アダム・スミスとは:道徳感情論と国富論について
- アダム・スミスとは
- 道徳感情論
- アダム・スミスの国富論
- 見えざる手と自由放任
- 国富論で反対した制度
- 国富論の納税制度
- 道徳感情論・法律講義・国富論
- 社会科学体系の「法律の役割」
- アダム・スミスの理論チェック方法
- スミスの年代別業績
- 国富論の国家の役割
- スミスの多彩な学問の知識
- ジェームス・ワットとの出会い
- 知的冒険の敵視
- 平将門とは
- 平将門の乱
- 平将門の「人物像」と地域貢献
- 戦いの時代背景について
- 家系図と一族争いの関係図
- 平将門ゆかりの地
アダム・スミスとは:哲学者・経済学の父:道徳感情論・国富論の著者
アダム・スミスの道徳感情論の概要
道徳感情論の要点1:道徳の起点 「共感(Empathy)」と「同感(Sympathy)」
要点2:社会という鏡と「公平な観察者(Impartial Spectator)」の誕生
要点3:「賞賛に値すること(Praiseworthiness)」の追求
要点4:功罪の感覚と「正義」の法制化
要点5: 「自然の欺瞞」と経済発展への原動力
〇『国富論』の前提としての道徳感情論
アダム・スミスの国富論の概要
1.『国富論』が目指したもの:本当の「国の富」とは何か
2. 国の富を増やす「2つのエンジン」
3.3.「見えざる手(Invisible Hand)」と自由放任主義
4. 政府が果たすべき「3つの役割」(安価な政府)
国富論でアダム・スミスが反対した制度等:戦争・植民地制度・貴族制度・保護貿易
1.戦争について:反対・批判的
2.植民地制度について:反対・放棄論
保護貿易:市場を歪める重商主義の罠
4. 貴族制度について:皮肉と批判
アダムスミスは国富論で税金・税制とどのように考えたか
アダム・スミスの「国富論」における税金と税制の考え
アダム・スミスが考えた「望ましい税金」
アダム・スミスが構想した「3部作」の道徳哲学体系の全体像
なぜ「3部作」として捉える必要があるのか?
アダム・スミスの国家論・社会科学体系における「法律の役割」
『法学講義』だけにおいて記載されていること
アダム・スミスの道徳感情論と法律講義、国富論から国家や社会が見える!
アダム・スミス年代別に見る業績とキャリアの歩み
アダム・スミスの生涯は、人間の心理(道徳)からスタートし、社会の仕組み(経済・国家)へと視野を広げ、最後に再び人間のあり方(道徳の完成)へと戻っていく、美しい循環を描いています。
1. 青年期:インプットと不満の時代(1723年〜1746年 / 0歳〜23歳)
- 1723年: スコットランドのキルカルディで誕生。
- 1737年 (14歳): グラスゴー大学に入学。恩師フランシス・ハチソンから「人間の本性」や「自由の尊さ」を学ぶ。
- 1740年 (17歳): 奨学生としてオックスフォード大学へ進学。しかし、既述の通り教授陣の怠慢に失望し、図書館に引きこもって独学で古今東西の書物を読み漁る。これが後の膨大な知識の土台となる。
- 1746年 (23歳): 同大学を中退。
2. 壮年期:『道徳感情論』の誕生と国際的視野(1748年〜1766年 / 25歳〜43歳)
3. 成熟期:『国富論』による国家論の確立(1766年〜1776年 / 43歳〜53歳)
- 1766年 (43歳): 帰国後、故郷キルカルディに引きこもり、公爵からの年金で生活しながら『国富論』の執筆に没頭する。
- 1776年 (53歳): 『国富論』を出版。
【業績の意味】特権階級や国家が経済をコントロール(重商主義)するのではなく、個人の自由な経済活動に任せることで、結果として「見えざる手」によって国全体が豊かになる、という「国家体制と経済」のメカニズムを証明した。
4. 晩年期:国家の実務と「思想の完成」(1778年〜1790年 / 55歳〜67歳)
- 1778年 (55歳): スコットランド税関委員に就任。自らの経済理論を実際の国家行政(税関業務)に照らし合わせる実務の日々を送る。
- 1787年 (64歳): グラスゴー大学の学長(名誉総長)に就任。
- 1790年 (67歳):『道徳感情論』(第6版・完成版)を出版。
