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平将門の乱の真実:940年の平将門の謀殺と将門記の謀反の捏造


平将門の乱の真実の前提

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本サイトで「将門記」の記載で問題としているのは、「平将門の乱」といわれる部分です。
常陸国府、下野国府、上野国府の計3件の国府の襲撃と国印・正倉の鍵の強奪、放火、新皇宣言・除目の実施等が行われたとされる事件の記載、事後処理の記載です。この記載に科学的な根拠があれば、確実に養老律令における「謀反」であり、「追討」される話なのです。しかしながら、常陸、下野、上野国府の計3件の襲撃、及びその後の下野の合戦等は、以下の表示メニューのように無かったことを科学的に証明しています。なお、常陸国府襲撃前に登場する「藤原玄明」、上野国の襲撃に登場する「藤原玄茂」及び「八幡大菩薩の巫女」は、以下の証明でも記載していますが虚構であり、科学以前の問題です。また、平将門追捕の太政官符も偽造文書であったことも証明済みです。この4つの事件は、政治的に重要な事件であるにも関わらず、「貞信公記抄」にも記載されていないことも確認済みです。平将門の乱が無かった事は、平将門の冤罪の証明であり、平将門が地域において1000年にわたって英雄として扱われてきたことが正しかったということを証明しています。まず、それぞれの証明をご確認ください。


平将門の乱の真実とは何か。平将門の乱が無かったのに何故、平将門は死んだのか?

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繰り返しになりますが、「平将門の乱」という平将門が養老律令等の法律に違反して反乱を起こしたという話は、既に科学的な根拠に基づき捏造であることことは証明されています。

ここでいう、「平将門の乱の真実」というのは、常陸国府の襲撃や上野国府の襲撃の話ではありません。
将門記の「平将門の乱」が無かった事になると、以下の矛盾が発生し、辻褄が合わなくなってしまいます。

  1. 平将門は、将門記では天慶3年(940年)2月14日で、この日付も辻褄が合っていないのですが、天慶3年(940年)の2月に確実に死んでいるのです。何故、死んだのかの矛盾です。
  2. 将門記の「乱後の賞罰にも記載されていますが、源経基(武蔵国の介・平将門等の謀反疑告訴人)、藤原秀郷(下野国の2回の流罪の極悪人)、平貞盛(追捕太政官符の極悪人)に対して将門追捕の太政官官符の偽造文書に記載されている褒賞が与えられていること
  3. 源経基は、謀反疑告訴人(逮捕監禁中)であるにもかかわらず、褒賞は、天慶3年(940年)の1月であり、将門が亡くなる前に褒賞が与えられている事
  4. 平将門の頚が京に届くのが天慶3年4月25日(西暦940年6月3日)であり、死んでから二か月後(約70日)であり、死んだ証拠がないにも関わらす、藤原秀郷と平貞盛に褒賞が与えられている事、そもそも70日後の初夏に京で生首を人前にさらすということが現実的にあり得るのかという疑問
  5. 謀反疑告訴人であるにもかかわらず、褒章は、天慶3年(940年)の一月であり、将門が亡くなる前に褒章が与えられている事
  6. 藤原秀郷や平貞盛は、悪人であるのにいきなり守や介の職位、官位も貴族波なのか

そこで、現在、判明している客観的な証拠により辻褄を合わせをする証明です。疑問点は、大きく3つで、2つの年代、3つの事件で構成されます。

分かりにくいため、最初に結論を記載すると、流れは以下のようになります。

1.武蔵国の偽告訴事件は、主人公の告訴人を武蔵国介の源経基として、平将門と興世王等を「謀反の罪」で流罪にする予定だった。この手は、過去に藤原氏北家が政敵を排斥する常套手段でした。ところが、平将門側が予定外の「将門の謀反冤罪の5か国の国司の解文」を提出するという究極の手段をとってきたため、法律で朝敵を処罰する常套手段を使用できなくなってしまったという事です。

2.そこで、暗殺計画に切り替え、平貞盛、藤原秀郷、源経基を中心として、「綿密な謀り事」(将門記の乱後の賞罰に記載)を内々で計画し「謀殺」を実行したということです。

3.ところが、徐々に平将門の幽霊信仰が京でも広まったこと、褒賞を受け取った血筋が乱を起こす事態となり、平貞盛、藤原秀郷の褒賞の疑問も広がったこと、いよいよ武士の台頭が抑えられなくなり、律令制が崩壊状態に陥り、乱の捏造により武士への見せしめが必要になったということです。

