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将門記の平将門の乱の記載における重大な矛盾と捏造の証明


将門記とは

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『将門記(しょうもんき)』は、平将門の乱を記録した平安時代中期に成立した日本最初の軍記物語とされています。歴史書としては、平将門の乱における「新皇」僭称や朝廷に対する謀反の推移を伝える唯一の同時代的記録として、歴史学において極めて一級の基本史料に位置づけられています。また、文学・国語学の分野において、日本で最初の本格的な「軍記物語(戦記文学)」の嚆矢として極めて高く評価されています。しかしながら、将門記の原本とされるものは残っておらず、『真福寺本』と『楊守敬旧蔵本』の二つの写本と11種類の抄本が伝わっています。「将門記」を物語として読む場合は、問題はないのですが本サイトのように歴史書として利用しなければならない時には注意が必要です。

ここで、最初に結論を記載致しますが、「将門記」に記載されている、平将門の「常陸国府」、「下野国府」、「上野国府」の襲撃は無かったことは証明しております。また、「平将門追捕の太政官符」も偽造文書であることも証明しています。そのため、真福寺本将門記も平将門の乱の記載の部分は捏造文書です。


真福寺本の将門記とは

真福寺本「将門記」は、名古屋市の宝生院真福寺に伝わるもので、承徳三年(1099年)に書き写したという意味の奥書が記載されています。平将門の乱の約160年後の1099年(平安時代後期)に書き写したものです。奥書の署名は、「源信」とあり、比叡山延暦寺の学僧まではわかりますが、源信が誰かは明確になっていません。

「将門記」には、以下のような真実性の根拠の問題があります。真福寺本「将門記」については、別途、以下の従来のページで案内していますのでご確認ください。


    将門記の現代における歴史的・文学的な一般的評価

    以下は、2026年9月12日に生成AI(Gemini)を利用して、将門記が現代においてどのように評価されているか確認した結果です。 現時点において、将門記の一部の記載が捏造されたという社会的な認識がないため正しい回答と思われます。なお、HTMLの表示方法は、変更していますが、文章は一字一句変更していません。現時点で生成AIの結果と当サイトの結論は、一致しません。検索エンジンの評価には、「専門性」や「権威性」や、「信頼性」等の評価も加わるためです、徐々に客観的な証拠が認められると、徐々にAIの回答も変わるはずです。

    ■ 質問:「将門記は、現在、歴史学に限定したばあい、どのように評価されているか400文字程度で回答ください。」
    生成AI回答: 『将門記』は、平将門の乱における「新皇」僭称や朝廷に対する謀反の推移を伝える唯一の同時代的記録として、歴史学において極めて一級の基本史料に位置づけられています。
    • 「新皇」僭称と体制への挑戦: 将門が自ら「新皇」と称して独自の政権樹立を志向した記述は、当時の天皇中心の律令体制・王朝国家秩序に対する真っ向からの挑戦、すなわち日本史上稀な大事件の存在を証明する決定的な根拠として評価されています
    • 「謀反」の構造的分析: 従来の一方的な「悪逆な謀反」という見方から、国衙や在地勢力間の紛争がエスカレートした結果として構造的に反乱へ至った過程が分析されています。将門側の「領域支配の正当性」や東国の自立的な動向が克明に読み解かれています。
    • 中央と地方の権力関係: 東国の実情や武力闘争のダイナミズムを伝えることで、平安中期における地方の武力・経済力が中央の統制力をいかに超越し得たかを示す、歴史上不可欠な史料となっています。
    ■ 質問内容:「将門記は、現在、文学・国語学に限定したばあい、どのように評価されているか400文字程度で回答ください。」
    生成AI回答: 『将門記』は、文学・国語学の分野において、日本で最初の本格的な「軍記物語(戦記文学)」の嚆矢として極めて高く評価されています。
    • 軍記物語の原点としての位置づけ: 平安時代中期に起きた平将門の乱を題材とし、私闘の発生から国衙との抗争、そして「新皇」僭称を経て敗死に至るまでの人間ドラマを生々しく描いており、のちの『平家物語』などに連なる軍記文学の源流とされています。
    • 和風漢文(変体漢文)の文体: 本文は、中国の古典や史書に由来する修辞を駆使した荘重かつ硬質な和風漢文(変体漢文)で綴られています。この格調高い文体が、戦乱の緊迫感やスケールの大きさを際立たせる優れた表現効果を生んでいます。
    • 文学的造形とリアリズム: 後世の軍記物語のように完全に物語化・美化される前の段階にあるため、平将門の英雄的な側面と危うさが未分化のまま同居しており、個人の運命と巨大な権力の衝突を描いた独立した文学作品としても大きな価値を持っています。