【業績の意味】『国富論』で自由な市場経済を肯定したスミスが、最晩年に「富への盲目的な野心がもたらす社会の退廃」に警鐘を鳴らす章を大幅に加筆。経済的に豊かになった国家において、個人がどう徳を持って生きるべきかという、生涯の思想を「完成」させた。同年、エディンバラで死去。
1. ローマ法・法理学(Jurisprudence)から学んだこと
2. 農業・重農主義から学んだこと
スミスは『国富論』の中で、農業を国家の基盤として極めて高く評価しています。
- フランスでの交流(重農主義): バクルー公爵の家庭教師としてフランスに滞在した際、スミスはルイ15世の宮廷医であり経済学者でもあったフランソワ・ケネーと深く交流しました。ケネーは「富の源泉は金銀ではなく、農業(土地)が生産する剰余である」と説く「重農主義」の祖でした。
- 学んだことと業績への影響: スミスはケネーの「経済は生体(人間の身体)のように血液(貨幣や財)が循環するものだ」というシステム論に衝撃を受けました。スミスは重農主義から「富の本質は農産物や工業製品といった『毎年の労働生産物(現代のGDPの概念)』である」という心理を学び取り、のちに『国富論』で重商主義(金銀の蓄積を重視する古い政策)を完全に論破する武器としました。
3. 医学・人体(生理学)への関心とアプローチ
直接的な医学研究の論文こそ残していませんが、スミスは当時の医学・生理学の進歩から膨大なインスピレーションを得ていました。
- 交流と視点: 前述のケネーが「医師」であったことに加え、当時のスコットランドはヨーロッパの医学の最先端でした。スミスは、人間の身体が意識して心臓を動かさなくても自律的に機能していることに着目しました。
- 学んだことと業績への影響: この「解剖学・生理学的アプローチ」が、経済学における「見えざる手(市場の自律的な調整機能)」のアイデアに直結しています。国家(政治権力)という「外科医」が無理に市場を手術(介入)しなくても、社会という「肉体」には自己治癒力や自律的な循環システム(神の手、見えざる手)が備わっている、という国家論の真理は、医学的な生命観から導かれたものでした。
4. 科学・天文学・科学史の研究
スミスは、ニュートン物理学などの自然科学にも深い造詣がありました。彼の死後、遺稿集『哲学論文集』として出版された『天文学史』は、専門の科学者からも高く評価されています。
- 学んだことと業績への影響: スミスはアイザック・ニュートンの「万有引力の法則」に強い影響を受けました。ニュートンが「重力」という一つの見えない力で宇宙の天体運行をすべて説明したように、スミスは「人間社会の運行」を説明する共通の原理を探しました。 その結果、道徳の世界を動かす引力を「共感(シンパシー)」、経済の世界を動かす引力を「利己心(交換傾向)」として定義し、社会科学におけるニュートンになろうとしたのです。
5. 技術革新の象徴「ジェームズ・ワット」との濃密な交流
歴史上最も劇的なイノベーションの一つである「蒸気機関の改良」。その生みの親であるジェームズ・ワットとアダム・スミスは、まさに同じ時期に同じ場所(グラスゴー大学)で寝食を共にするような関係にありました。
- 交流の背景(グラスゴー大学の絆): ワットは当時、職人のギルド(組合)からの嫌がらせで町での開業を拒否されていました。これを見かねたグラスゴー大学の教授会(スミスも在籍)が、ワットを「大学お抱えの器械製造職人」として雇い、大学内に作業場を提供して保護したのです。スミスとワットはキャンパス内で日常的に議論を交わしていました。
- スミスがワットから見た「真理」: スミスはワットの作業場を訪れ、彼が精密な器具を組み立てる様子や、蒸気機関の効率を劇的に高める「分離凝縮器」を開発するプロセスを目の当たりにしました。ここでスミスが確信したのは以下の2点です。
①組合(ギルド)や国家の規制の愚かさ ②才能あるワットの足を引っ張る特権組合の横暴を見て、市場の自由(自由放任)の必要性を痛感した。 - 分業の圧倒的パワー: 職人の技術が細分化され、それぞれが専門特化(分業)することで、爆発的な生産性と技術革新が生まれるという確信。これが『国富論』の第1章「分業について」のピン工場の例えや、産業革命を予見する描写へと結実しました。
ジェームズ・ワットとアダム・スミス
1. ジェームズ・ワットは「学生」か「科学者」か?