これを整理すると、以下のことが起こっていたことになります。

(1)天慶2年(939年)から天慶3年(940年)~1099年頃(承徳三年頃)まで
  • ①天慶2年3月:「平将門・興世王らの謀反偽訴事件」
  • ②天慶2年6月以降:「平貞盛ら朝廷と特定協力者による裏の謀殺事件」
  • ③天慶3年2月:「平野将門の謀殺履行」
  • ④天慶3年1月以降:表向き地域の私闘処理・裏の勲功処理
(2)1099年頃(承徳三年頃)~現代まで
将門記の発行による「平将門の乱の捏造」:平将門らの謀反事件の復活」という流れです。真福寺本将門記を完成させた仮称「源信」(該当する僧が存在しない)とこの当時の藤原氏は、上記の内容を知っていたこと、及び資料や報告やまとめの文章等を所有していたことは確実なのです。それらは、律令に基づいて行われたものでは無かったため改竄、捏造、又は償却されたという事です。

結論として、言えることは、以下の通りです。

  1. 「将門記」が約160年に渡った複数の事件が混在していること、また、「将門記」を始めとする関連する資料である「扶桑略記」や「貞信公記抄」等の資料も、追加・削除等の改竄や捏造が行われており、混乱してしてる事、漢文等で記載されているため、容易に内容を把握できなかったことなどの原因で「将門記」の記載内容に騙され続けたという事です。それは、近代の政治や裁判にも通ずる事柄なのです。
  2. 本件の調査は、何故、平将門が地域で英雄であり、平貞盛は勝者であるにも関わらず、地元に痕跡が無いのかからスタートしています。地域において、寺や神社に神として祀られてきたとか、地域的に縁を結ばないとか、「桔梗」を植えないとか、明治政府は「反乱」といいつつ、当時の大蔵省の敷地に供養塔が建てられ、現在まで伝わっていることの根底には、当時の法律が守られていたかという話に行きつくということです。平将門が、当時、地域において謀反や親殺し等の律令の「八逆」(極刑:死刑・流罪)に該当するようなことを行っていた人物であったならば、有り得ない話しなのです。そのために、約160年後に「将門記」による「平将門の乱」が必要になったのです。

そこにアダム・スミスが主張したところの社会の根底又は基盤に法を守る道徳哲学があったかという問題なのです。つまり、律=刑法、令=行政法という基本法が存在し最低でも国民(政治家・官僚・一般の人)が守らないと国民の権利や自由は無い、国家は無いという話なのです。


平将門の乱の3つの疑問点

ここで言う平将門の真実とは、以下の3つの疑問点で構成される確認と証明です。

1.将門記は、何が事実で何が虚構なのか。
本サイトでは、武蔵国の源経基の平将門の偽訴事件までを事実として扱い、それ以降を後世に造られた虚構(捏造)としています。その理由は、大きく物理的にあり得ない話が多く出てくること、当時の養老律令(律=刑法 令=行政法・一部民法)における手続き制度や刑罰を全く無視している事です。また、将門記に記載されている国府の襲撃や太政官符のことが貞信公記抄に記載されていないことです。ここで、複雑となるのが偽訴事件は、事実としてあったのですが、元の告訴が将門を謀反で排斥する藤原氏の常套手段だったという話です。
2.何故、平将門は死んだのか。
平将門の乱が無かった事は、既に本サイトで客観的な証拠を基に科学的に証明しています。乱が無かったにもかかわらず、平将門は何故死んだのかです。天慶二年(939年)~天寧三年(940年)の平将門の乱は、無かったため天寧三年(940年)の将門の死は「謀殺」(計画殺人:殺人既遂)です。本来、将門を殺した人間、藤原秀郷又は藤原秀郷は、法律上は「極刑」です。なお、この2名は、本来、追捕されている犯罪者なのです。極悪の犯罪者を利用して、犯罪を取り締まるなど法治国家ではないのです。
3.将門記がいつ、何のためにつくられたのか。
平安後期に入り将門記を捏造しなければならない状況が、平安中期(1099年)頃に藤原摂関家を中心とした朝廷に存在しました。藤原氏の独裁的な貴族政治による律令制崩壊における最後足掻きで、朝廷・及び自らの保身です。

「平将門の謀反」の2つの年代:平安時代中期と後期

「平将門の謀反」ということは、2つの年代において出てくる言葉なのです。その2つとは、以下の通りです。

(1)平安時代の中期:武蔵国の介の源経基の偽訴事件
武蔵国介の源経基は、平将門や興世王を「謀反の罪」で天慶2年(940年)に朝廷に告訴しています。これは、貞信公記抄にも出てくるため、まず間違いないはずです。
(2)平安時代の公記:将門記における将門の乱の捏造記載
写本とされる真福寺本「将門記」の作成年は、約160年後の1099年で平安時代後期です。真福寺本「将門記」に、源経基の偽訴事件とは別に「平将門の乱」(将門の謀反)についての記載があるのです。まず、真福寺本「将門記」と同じ原本が940年頃(平安時代中期)に存在したということは有りえません。何故かですが、平将門の乱は無かったからです。ただし、別途、証明項目にも記載していますが、「将門記」の記載内容を確認すればわかりますが、常陸国府襲撃以降の文章を除いた文章については、何らかのまとめ及び報告書等の資料が存在したはずです。貴族側に都合が悪いため消去処分された可能性があります。