    将門記の平将門の乱の矛盾・捏造

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    当サイトの考えは、将門記における「平将門の乱」、すなわり、「謀反」は、後世における明確な捏造という主張です。藤原摂関家を中心とした貴族政治が当時の世相的に都合が悪い状況(律令制の崩壊)まで追い込まれ、平将門を法的な「謀反人」、極悪人に仕立て上げる為に将門記という物語が必要だったということです。現状、原本があったとは思えません。しかしながら、将門記の武蔵国の源経基の偽訴のあたりまでの文章は信じるに値する内容であり、「貞信公記抄」にも出てくる出来事が記載されています。

    改ざんした部分は、武蔵国の介(現地長官)源経基の偽訴事件解決の日から常陸国襲撃の日のあいだで起こっているという内容です。 この期間を境に文章の内容が大きく変わり、その後最後まで非現実的な内容なのです。

    この期間の事件等重要事項は、常陸国府の襲撃(939年11月21日)、下野国府の襲撃(12月11日)、上野国府の襲撃12月15日、そして940年1月11の平将門追捕の太政官官符の発行です。

    まず、上記については、それそれにその事件が無かったことは、既に証明済みです。それぞれのリンク先をご覧居いただけると確認できます。下野国府については、国印の問題だけであり、常陸国府で証明しているためページ的には現時点で作成しておりません。 次に、この考えが正しい証拠としては、これらは朝廷にとって重要な事件であり、政治的な判断を要する事件です。関白の藤原忠平が日記(業務日誌)に書かないはずがないものです。しかしながら、これらは、九条家本等貞信公記抄にも抜け落ちているのです。武蔵国の偽訴事件は日記があり、平将門が死んだ日以降、日記が始まるということは有り得ない話です。本件は、本ページの「貞信公記抄」の解文(報告書と)と平将門の乱をご確認ください。

    ここで、この間の将門記の決定的なミスについての内容ですが以下の通りです。 将門記を精査すると、大きな問題点があることがわかります。


    将門記は、事実なのか、捏造なのかの科学的な実証

    本目的は、平将門が公に1千年以上、「謀反」を起こした人物となっていることの冤罪を証明する目的です。平将門が謀反人なっている原因は、「将門記」に記載されている内容によってです。


    人物、場所、書物、事件、何が実際に存在したはなにかが分からないと判断できません。また、法律では、平将門のが死ぬまでに実際にあった証拠がなければ、養老律(刑法)で将門を罰することはできません。物理的に空間、時間、距離、地形が記載されている内容や条件において存在するかということです。また、科学的に実証できるかという話です。

    【科学的な実証の主な条件】

    • 客観性:誰が見ても同じように確認できること。個人的な主観や偏見を排除する。
    • 再現性:同じ条件で実験や調査を行った際、何度でも同じ結果が得られること。否定する場合は、その逆で非再現性で同じことができない、
    • 検証可能性:正しくない可能性(反証)を確かめる方法や、データによる裏付けがあること。



    整理すると以下のようになります。


    1、存在があったもの

    (1)現状で存在したものとして確実なのは、養老律令です。

    (2)次に存在したものは、貞信公記と藤原忠平の日々の日記です。

    (3)将門記に記載されている939年の6月(武蔵国・源経基偽訴告訴事件の後)までの情報の登場人物、事件の場所・概要、  まとめ、又は個別報告書等の資料、及び事件や戦い、裁判等