結論から言うと、ワットは学生でも科学者でもなく、「大学お抱えの、きわめて優秀な『技術職人(器械製造業者)』」でした。 当時のイギリスの学歴社会や科学界の基準から見ると、彼の立場は以下のようなものでした。
- 学生ではなかった: ワットは家計が苦しかったため大学には進学せず、18歳でロンドンへ行き、数学器械(コンパスや形を測る定規など)の製造職人に弟子入りして技術を学びました。
- 科学者(学者)でもなかった: 当時は大学で数式をいじる人が「科学者(自然哲学者)」と呼ばれており、手仕事をするワットは「職人」と見なされていました。しかし、彼の科学的探究心は一流の学者以上でした。グラスゴー大学の化学教授であったジョゼフ・ブラック(「潜熱」を発見した偉大な化学者)と共同で実験を行うなど、実質的には「科学の知識を完全にマスターした天才技術者」でした。
2. 蒸気機関を「いつ」「どこで」開発したのか
ワットが蒸気機関の歴史的イノベーション(分離凝縮器の発明)に成功したのは、「1765年5月」、場所は「グラスゴー」です。 ストーリーの詳細は以下の通りです。
- きっかけ(1763〜1764年): グラスゴー大学が授業で使っていた「ニューコメン式蒸気機関」という古いタイプの模型が故障し、大学側が「器械職人」であるワットに修理を依頼しました。
- 問題の発見: ワットは修理する中で、「この機械は動くたびにシリンダー全体を冷やして、また温めている。エネルギーの大部分(約4分の3)が無駄に捨てられている!」という致命的な欠陥に気づきました。
- ひらめきと開発(1765年5月)ある日、グラスゴーの公園を散歩していたワットは、「蒸気を冷やす部屋(凝縮器)を、シリンダーとは別に外に作ればいいんだ!」というアイデアをひらめきました(分離凝縮器の発明)。これにより、エネルギー効率を約4倍に跳ね上げることに成功したのです。
この開発を行っていたまさにその場所が、アダム・スミスも毎日歩いていたグラスゴー大学のキャンパス内でした。
3. アダム・スミスは「イノベーション」や「創造的破壊」を知っていたのか?