時期が異なる3つの事件の真実

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以下は、平将門の乱の真実に関する事件です。大きく3つに分かれますが、1と2は、939年~940年の事件です。2は、その間に裏で起こったという状況証拠から証明される事件です。3は、平安時代後期(1099年)頃に起こった事件です。

1.「平将門の反乱(謀反)」偽告訴事件
平将門は、武蔵国の権守興世王及び介の源経基と、郡司の武蔵武芝の争いにおいて仲介を実施しました。本件において、源経基が勘違いをして京に逃れ、興世王や平将門を謀反の罪で訴えた事件です。この事件には、平将門は無罪になりましたが、この事件には裏がありました。
2.平将門謀殺の裏計画の遂行
本件は、将門記における平将門の乱は無かった事は、証明しています。しかしながら、平将門は、確実に死んでいます。これは、貞信日記に平将門の死の知らせが届いたことが記載されています。よってこの死は法律的手段による死でないことは明確です。なお、平将門の無くなった日は、天慶3年2月14日(940年3月25日)とされていますが、これは将門記の記載によるものであり、捏造の可能性があります。何故かですが、藤原忠平の業務日誌である「貞信公記抄」に「平将門の乱」に関する記載は一切ないにも関わらす、突然、天慶3年2月25日に平将門が殺された知らせが「信濃の駅」から朝廷に届いた知らせが記載されているのです。死んだ日から駅制度の早馬で3日~4日で到着するはずであり有り得ないのです。
3.1099年の将門記の発行
この将門記は、160年後にいよいよ律令が崩壊状態になり、藤原氏貴族政治の正当性の主張のための最後の悪足掻きの手段として作成されたものです。平将門が謀反を起こした極悪人に仕立て上げなければならず、平将門の乱の部分が捏造されたという事です。

1.「平将門の反乱(謀反)」と偽告訴事件の真実

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武蔵国の興世王は、393年3月に武蔵国の権守(ごんのかみ)という、正任の国守に代わって国務を代行する重要な地位にありました。興世王と武蔵国介の源経基は、現地の足立郡司である武蔵武芝との間で対立を抱えていました。将門はその調停に入り、対立を解決しました。しかしながら、源経基は、武蔵武芝に屋敷を囲まれたという事で勘違いし、京に戻り朝廷に対して、将門や興世王らを「謀反の罪」で訴えました。将門は、先手を打って坂東5か国の国司から、将門冤罪の解文を集めて提出し無罪となり、逆に源経基が疑訴で逮捕されました。興世王は、武蔵国守として赴任した百済貞連とも対立し、最終的に任地を離れて下総の平将門のもとに身を寄せることになります。


偽訴事件の概要

以下は、藤原忠平(摂政・太政大臣)の日記の編集である「貞信公記抄」から抜粋した内容です。「貞信公記」も原本は無くしかも抜粋されたものなので削除されている内容もあるはずですが、日誌に内容は信じるに値する内容です。

(1)天慶二年.3.3/三日、源経基告言武蔵事、使左衛門督返賜昨表、被物如例、

天慶2年3月)3日、源経基(みなもとのつねもと)が武蔵国での(平将門らの不穏な)出来事を告げ申してきた。そこで、左衛門督(さえもんのかみ)を使いとして、昨日(経基から)提出された上表(報告書)を(確認のうえ)返し与え、例の通りに禄(ほうびの品物)を授けられた。

(2)天慶二年.6.9/九日、大納言来令見可禁告人忠明勘文、即示可令禁経基左衛門府事、諸興最茂等可為押領使、但以五位充例可勘、又推問使官符可令早仰事、

天慶二年(九百三十九年)六月九日、大納言(藤原宗縄か)がやって来て、朝廷の命令として、藤原忠明の勘文(弁明書・意見書)に基づいて源経基を左衛門府に拘禁するよう告げた。また、諸興・最茂らを押領使に任命すべきこと、ただし五位を任じる例にならって(官位相当を)調査すべきこと、さらに事件を推問する使者の官符(官文書)を速やかに発給するよう命じることであった。

(3)天慶二年.6.28/廿八日、宣旨給相弁、又下経基告状、外記勘申祈雨例、暫付相弁、

天慶二年年6月)28日、宣旨(天皇の命令が記された文書)を相弁(すけのべん/※官職名)に与えた。また、(3月に)源経基が提出した告状(密告・告発の書状)を(実務部署へ)下した。外記(げき/※朝廷の書記官)は雨乞いの儀式に関する過去の先例を勘申(かんじん/※調査して報告)した。これら(の書類など)を、ひとまず相弁に委ねた。