    (4)平将門の死と暗殺計画

    2,存在が無かったもの

    (1)常陸国府への襲撃と藤原玄明の存在

    (2)下野国府への襲撃

    (3)上野国への襲撃と藤原玄茂の存

    (4)平将門追捕の太政官符 

    (5)下野の合戦と藤原玄茂の存と高い山

    4,平将門の死と暗殺計画



    ある程度歴史的証拠として使用できると考えられます。、939年の6月



    の平将門の書状や国司等の報告書、関係した豪族・武士等の報告書や日記等が一切ないのです。現在でも、最も利用できる資料としては、「真福寺本将門記」、「九条家本の貞信公記抄」、「扶桑略記」等がありますが、いずれも原本は無いのです。そのため平将門の乱は、主に「将門記」に基づいて「平将門の乱」の歴史が引きつがれてきたということです。
    本実証では、将門記の全体を問題としているわけではありません。何らかの当時の報告書等が無ければ、これだけの物語を作ることはできないはずです。
    そのため、少なくても源信」という学僧が写本を作成完了した1099年までは、かなりの資料が藤原摂関家や比叡山延暦寺には残っていたはずです。また、平将門及び平将門の乱総括的なまとめがあったことも考えられます。しかしながら、それらの資料も残っていません。おそらく、廃棄された思われます。本サイトで問題とするのは、武蔵国の源経基のご告訴事件の解決日から、平将門が亡くなる日までの期間です。すなわち、常陸国、下野国、上野国の国府襲撃と平将門追捕の太政官符の発符です。結論を記載しておきますが、3か所の国府の襲撃の記載、及び太政官符の発符は捏造文書です。


    将門記は、律令崩壊の最後の足掻き・歴史の罠だった!


    第1点:現実離れした架空人物の登場

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    以下の3名は、明らかに現実に存在できない人物です。このモデルになる可能性のある人物がいたとしても、記載されている内容は、物語としては許されますが、現実的にあり得ない話です。
    法律を適用する場合には、人間として存在していなかればなりません。律令(刑法・行政法)が適用できるのか、空間的、時間的、距離、重量等の考慮において物理的に成り立つのか、客観的なデータや、時系列、記録の整合性等科学的に検証できるかという事です。藤原玄明や藤原玄茂は、ウィキペディアにも出てくる人物ですが、将門記や将門記を根拠とした資料の記載であり、実際にはどこの誰かは不明です。存在の有無をはっきりさせる必要があります。この二人が架空人物であった場合には、平将門の謀反が無かった決定的な証拠なのです。


    常陸国の藤原玄明は、人として存在し得ない架空人物です。

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    地域で強盗、虐待をやり続けて逮捕も裁判も行われない、刑罰も与えられない事、妻子を連れて群衛の不動倉を行方郡、河内郡の2件も襲い、大量の米を奪って逃げられること自体あり得ないのです。しかも、朝廷にも国府の解文(報告)も出されていないのです。

    藤原玄明の架空人物証明をご確認ください


    常陸国司の掾藤原玄茂は、人間として存在し得ない架空人物です。

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    常陸国府の「掾」という国府の役職は、存在しないのです。常陸国府の国司が、上野国の襲撃に加わり、新皇宣言の宣旨や除目の決定、将門軍の副将軍として貞盛と戦うなど、法的にも、能力的・体制的にも、軍事的にあり得ないのです。

    藤原玄茂の架空人物の証明をご確認下さい


    八幡大菩薩の使いの巫女

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    説明するまでもなく、架空の人物です。そもそも、平将門が自ら新皇宣言をしたことも、除目を決定し、公開したことも、将門記には記載されていません。そもそも、八幡大菩薩の巫女が突然現れて、新皇の託宣を下すというオカルト話があり得るわけはないのです。なぜ、平将門が新皇宣言した異なってしまうのか考えられない話です。