「創造的破壊(古い産業が新しい技術によって壊され、社会が発展すること)」という言葉自体は、20世紀の経済学者シュンペーターが作ったものですが、アダム・スミスはその本質を完璧に理解し、目撃していました。スミスがワットの技術革新や現場から見抜いていた「イノベーションの本質」は、以下の3つのポイントに要約されます。
- ①分業が「新しい機械(イノベーション)」を生む:
『国富論』の第1章で、スミスは「分業が進むと、作業を楽にするための新しい機械が発明されやすくなる」と書いています。作業を細かく分けると、職人はその一つの作業に集中するため、「どうすればもっと楽に、早くできるか」を必死に考え始めます。スミスは、ワットのように現場で手と頭を動かす人間こそが、国家を豊かにする新しい技術(イノベーション)を生み出すのだと確信していました。 - ②規制はイノベーションを「破壊」する(スミスの怒り):
ワットがグラスゴーの街で店を開こうとした際、中世から続く古い職人組合(ギルド)が「お前は正式な修業期間を満たしていない」と言って、営業を禁止しました。特権を守りたい古い勢力が、新しい才能を潰そうとしたのです。 これに憤慨したスミスは、大学の権限を使ってワットを構内に匿いました。スミスは、「国家や組合が作った古い規制や特権こそが、新しいイノベーションの芽を摘む最大の悪である」という真理を、ワットの事件から骨身に染みて学びました。これが『国富論』の「自由放任(政府は余計な口を出すな)」の思想に直結しています。 - ③社会がダイナミックに生まれ変わる予見:
スミスは、ワットの蒸気機関が単に「鉱山で水を汲み上げるポンプ」に留まらず、あらゆる工場、交通(のちの蒸気機関車や船)を変え、古い手工業を塗り替えていく未来(産業革命の予兆)を肌で感じていました。人間が自由に利益を追い求め、技術を競い合う市場(しじょう)さえあれば、古い非効率なシステムは自然と淘汰され、より新しく豊かな社会へと強制的にアップデートされていく。これこそが、スミスの言う「見えざる手」がもたらす、社会のダイナミックな進化(創造的破壊)の本質でした。
1776年:高効率な実用蒸気機関が完成(鉱山の排水などに利用開始 1790年
アダム・スミスの知的経験と真理探究の生涯
【10代:基礎形成】 1737年 グラスゴー大学(ハチソンから道徳・自由を学ぶ)
【20代前半:独学】 1740年 オックスフォード大学(ローマ法・科学史を自習)
【20代後半:台頭】 1748年 エディンバラ公開講義(ヒュームとの運命の出会い)
【30代:最高環境】 1751年 グラスゴー大学教授(ワットを保護、道徳感情論の出版)
【40代:国際視点】 1764年 渡欧(ヴォルテール、ケネーら医学・重農主義との交流)
【50代:真理の結晶】1776年 『国富論』出版(近代経済学・国家論の誕生)
【60代:思想の完成】1790年 『道徳感情論』最終改訂(学長就任、国家論の真理へ)
1. 少年・青年期(1723〜1740年:14〜17歳)
2. オックスフォード大学時代(1740〜1746年:17〜23歳)
【テーマ】大学への失望、図書館での「ローマ法」と「科学史」の血肉化
前述の通り、大学の講義自体は悲惨なほど怠慢でしたが、スミスはこの6年間を「膨大な独学の時間」に変えました。ベリオル・カレッジの図書館に引きこもり、古今東西の書物を読み漁ります。
学んだ学問
- ローマ法・民法: 財産権や契約など、国家の土台となる法秩序の歴史を研究。
- 天文学・物理学(ニュートン科学): ニュートンの自然科学の体系に衝撃を受け、後に彼自身が書く『天文学史』の基礎をこの時築きます。宇宙に重力があるように、人間社会にも共通の「引力(原理)」があるはずだと確信した期間です。
- フランス・イタリア文学: ヴォルテールなどの密輸本を読み、広いヨーロッパ視野を獲得。
3. エディンバラ公開講義時代(1748〜1751年:25〜28歳)
【テーマ】修辞学・法理学の開花と、生涯の親友ヒュームとの出会い
オックスフォードを去り、地元で有料の公開講義を開くと、その博学さと分かりやすさで大評判となります。
学んだ学問(教えた)
- 修辞学・文学: 言葉が人間に与える心理的影響を研究。これが後の『道徳感情論』の文章表現の基礎になります。