(4)天慶三年.1.9/九日、俊除官位、良臣広遠解官、経基叙従五位下、又於保月矢叙外従五位下、

天慶3年(940年)1月9日、藤原俊連が官位を授かり、平良臣と藤原広遠が官職を解かれ、源経基が従五位下に叙され、また大月矢が外従五位下に叙された。


養老律令の「謀反」と謀反の告訴の真実

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養老律令の「律」(刑法)において、「謀反(むへん)」とは国家の最高権力者である天皇を殺害しようとしたり、国家体制そのものを転覆・破壊しようとしたりする最悪の反逆罪を指します。「謀反」の罪は、以下のようになっており、案外容易に罰することができました。

  • 近世以降の「主君への裏切り(むほん)」とは異なり、律令法における謀反は国家の根幹を揺るがす大罪であり、最も重い八つの罪である「八虐(はちぎゃく)」の筆頭に位置づけられていました。
  • この謀反の最大の特徴は、実際に兵を挙げるなどの実行に移していなくても、計画を立てた(陰謀・予備)段階で犯罪が完全に成立したという点です。 これを律の規定で「謀(ぼう)」の段階での処罰と呼びます。たとえ具体的な行動を起こす前であっても、国家転覆の意志を持って複数人で密謀したり、計画を練ったりしたことが発覚した時点で、実行に移したのと同等の重罪とみなされました。
  • この極めて厳しい規定は、天皇の絶対的な権威を守り、国家を揺るがす危機を未然に防ぐ(芽のうちに摘み取る)ことを目的としていました。そのため、計画に加わった首謀者は例外なく最高刑である流罪・死刑(斬刑)に処され、その家族や親族までもが連座して処罰されるなど、強力な抑止力として機能していました。

ここからの話の流れが重要です。

第一:謀反で処罰される可能性があった!
まず、武蔵国の介の源経基が京に逃げ帰った話は藤原忠平の所にもすぐに届いたはずです。源経基が謀反の話を勘違いで言ったかどうかは別として、武蔵国権守の興世王と足立郡司の武蔵武芝が手を組んでそれを平将門が協力して、武蔵国の介を襲っというような告訴状の内容であったならばで罪を逃れられなかった可能性があります。朝廷の藤原氏の意図は、過去に行ってきた敵対勢力(正統な貴族等邪魔な存在)を抹殺する上等手段は、「流罪」でした。死刑は、呪いとうを恐れたこと、世間のイメージも悪いことによりにより「流罪」なのですが、実質は死刑と同じでした。俸禄を与えない、食事も与えない、監視も付け外出もできないというような環境において病気で亡くなるか、毒殺するというような話なのです。菅原道真は、大宰府に配流になったのですが実質は、死刑と同じ待遇だったのです。
第二:将門側の反証・5か国の国司の解文
しかしながら、平将門は先手を打って国府5か国の謀反冤罪の解文を用意し朝廷に提出したため無罪となりました。これに勝る冤罪証明はなく、これは、藤原氏側も想定していなかった話でした。、一旦、朝廷は、謀反は無かったことにして、疑訴として源経基を左衛門府に拘禁(逮捕)したのです。これは、平将門が法律の専門家であった証明でもありますが、ここで平将門は蔵人所及び弁官局の

実は、平将門が15歳で京に出て、最も信頼した人物は、蔵人所・弁官局の超エリートだっと源相職だったのです。源相職は、年は3歳上でしたが、「滝口の武士」は蔵人所の所属だったのです。蔵人所や弁官局は、朝廷の中でも超エリートの配属場所で最も法律を理解している部署だったのです。平将門は、検非違使の幹部をめざして必死に法律を学んだのです。将門が、検非違使になるのをあきらめたのは、成功(じょうこう:賄賂)制度の壁でお金を積まないとなれないことを悟ったからです。将門は、12年間「滝口の武士」を務めましたがその間、蔵人所で源相職と立場は違えど、修業時代を切磋琢磨した中だったのです。155年後の将門追捕の太政官符の弁官名は、源相職の署名が入っています。155年後に悪用されたされたのです。平将門と源相職の関係の証明は、追捕の太政官符のページでご覧いただけます。
第三:その後・平将門は無罪、源経基は逮捕
しかしなから、何らの刑罰は与えられないままでした。将門記及び貞信公記抄には、刑罰を下した記載が有りません。
第四:天慶三年の1月9日に源経基に従五位下の勲功
天慶三年の1月9日の貞心公記抄には、従五位下にしているのです。この記載は、改ざんミスとも考えられますが、源経基が裏の計画に関わっていることを示しています。ただし、この勲功は、そもそも、国府の襲撃や追捕の官符が明確に無かった事が証明されている事、及び、この時点で平将門は生きていることによって、天慶三年の1月9日の貞心公記抄の記載が改竄と考えられます。