    八幡大菩薩の使いの巫女の登場平将門の信仰をご確認ください。


    養老律令の律=刑法、令=行政法、延喜格=刑法の無視

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    1099年の真福寺本将門記は、巻末の奥義にあるように比叡山延暦寺の学僧である源信が書いたことになっています。源信は架空の人物名で本当に書いた人物がいるはずですが、比叡山延暦寺の学僧が書いたものであることは間違いありません。この学僧は、漢文や仏教文書、文章を書くことにおいては当時、超一流の文人です。しかしながら、法律については素人であったため、法律、政治、制度に矛盾が多発しまったというミスです。

    将門記の著者は、国司や郡司の役割をほとんど無視しています。刑法や行政法の理解も全く無いと言っても過言ではありません。

    以下は、一部の事例です。


    (1)藤原玄明の場合の犯罪は極刑!

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    強盗や虐待を日ごろ行っている極悪人であり、国府が放置していることは有り得ないないのです。国司が怠慢で放置していたら自ら罷免されるばかりでなく、同罪になる可能性もあるのです。

    • 強盗の場合:国司は、強盗・窃盗の罪で逮捕し裁判を行い、処罰しなければなりません。
    • 地域の人を虐待した場合:「闘殴罪(とうおうざい)」や「傷人罪(しょうじんざい)」として処罰しなければならなかったのです
    • 税の未納者の場合:家畜や生産物、家屋や田畑等の差し押さえ手続きを実施する必要がありました。

    律令の法律において、国家の象徴である「不動倉の襲撃」は、「毀壊官物」、「私開門鎖」、「私開正倉」、「強盗」等に該当する極刑です。もし本当に郡衛の不動倉が2カ所襲撃されたのなら、常陸国司は何よりも真っ先に、都の朝廷へ緊急報告(解文の提出)をしなければなりません。それをしないと罷免れベルではすみません。著作の僧が、法律の知識があったなら、平将門が協力者だという報告もできたはずです。ただし、架空の話なので意味はないです。


    (2)藤原玄茂の場合の犯罪は極刑!

    藤原玄明と同じような話です。

    • 存在しない国府の官職:著作者がミス記載したのか、無知だったのか不明ですが、常陸国は、律令の分類で大国、新王任国であり、「掾」という官職は有りません。「大掾」又は「少掾」です。官職を勝手に名乗ることも罰せられます。
    • 藤原玄茂自身が謀反人:また、常陸国の国司が、将門側の人間になって上野国を襲撃するという事も、刑法上、行政法上あり得ません。あり得たとしたら、それこそ、常陸国の介の藤原維幾は、罷免では済まされない「極刑」の話です。藤原玄茂は、新皇宣言の仕切り担当者であり、除目の決定者であり、藤原玄茂こそが「謀反」になるような話なのです。いずれにしても、本記載は、本来、常陸国から藤原玄茂の解文を朝廷に出す話です。また、上野国は、襲撃の解文を朝廷に出さなければならないのです。襲撃自体の解文が朝廷に提出されていないのでこれらの提出があるはずもありません。

    (3)常陸国府・下野国府・上野国府の場合

    平将門の乱は、そもそも以下の3つの国府を平将門が襲撃したことを根拠に将門の「謀反」が成立しています。
    以下の3件の国府が、襲撃が実際にあった場合には、必ず国司は、養老令に基づいて即刻、朝廷に解文(報告)を出さなければならないのです。 出さなければ、確実に罷免になるばかりでなく、極刑になってしまいます。将門が死んだ後も罷免になっていないため、襲撃は無かったという証明です。 また、本件に関わる決定的な証拠として、関白の藤原忠平の日記(業務日誌)である「貞信公記抄」にこの3件の襲撃と平将門追捕の太政官符の日記が記載されていません。どう考えてもあり得ない話で襲撃が無かったことの証明なのです。本件は、「貞信公記抄」による平将門の乱の無かった証明をご確認ください。

