。これにより強力なライバルだった皇別貴族(源氏)が排斥され、藤原北家による権力独占体制が揺るぎないものとなったのです。

藤原氏によって天皇の座を追われた天皇の事件

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平安時代に藤原氏の陰謀や圧力によって天皇までも座を追われるという事件まで起こっていたのです。


1.陽成天皇(陽成天皇廃位・884年):藤原基経

首謀者は藤原基経(藤原北家)です。陽成天皇は成長とともに粗暴な振る舞いが目立ち、宮中で殺人事件が発生する事態にまで発展しました。天皇と政治的に激しく対立していた関白の基経は、この事件を機に天皇の執務能力を問題視し、事実上の強制退位(廃位)を断行しました。基経は次の君主として、自分にとって扱いやすい高齢の光孝天皇を擁立し、退位した陽成天皇はその後長きにわたる上皇生活を送ることになりました。臣下の権力によって天皇が廃位された極めて異例の事件です。


2.醍醐天皇(昌泰の変・901年):藤原時平

首謀者は藤原時平(藤原北家)です。醍醐天皇の信頼を得て急速に出世し、藤原氏を脅かす存在になっていた右大臣・菅原道真を失脚させるための政変でした。時平は天皇に対し「道真が自分の娘婿(斉世親王)を天皇に即位させようと謀反を企てている」と嘘の報告をし、天皇を動揺させました。これを聞いた醍醐天皇は道真を大宰府へ左遷し、親政(天皇中心の政治)の主導権を事実上藤原氏に奪われる結果となりました。天皇自身が退位したわけではありませんが、藤原氏の陰謀により天皇の権力と治世が大きく歪められた事件です。


3.冷泉天皇(安和の変・969年):藤原実頼

首謀者は藤原実頼・師尹(藤原北家小野宮流)です。即位直後から精神的な不調が噂されていた冷泉天皇を利用し、藤原氏は権力を確固たるものにしようと画策しました。天皇を支えていた有力な源氏の廷臣・源高明に謀反の濡れ衣を着せて失脚(配流)させると、後ろ盾を失った冷泉天皇はわずか2年の在位で退位へと追い込まれ、藤原氏が望む円融天皇へ譲位させられました。この事件により他氏の脅威が完全に消え去り、藤原北家による摂関政治の基盤が強固に確立されました。


4.花山天皇(寛和の変・986年):藤原兼家

首謀者は藤原兼家(藤原北家九条流)とその息子の道兼です。兼家らは、自身の孫である一条天皇を即位させて外戚の地位を得るため、最愛の妃を亡くして傷心していた19歳の花山天皇をターゲットにしました。道兼が「共に出家して冥福を祈りましょう」と偽って夜中に天皇を内裏から連れ出し、寺で強引に剃髪させて退位に追い込むという騙し討ちを行いました。計画通り一条天皇が即位して兼家は摂政となり、藤原氏の権力最盛期(御堂流)の礎が築かれました。


5.三条天皇(三条天皇譲位・1016年):藤原道長

首謀者は藤原道長(藤原北家御堂流)です。道長は自分の孫(後一条天皇)を早期に即位させるため、自身の意のままにならない三条天皇に対して執拗な退位圧力をかけました。ちょうど天皇が眼病を患ったことを好機とし、「目を患っては政務は執れない」と激しく迫り、内裏の火災も天皇の不徳のせいにしました。精神的に追い詰められた三条天皇は、自身の息子の敦明親王を次の皇太子にすることを条件に譲位を呑まされ、道長による摂関政治の全盛期が完成しました。


崇徳天皇(保元の乱・1156年):藤原忠通

首謀者は後白河天皇と藤原忠通(藤原北家御堂流)です。父の鳥羽法皇によって強引に退位させられ上皇となっていた崇徳院は、朝廷の実権を取り戻す機会を狙っていました。法皇の死後、藤原摂関家の内紛(兄・忠通 vs 弟・頼長)や源平の武士の対立が絡み合い、崇徳上皇側が挙兵しました。しかし、後白河天皇・忠通側の奇襲により敗北。崇徳上皇は讃岐国(香川県)へ流罪となり、憤死しました。この事件を機に貴族の摂関政治は衰退し、武士の時代が始まります。


藤原氏によって皇太子が失脚させられ事件

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平安時代に藤原氏の陰謀や圧力によって皇太子の座を追われた(廃太子となった)代表的な3つの事例です。


1.高岳親王(薬子の変・810年)

首謀者は藤原冬嗣(藤原北家)らです。平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」の際、平城上皇の政権奪取の企てが失敗したことに伴い、上皇の息子である皇太子・高岳親王も連座する形で地位を剥奪されました。この事件の後、藤原冬嗣は天皇の秘書官長である「蔵人頭」に就任し、藤原北家が急速に台頭する契機となりました。なお、親王はのちに出家し、仏法を求めてインド(天竺)を目指す途中で消息を絶っています。


2.恒貞親王(承和の変・842年)

首謀者は藤原良房(藤原北家)です。良房は、自身の甥(妹の子)である道康親王(のちの文徳天皇)を次の天皇に就けることを目論んでいました。恒貞親王の身の安全を危惧した側近たちが東国への脱出を計画したところ、良房はこれを「謀反の企て」として摘発し、側近の橘逸勢らを流罪に処しました。後ろ盾を失った恒貞親王は皇太子を辞退させられ、良房はのちに人臣初の摂政へと上り詰めることになります。


3.敦明親王(三条天皇譲位後の辞退・1017年)

首謀者は藤原道長(藤原北家御堂流)です。道長により退位へ追い込まれた三条天皇は、自身の息子である敦明親王を次の皇太子に立てることを条件に譲位しました。しかし、道長は敦明親王に対しても冷遇やあからさまな嫌がらせ、精神的圧迫を加え続けました。道長からの激しいプレッシャーに耐えかねた親王は、自身の身の安全を守るため、翌年に自ら皇太子の座を辞退しました。これにより道長の孫の直系王統が盤石なものとなりました。