藤原忠平を中心とする朝廷賄賂政治関係者は、平将門を極刑にする予定でした。武蔵国の介の源経基の「平将門の謀反」の訴えは、源経基自身が考えたものでは無かったという話です。実際に、源の経基は、平将門の訴状によって逮捕されていますが、何らの実刑が下されていません。いずれにしても、藤原忠平は、平将門には、地域において法律でも勝てない、武力でも勝てない、地域における経済力でも勝てない、地域の信用力でも勝てないことを思い知ったのです。貞盛の提案があったかどうかは別として、このまま放置すると、国司の成功(じょうおう)制度や、受領等が成立しなくなり集金制度が機能しなくなるため、暗殺計画の支持をしたという事です。既に平貞盛は、度重なる戦いや、裁判でも追捕される立場にあり、何でも引き受けたという事です。その条件として、協力者には犯罪の免除、官位・官職の保証という条件を太政大臣の藤原忠平から内密文書として引き出したとと考えられます。


2.平将門謀殺の裏計画の遂行

まず、謀殺計画があったこと、平将門が天慶三年二月に亡くなったのは事実のはずです。実際にいつ亡くなったのかは定かではありません。 これは、何を意味しているかですが、平将門の乱(養老律の謀反)ではなく、裏に「平将門の謀殺」計画が遂行されていたという事です。将門記の乱後の賞罰の文章には、以下のようなきさいがあります。

(1)謀殺計画の証明1:貞信公記抄の940年の旧暦2月25日の日誌の謀殺履行の知らせ

天慶三年二月二十五日、辛酉(かのととり)。左大臣が参内された。藤原慶幸が兵士を率いて山崎の関へ向かった。臨時に仁王会(仏事)が行われたが、僧侶への布施はなかった。信濃国からの早馬(飛駅)が到着し、平将門が平貞盛と藤原秀郷の軍勢によって射殺されたという詳細な状況を言上した。

貞信公記抄には、常陸国府、下野国府、上野国府の襲撃の記載はありません。また、太政官符の発符の記載も無いのです。にもかかわらず、平将門が死んだ報告だけが、藤原忠平の日誌に出てくるというのはありえないのです。これは、何を意味しているかですが、平将門の乱(養老律の謀反)ではなく、裏に「平将門の謀殺」計画が遂行されていたという事です。実際に裏計画の日誌があった可能性があることを、別途、証明することはできるのですが、養老律の謀反が無かった事に変わりはありません。
(2)謀殺計画の証明2:将門記(1099年)の戦後処理の「乱後の賞罰」

「その際、武蔵介源経基、常陸大掾平野貞盛、下野の押領使藤原秀郷たには勲功、武勇が無いはずもなく、・・・・。そこで、去る三月9日の奏に、中務省が「郡将らは謀りごとをよく巡らせて(朝廷への)忠節を(尽くした)と述べた。」

上記は、将門記の乱後の賞罰の文章です。将門記には、武蔵介源経基が平将門の乱において何かの貢献をしたことは全く記載されていません。また、武蔵国の平将門らの謀反の偽訴事件において逮捕されたはずの武蔵介源経基が無題になったという記載は、いずれの書類にもありません。であるにもかかわらず、真福寺本将門記を記載した仮称「源信」は、裏の謀殺計画を誤って記載して誤って記載してしまったということです。謀反による追捕の場合には、合戦であり、「追捕」、「追討」なおであり、「謀りごとをよく巡らせて」などと記載するはずがない。去る三月9日の奏という話も、次の「貞信公記抄」のように2回与えたことになってしまう為、辻褄が合っていない。

貞信公記の平将門が亡くなった朝廷への連絡

平将門の乱(国府の襲撃~将門の死亡日)までの貞信公記の日記は存在しません。しかしながら、貞信公記には、いきなり、天慶三年二月二十五日の日記に、平将門が亡くなったことが記載されています。この日記には、亡くなった日が記載されていません。 【現代語訳】


3.将門記が何故発行されたのか

1. 崩壊する「律令体制」の権威を維持するため


1. 崩壊する「律令体制」の権威を維持するため

当時、中央集権的な律令制は実質的に機能しなくなっており、地方政治は「受領(国司)」への丸投げ状態でした。 もし「地方の有力武士(将門)が、国司の悪政や不条理を法的に正当に訴え、中央をしのぐ支持を得てしまった」という事実が広まれば、朝廷の地方支配の正当性は完全に失墜します。 そのため、「将門の行動は正当な抵抗ではなく、国家転覆を狙った最悪の罪(謀反)である」という強引な大義名分(太政官符など)を作り出す必要がありました。