    • 常陸国の襲撃については、以下の2つの観点から襲撃が無かった事を証明しています。
      • 藤原玄明は架空人物であること。架空人物なので平将門は、藤原玄明に会ったことはないのです。自動的に襲撃が無かったことになります。
      • 実際に合戦があり得ない事、国印も国府に無かった事、国衙の調査でも火災があったことになっていない事で襲撃がなかったことを証明しています。
    • 上野国の襲撃についても、以下の2つの観点から襲撃が無かった事を証明しています。
      • 藤原玄茂は架空人物であること。架空人物なので平将門は、藤原玄茂に会ったことはないのです。自動的に襲撃が無かったことになります。
      • 実際に、八幡大菩薩の巫女もフィクションであること、新皇宣言はなかったこと、除目の実施も無かったこと、印も国府に無かった事で襲撃がなかったことを証明しています。
    • 下野国の国府は、国印や正倉の鍵だけの問題であり、常陸国の証明があるため、現在ページは作成していません。

    物理的な地形、合戦・襲撃等の空間・距離や時間の無視

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    この問題は、現在だから言える話なのですが、平野という概念はありませんでした。

    平安時代には国毎に絵地図を提出すようになっていう事ですが、実際に坂東の経験者でないとわからないはずです。

    平安時代には、坂東という言葉はありましたが、平野という概念がありませんでした。京の人々及び将門記の著者は、坂東地域がどれだけすごい場所であるかを認識していなかったという話です。実際に国司経験者に聞いたり、天台宗の普及活動を行った層に聞いたりもしていないはずです。また、常陸国風土記も読んでいないはずです。事前に、調査していれば、また、坂東経験者に校正を依頼していれば、この問題はなかったかもしていません、全国に布教活動も行わない、京の都の暮らしと奈良の都ぐらいしか知らない学僧が下総国や周辺の坂東を理解することは、困難だったという事です。

    地名概略面積割合
    関東平野日本最大の面積を誇る平野。首都圏を中心に広がる。約 17,000km²1分の1(基準)
    大阪平野淀川などが運んだ土砂によって形成された平野。約 1,600km²約 10.6分の1
    京都盆地山に囲まれた盆地で、歴史的な都市が発展した地域。約 270km²約 63.0分の1

    (1)霞ヶ浦の存在と逃走ルート

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    茨城県南の人であれば、妻子連れで行方郡の郡衛の不動倉を襲い、そのあと、河内郡の郡衛の不動倉を襲い、そのあと下総国の豊田郡(常総市)に荷車(牛車)で群衛や国府の追手(乗馬)を掻い潜り逃げることがあり得るかという話です。そもそも、行方郡と河内郡は、霞ヶ浦を挟んで対岸で、平安時代は、香取海といって今の潮来市や稲敷市、香取氏に平地は、印旛沼も内海だったのです。稲敷郡から河内郡に行くには信太郡まで船でわたる必要がありました。陸からの場合、石岡まで信太郡・筑波郡に入り、河内郡、下総国豊田郡です。その間に桜川や小貝川、鬼怒川があるのです。この距離は、60km~70kmです。京都の御所から平地経由で兵庫県の芦屋市又は神戸市あたりまでの距離なのです。絶対にあり得ないのです。


    (2)常陸国府の位置と場所の地形

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    常陸国府は、今の石岡学校の校庭の部分です。その南側が常陸国総社です。国分寺は、北に直線距離で約900m、国分尼寺が1300mです。そもそも、将門軍1000と国府軍3000は有り得ない話なのです。国分寺や国分尼寺が襲われて、総社がでてこないのもありえないのです。当時の戦闘は基本的に騎馬による弓の合戦です。ありえても双方1千程度なのですが、当時の国富の健児制の事情や将門自体も人のための戦いに兵を出す余裕は無かったはずです。また、ルート図見ればわかりますが、馬なら余裕で1日で戻れます。