- 法理学(Jurisprudence): ローマ法をベースに、国家がどのように法律を進化させてきたかという「社会発展段階説」を初めて講義しました。
- フランス・イタリア文学: ヴォルテールなどの密輸本を読み、広いヨーロッパ視野を獲得。
重要な人材交流と影響
- デヴィッド・ヒューム(哲学者): スミスの人生で最も重要な人物です。ヒュームの『人間本性論』に傾倒していたスミスは、彼と直接出会い、生涯の親友となります。ヒュームの「人間は理性ではなく感情(情念)で動く」という懐疑主義・人間観が、スミスの思想の遺伝子となりました。
4. グラスゴー大学教授時代(1751〜1764年:28〜41歳)
【テーマ】『道徳感情論』の出版と、技術革新(ワット)の目撃
母校の教授として凱旋したこの時期は、スミスの知的エネルギーが最も爆発した黄金期です。ここで法律、道徳、経済、技術が一本の線で繋がります。
学んだ学問(教えた)
- 道徳哲学(倫理学・政治学): 1759年に『道徳感情論』として結実。人間の「共感(シンパシー)」のメカニズムを解明。
- 法理学(Jurisprudence): ローマ法をベースに、国家がどのように法律を進化させてきたかという「社会発展段階説」を初めて講義しました。
- フランス・イタリア文学: ヴォルテールなどの密輸本を読み、広いヨーロッパ視野を獲得。
重要な人材交流と影響
- ジェームズ・ワット(蒸気機関の改良者):特権組合に営業を妨害されていたワットを、スミスら大学教授会が大学内に囲い込んで保護しました。スミスはワットの作業場に何度も足を運び、「分業の凄まじい効果」と「国家や組合による規制がいかに才能の邪魔をするか」を、産業革命の現場の熱気とともにリアルタイムで学び取りました。
- グラスゴーの商人たち:当時、タバコ貿易などで巨万の富を築いていた実業家たちと「政治経済クラブ」を結成。学問の中だけでなく、実際のビジネス(市場)がどう動いているかの生きたデータを商人たちからヒアリングしていました。
5. ヨーロッパ旅行・渡欧時代(1764〜1766年:41〜43歳)
【テーマ】『フランス啓蒙思想と「医学・解剖学的システム論(重農主義)」の吸収
大学を退官し、貴族の若き公爵の家庭教師としてフランスやスイスを巡ります。この2年間で、スミスの視野は「一国の学問」から「世界秩序・国家体制」へと完全にスケールアップしました。
学んだ学問(教えた)
- 重農主義(経済学): 農業こそが富の源泉であり、経済は自然に循環するというシステム論。
- 生理学・解剖学の視点: 経済を「生きた身体の血流」として捉えるアプローチ。
重要な人材交流と影響
- ヴォルテール(思想家):ジュネーヴ近くで面会。「ヨーロッパで最も偉大な知識人」と直接議論を交わし、宗教の不寛容や国家の絶対権力に対する批判的精神を共有しました。
- フランソワ・ケネー(ルイ15世の宮廷医・経済学者): ケネーは医師の視点から、国家の経済を「血液の循環」に見立てた『経済表』を作っていました。スミスは彼から「国家が余計な介入をしなければ、経済は人体のように自律的に回復・循環する(=のちの見えざる手)」という真理を強く吸収しました。
6. 帰国・執筆から晩年(1766〜1790年:43〜67歳)
【テーマ】『国富論』の誕生、国家実務への参画、そして「思想の完成」
フランスから帰国後、公爵から生涯支給される莫大な年金を原資に、故郷で10年間引きこもって『国富論』(1776年)を書き上げます。
学んだ学問(実践した)
- 実務的財政学・税制: 晩年、スコットランドの税関委員に就任。自らが『国富論』で書いた「自由貿易の理想」と、国家の「税収という現実」のギャップを現場で実務として学び、法と行政のあり方をさらに深化させました。
重要な人材交流と影響
- グラスゴー大学の学生・教職員たち: 1787年、かつて教授だった母校に最高名誉職である「学長(名誉総長)」として迎えられます。若い世代の学術を見守りながら、自らの生涯の思想を整理する時間を過ごしました。
そして亡くなる1790年、これらすべての「法・科学・技術・医学・経済」の経験をすべて注ぎ込み、利己心が行き過ぎた社会のブレーキとなる道徳のあり方を加筆した『道徳感情論(第6版・完成版)』を出版し、そのわずか数ヶ月後に息を引き取りました。