2. 討伐の「大義名分」と恩賞の正当化

 将門は、時の最高権力者である藤原忠平の元従者(検非違使の経験者)であり、本来は朝廷の法に忠実な人物でした。また、武蔵国司との裁判にも一度勝訴しています。 このような人物を、朝廷独自の私兵(他国の武士)を使って武力鎮圧するためには、「新皇を自称した国家の敵」という絶対的な大罪人にする必要がありました。そうしなければ、討伐に動員した地方豪族(平貞盛や藤原秀郷など)に与える「官位」や「土地」といった恩賞の正当性が担保できなかったためです。


4.養老律令の「謀反」:平将門を当初の予定の謀反の犯罪者とする状況になった!

養老律令の「律」(刑法)において、「謀反(むへん)」とは国家の最高権力者である天皇を殺害しようとしたり、国家体制そのものを転覆・破壊しようとしたりする最悪の反逆罪を指します。「謀反」の罪は、以下のようになっており、案外容易に罰することができました。

  • 近世以降の「主君への裏切り(むほん)」とは異なり、律令法における謀反は国家の根幹を揺るがす大罪であり、最も重い八つの罪である「八虐(はちぎゃく)」の筆頭に位置づけられていました。
  • この謀反の最大の特徴は、実際に兵を挙げるなどの実行に移していなくても、計画を立てた(陰謀・予備)段階で犯罪が完全に成立したという点です。 これを律の規定で「謀(ぼう)」の段階での処罰と呼びます。たとえ具体的な行動を起こす前であっても、国家転覆の意志を持って複数人で密謀したり、計画を練ったりしたことが発覚した時点で、実行に移したのと同等の重罪とみなされました。
  • この極めて厳しい規定は、天皇の絶対的な権威を守り、国家を揺るがす危機を未然に防ぐ(芽のうちに摘み取る)ことを目的としていました。そのため、計画に加わった首謀者は例外なく最高刑である死刑(斬刑)に処され、その家族や親族までもが連座して処罰されるなど、強力な抑止力として機能していました。

3.武蔵国の偽訴告訴事件は、藤原氏の朝敵の平将門等の乱の計画だった!

ここからの話の流れが重要です。

第一:謀反で処罰される可能性があった!
まず、武蔵国の介の源経基が京に逃げ帰った話は藤原忠平の所にもすぐに届いたはずです。源経基が謀反の話を勘違いで言ったかどうかは別として、武蔵国権守の興世王と足立郡司の武蔵武芝が手を組んでそれを平将門が協力して、武蔵国の介を襲っというような告訴状の内容であったならばで罪を逃れられなかった可能性があります。朝廷の藤原氏の意図は、過去に行ってきた敵対勢力(正統な貴族等邪魔な存在)を抹殺する上等手段は、「流罪」でした。死刑は、呪いとうを恐れたこと、世間のイメージも悪いことによりにより「流罪」なのですが、実質は死刑と同じでした。俸禄を与えない、食事も与えない、監視も付け外出もできないというような環境において病気で亡くなるか、毒殺するというような話なのです。
第二:将門側の反証・5か国の国司の解文
しかしながら、平将門は先手を打って国府5か国の謀反冤罪の解文を用意し朝廷に提出したため無罪となりました。これに勝る冤罪証明はなく、これは、藤原氏側も想定していなかった話でした。、一旦、朝廷は、謀反は無かったことにして、疑訴として源経基を左衛門府に拘禁(逮捕)したのです。これは、平将門が法律の専門家であった証明でもありますが、ここで平将門は蔵人所及び弁官局の
第三:その後・平将門は無罪、源経基は逮捕
しかしなから、何らの刑罰は与えられないままでした。将門記及び貞信公記抄には、刑罰を下した記載場有りません。
第四:天慶三年の1月9日に源経基に従五位下の勲功
天慶三年の1月9日の貞心公記抄には、従五位下にしているのです。この記載は、改ざんミスとも考えられますが、源経基が裏の計画に関わっていることを示しています。ただし、この勲功は、そもそも、国府の襲撃や追捕の官符が明確に無かった事が証明されている事、及び、この時点で平将門は生きていることによって、天慶三年の1月9日の貞心公記抄の記載が改竄と考えられます。

藤原忠平を中心とする朝廷賄賂政治関係者は、平将門を極刑にする予定でした。武蔵国の介の源経基の「平将門の謀反」の訴えは、源経基自身が考えたものでは無かったという話です。実際に、源の経基は、平将門の訴状によって逮捕されていますが、何らの実刑が下されていません。いずれにしても、藤原忠平は、平将門には、地域において法律でも勝てない、武力でも勝てない、地域における経済力でも勝てない、地域の信用力でも勝てないことを思い知ったのです。貞盛の提案があったかどうかは別として、このまま放置すると、国司の成功(じょうおう)制度や、受領等が成立しなくなり集金制度が機能しなくなるため、暗殺計画の支持をしたという事です。既に平貞盛は、度重なる戦いや、裁判でも追捕される立場にあり、何でも引き受けたという事です。その条件として、協力者には犯罪の免除、官位・官職の保証という条件を太政大臣の藤原忠平から内密文書として引き出したとと考えられます。