    (3)関東平野と下野の戦いの場所


    将門記に関わる律令に関わる制度と法律違反


    国府の地位・四等国制度

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    1. 養老律令(ようろうりつりょう)の国と4等官
    「大国・上国・中国・下国という4つの等級(四等国制度)を作る」という【制度そのものの基本ルール】を定めたのが養老律令(のなかの職員令)です。
    • ここでは「大国には守・介・掾・目をこれだけ置く」「下国は人数を減らす」といった法律上の根本的な仕組みが定義されました。
    2. 延喜式(えんぎしき)の役割
    具体的に常陸国は大国、相模国は上国、安房国は中国にしよう」と、全国66国2島の【具体的な割り振りを最新リスト化した】のが延喜式(民部式)です。 律令が作られた奈良時代から平安時代中期にかけて、土地の開墾が進んで人口や税収(国力)が変わったため、平安時代のリアルな実態に合わせてアップデートされた完成版のリストが延喜式に載っています。 4等官の数を決めていたのも延喜式です。

    延喜式による四等国制度と国

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    • 大国(13ヶ国):大和国、河内国、伊勢国、近江国、越前国、播磨国、肥後国、武蔵国上総国下総国常陸国上野国、陸奥国
    • 上国(35ヶ国):山城国、摂津国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、相模国、美濃国、信濃国、下野国、出羽国、加賀国、越中国、越後国、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、紀伊国、阿波国、讃岐国、伊予国、筑前国、筑後国、肥前国、豊前国、豊後国
    • 中国(11ヶ国):安房国、若狭国、能登国、佐渡国、丹後国、石見国、長門国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国
    • 下国(7ヶ国):和泉国、伊賀国、志摩国、伊豆国、飛騨国、隠岐国、淡路国
    • 嶋(2島):壱岐嶋、対馬嶋(※文献によっては、この2つの島を下国に含めて「下国9ヶ国」と数えることもあります)

    四等国制度の国府の官職の違い

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    大国は国府の組織が非常に大きく、「掾(じょう)」・「目(さかん)」に「正・副の大・少」が置かれて人数も手厚かったのに対し、上国以下の中国(下国)は最小限の人数でした。将門記では、藤原玄茂は有り得ない話として何度も常陸国掾の藤原玄茂として登場するのです。常陸国の「掾」という官職はないばかりか、常陸国の国司が上野国府の襲撃を行ったり、新王宣言の段取りや除目の決定が行っているのです。あり得ない話ですが、もし事実であれば、藤原玄茂は、一発で罷免どころか、「謀反」の極刑なのです。

    役職(四等官)と国の体制比較
    役職(四等官) 大国の体制(例:常陸国) 中国の体制(例:安房国)
    (かみ / 長官) 1名(従五位上〜下) 1名(従六位上)※ランクが低い
    (すけ / 次官) 1名(正六位下) なし(配置されない)
    (じょう / 判官) 2名(大掾 1名・少掾 1名) 1名(少掾クラスが1名のみ)
    (さかん / 主典) 2名(大目 1名・少目 1名) 1名(少目クラスが1名のみ)
    総人数(幹部) 合計 6名 合計 3名

    常陸国の国司の場合:守(不在・又は不明)、介(藤原維幾)、大掾(源護)・少掾(不明)、大目(不明)・少目(不明)


    律令制における命令・報告文書等の法律規定

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    平将門の乱は、そもそも以下の3つの国府を平将門が襲撃したことを根拠に将門の「謀反」が成立しています。
    以下の3件の国府が、襲撃が実際にあった場合には、必ず、即刻、朝廷に解文(報告)を出さなければならなかったのです。 出さなければ、確実に罷免になるばかりでなく、極刑になってしまうのです。将門が死んだ後も罷免になっていないので出していない、襲撃はなかっという証明です。 また、本件に関わる決定的な証拠として、「貞信公記抄」関白の藤原忠平の日記(業務日誌)にこの3件の襲撃と平将門追捕の太政官符の記載が抜け落ちているのです。どう考えてもあり得ない話なのです。襲撃が無かったことの証明なのです。本件は、「貞信公記抄」による平将門の乱の無かった証明をご確認ください。