平将門の乱の3つの時代の流れ

ここでの話は、平将門の乱がなかった証明に基づいています。平将門の乱が無かったにもかかわらず、何故、平将門は天慶3年(940年)に死んだのかという話です。そこで、現在、判明している客観的な証拠により辻褄を合わせをする証明です。疑問点は、大きく3つで、2つの年代、3つの事件で構成されます。分かりにくいため、最初に結論を記載すると、流れは以下のようになります。

  1. 武蔵国の事件において、主人公の告訴人を武蔵国介の源経基として、平将門と興世王等を「謀反の罪」で流罪にする予定だった。この手は、過去に藤原氏が政敵を排斥する常套手段でした。

  2. 平将門側が予定外の、将門の謀反冤罪の5か国の国司の解文を提出するという究極の手段をとってきたため、法律で処罰することは、常套手段を使用できなくなってしまったという事です。

  3. そこで、暗殺計画に切り替え、平貞盛、藤原秀郷、源経基を中心として、「綿密な謀り事」を内々で計画し「謀殺」を実行たということです。これを整理すると、以下のことが起こっていたことになります。

    (1)天慶2年(939年)から天慶3年(940年)~1099年頃(承徳三年頃)まで

    1. 天慶2年3月:「平将門・興世王らの謀反疑告事件」
    2. 天慶2年6月以降:「朝廷と特定協力者による裏の謀殺事件」
    3. 天慶2年2月:「平将門の謀殺履行」
    4. 表向き地域の私闘処理・裏の勲功処理

    (2)1099年頃(承徳三年頃)~現代まで将門記の発行による「平将門の乱の捏造]

    平将門らの謀反事件の復活」という流れです。真福寺本将門記を完成させて仮称「源信」とこの当時の藤原氏は、上記の内容知っていたこと、及び資料や報告やまとめの文章等を所有していたことは確実でなのです。それらは、律令に基づいて行われたものでは無かったため改竄、又は償却されたという事です。

    結論として言えることは、現在まで「将門記」の記載内容に騙され続けたというという理由は、複数の資料が異なる内容で存在し、時代が曖昧であり、大掛かりな改ざんや捏造、闇の計画が存在したためです。以下のような要因で真実を容易に把握できなかったということです。

    • 「将門記」が約160年に渡った複数の事件が混在していること、そこに真実と虚偽が複数混在していたこと
    • 「将門記」をはじめとして、関連する資料である「扶桑略記」や「貞信公記抄」等の多数の資料が存在し、原本がない物がほとんどであり、時代も異なり、追加・削除等の改竄、捏造もあり、同じ文章でも、資料によって記載無いことが異なることがあり、資料が混乱してしてること、容易にクロスチェックができないこと
    • メインは軍記物語として扱われているため、架空人物、物理的に不可能なことや、宗教や祈祷や幽霊信仰等科学的解釈ができない背景があったこと
    • 平安時代から現在まで時代の政治体制によって評価が異なる事、特に平安時代と明治時代の政治体制における評価の影響が大きかったと思われること
    • <li>平将門の評価が大きく東西で異なった事、特に将門が領主として活躍した下総国の評価が他の地域と大きく異なっていたこと、平将門の天才的な地域管理は記録として無く、地元の歴史の中にあった事

    • 資料は、漢文等で記載されているため、庶民や他分野の社会科学者でも容易に内容を把握できなかったこと、現在語訳でも歴史ものがたりとし読んだ場合、疑問は持たない事。

これらは、近代の政治や裁判もふくめて影響を与えてる事柄なのです。本件の調査は、何故、平将門が地域で英雄であり、平貞盛は勝者であるにも関わらず、地元に痕跡が無いのかからスタートしています。地域において、寺や神社に神として祀られてきたとか、地域的に縁を結ばないとか、「桔梗」を植えないとか、明治政府は「反乱」といいつつ、当時の大蔵省の敷地に供養碑が建てられ、現在まで伝わっていることの根底には、当時の法律が守られていたか、人権があり自由があったかという話に行きつくということです。平将門が、当時、地域において謀反や親殺し等の律令の「八逆」(極刑:死刑・流罪)に該当するようなことを行っていた人物であったならば、1千年も悪者扱いされることは有り得ない話しなのです。そのために、時の貴族政治は約160年後に「将門記」による「平将門の乱」が必要になったのです。それぞれの時代にアダムスミスが言ったところの社会の根底又は基盤に法を守る道徳哲学があったかが問題になるのです。つまり、律=刑法、令=行政法という基本法を最低でも国民(政治家・官僚・一般の人)が守らないと自由もない権利も無い、そして国家が成立しないという話なのです。


平将門謀殺計画の実行関係者と可能性について

平貞盛は、将門の所業を朝廷に対する脅威であることを訴え続け、藤原忠平も条件の「破格の恩賞(刑の免除、官位・官職の付与の役職)」等も了承し、将門の暗殺を指示したと考えられます。また、その計画は、藤原忠平の朝廷と地方の賄賂ネットワーク、及び縁戚関係で概ね誰が関わったか推定できます。また、偽造文書である「平将門追捕の太政太政官符」の褒賞の内容と、実際に平将門を死んで誰が褒賞を得たかで証明されます。

以下のネットワークを利用して、綿密な計画及び付の交渉を行えば平将門を暗殺することは容易であったはずです。この交渉に捏造の太政官府があった可能性もあります。

  1. 平貞盛(国香の子:以下の全関係者と繋がり):国香の仇討ちであったが、当初、仕方がなかったと考え、積極的ではなかったが叔父等の誘いがあり、打倒将門に加わり中心となっています。
  2. 太政大臣・藤原忠平(京の貞盛の元主人):貞盛の出世は、「成功」と考えられ連絡を取れる関係にあった。平安時代の賄賂政治の中心人物です。本来、律令や儒教を習得している人物、道徳哲学者であったならば、平将門を活用していたはずです。
  3. 常陸国介:藤原維幾(貞盛の叔母の夫):藤原玄明は、約160年後の将門記の虚構であり、藤原維幾は、平将門の武蔵国での謀反の訴えに対して将門の冤罪解文を出していることから、必ずしも敵対的な関係にあったとは言えない。将門を罠にはめることは出きたはずです。
  4. 常陸大掾:源護(貞盛の母の父):野方の戦いにおいて、子の3人が平将門の合戦において死んでいるため将門は、子の仇討ちである。
  5. 平良正(貞盛の叔父・妻の父が玄茂):源護、貞盛の味方で当初より、将門のメインの私闘相手である。
  6. 平良文(貞盛の叔父:将門の味方説):将門記では、当初味方側であったが、他の文献に裏切り説有り。将門の勢力配置、行動、宿営情報を流すだけでも有効です。将門の死後、下総国の介(長官)になっているため可能性は大です。
  7. 藤原秀郷(貞盛の従兄:貞盛の二人目の母の実家説):桔梗の前の秀郷の姉説)卑怯な手を使っても将門の頚を撮れた人物です。
  8. 桔梗の前(将門の妾):秀郷の姉説、秀郷側無い通説等あり、桔梗の前の屋敷に夜に来ていることを知らせるだけでも容易に首を取れたはずです。

平将門の謀殺に特に重要な人物

将門記における「平将門の乱」が無かった事が証明されると藤原秀郷もいないことになってしまいます。また、源経基の存在も問題になることはないのですが、将門記には、藤原秀郷、及び何故か「平将門の乱」に関係ない「源経基」及び「藤原秀郷」の褒章の事が記載されています。また、褒章の件は、貞信公記抄にも記載されているのす。3名は、確実に裏の謀殺計画に関わって人物であることの証明です。

本ページは、現在、証拠も分析中で以下は、編集の途中です。客観的な事実に基づき記載しますので今しばらくお待ちください。


1.武蔵国の介の源経基

太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)武蔵介として現地に赴任しました。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施しました。慣例に無いこととして足立郡司で判代官の武蔵武芝が検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行い騒動となりました。平将門が仲裁役をかってでたのですが、経基が勘違いして京に逃げ、平将門や武蔵権守らを「謀反の罪」で朝廷に訴えたという事件です。


2.下野国の豪族の藤原秀郷

太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)武蔵介として現地に赴任しました。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施しました。慣例に無いこととして足立郡司で判代官の武蔵武芝が検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行い騒動となりました。平将門が仲裁役をかってでたのですが、経基が勘違いして京に逃げ、平将門や武蔵権守らを「謀反の罪」で朝廷に訴えたという事件です。
ウィキペディアの藤原秀郷の説明では、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。また、延長7年(929年)には、乱行の罪で下野国府より追討官符を出されているとされている人物です。この記載から判断されることは、武力を基に逃走していた朝敵であり、極悪人です。また、平貞盛は、藤原秀郷の甥ともされています。また、平将門が溺愛したという妾の「桔梗姫」は藤原秀郷の姉という話もあります。地域には、「桔梗姫」を裏切者として桔梗を植えないという話もあります。