    • 常陸国の襲撃については、以下の2つの観点から襲撃が無かった事を証明しています。
      • 藤原玄明は架空人物であること。架空人物なので平将門は、藤原玄明に会ったことはないのです。自動的に襲撃が無かったことになります。
      • 実際に合戦があり得ない事、印も国府に無かった事、国衙の調査でも火災があったことになっていない事で襲撃がなかったことを証明しています。
    • 上野国の襲撃についても、以下の2つの観点から襲撃が無かった事を証明しています。
      • 藤原玄茂は架空人物であること。架空人物なので平将門は、藤原玄茂に会ったことはないのです。自動的に襲撃が無かったことになります。
      • 実際に、八幡大菩薩の巫女もフィクションであること、新皇宣言はなかったこと、除目の実施も無かったこと、印も国府に無かった事で襲撃がなかったことを証明しています。
    • 下野国の国府は、国印や正倉の鍵だけの問題であり、常陸国の証明が出来ているため、現在ページは作成していません。

    律令制における命令・報告文書等の法律規定

    律令制においては、命令や報告については、状は例外で記載していますが、以下のように法律で規定されていました。規則上は、国司等この規定の言葉を利用しなければならないのです。また、規定された報告事項を怠った場合や故意に出さなかった場合、偽造した場合に罷免ではすまず、極刑になる場合もありました。

    平安時代の命令・報告の法律用語

    文書名

    発信者(だれが)

    受信者(だれに)

    性質

    天皇

    官司・諸国

    最高意思の伝達

    太政官符

    太政官(最高機関)

    諸国・他官司

    正式な最高命令

    上級官司

    下級官司

    命令・通達

    下級官司・個人

    上級官司

    報告・申請

    官司

    対等な官司

    対等な連絡

    官司

    直属外の官司・寺社

    連絡・通達

    状(律令例外)

    個人・官人

    官司など

    実務的な報告・申告

    将門記における報告義務違反等の事例は、以下の通りです。基本的に、国に重大な事件は、国司は朝廷に報告しなければならなかったのです。 また、将門記で国司が報告を出したことが誤りであった場合、本来、公文書の偽造の罪になるということです。

    1. 将門記の常陸国の藤原玄明は、地域で極悪な所業を繰り返し、郡衛にある不動倉を2ヶ所襲撃し、家族を連れて国外逃亡しています。不動倉は、国司も郡司も勝手に開けることができません。鍵も朝廷が管理していたのです。よって、極刑です。襲撃があった時点で常陸国の介藤原維幾は、即刻、朝廷に解文を出さなければならないのです。玄明を匿った平将門も連座になるのです。
    2. 将門記の記載に常陸国の長官(藤原維幾)が、「それゆえに、玄明を捕らえて送り帰らせよとの内容の移牒が下総国と将門に送られた。」と記載されていますが、これは法律上は有り得ないのです。律令では、「移」「牒」は、規定は別の意味です。ただし、平安後期において徐々に朝廷の制度も乱れていったようで官司と寺の間で使われていたようです。本来は、下総国へは、「移」であり、将門には「牒」なのです。つまり、捏造文書ということです。
    3. 平将門の国府襲撃においても、当然に極刑の謀反であるため、即刻の朝廷の解文が必須でした。
    4. 常陸国掾の国司の藤原玄茂が、本当に平将門側について上野国を襲撃し、新皇宣言の段取りをして、除目を決定し宣旨まで行ったら、常陸国府の長官は確実に謀反の罪で、朝廷に解文を出す必要があります。
    5. 下野国府、上野国府の長官は、平将門の襲撃が実際にあったら、解文を即刻出さなければなかったのです。襲撃があったの出さなかったな罷免どころか、極刑で流罪は確定だったのです。

    以上で、藤原玄明や藤原玄明が架空の人物であること、常陸国府、下野国府、上野国府のそれぞれの長官は、平将門の乱後官位や官職を失っていない為、襲撃は無かったということの証明になるのです。


    天慶二年(939年)7月~天慶年940年