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平将門の乱の真実の解明:現在分かる客観的な状況証拠と疑問点

茨城VRツアーでは、最初に平将門ゆかりの地というページを作成し、現在までに茨城県内の約65ヶ所を取材しました。そのうち、登録されているのは55ヶ所、10件ほど未処理で新たに取材する場所もあります。取材した65ヶ所は、平将門を祀る神社や寺、供養塔や墓や記念碑、平将門及び平将門の敵方も含む縁者のゆかりの地、「将門記」に出てくる戦場等も含まれます。まず、平将門が無くなってから1000千年以上経つにも関わらずこれらの場所があり、そこに説明板があることは、その説明が正しいかは別として客観的な証拠です。また、これらの場所の説明で平将門が極悪人であるものとして紹介しているものはありません。


最初の疑問点とその後の調査における客観的な事実と疑問点

平将門を討って、将門の乱を終結した人物は、「将門記」では、「平貞盛」と下野国の「藤原秀郷」です。「平貞盛」の父は、「平国香」で、将門の父「平良将」の兄です。「貞盛」と「将門」は、従兄弟になります。正確な生誕は不明ですが、将門の方が年上になっています。ここで、新たに気が付いてことは、勝者である平貞盛個人のゆかりの地が、取材した65件の中に1件もないことです。平貞盛は、父の本拠地は、常陸国真壁郡石田庄で今の筑西市東石田です。ここに育ち、父が国香が将門との戦いに敗れ、死んで京から戻った場所でもあります。筑西市東石田には、国香の墓の候補地が、農家の庭先の石板が複数ある場所、そこから150メール程離れた場所に丸い石がある場所です。常陸国の大掾(3番目の官職)を務めた人物の墓とは思えません。それらの場所の、大通りにある公民館の脇に、「平国香」という筑西市教育委員会の説明板があり、国香がこの地一帯を開拓し貢献したこと、平将門に攻められ亡くなったことが書かれていますが、その説明板にも「平貞盛」文字はありません。貞盛は、大反乱終結の立役者であり、常陸国内や実家付近に何らかの説明板があるはずですが、何もないこと自体も状況証拠として客観的な事実です。

この事実は、最初の疑問だったですが、調査の結果、分かったのが父の国香が重税を課す国府の手先だったことです。また、将門の父の良将の土地(下総国)を違法に乗っ取り、そこの農民に重税が課せられたことです。貞盛もそれを引継ぎ、同様な行為を行っていたこと、また、私的な戦いを何度も大なったこと地域の人々は知っていたということです。ちなみに、私闘は、養老律令で重罪であり、延喜格でも極刑とされており、犯罪者です。


平将門の乱の真実を明らかにするために重要な疑問点

平将門の乱の真相がわからない理由は、刑事事件における客観的な証拠がないことです。古代の法律は、国を維持することも目的としているため、メインは刑法と行政法でした。平安時代にも、養老律令や延喜格が今の刑法や行政法にあたり、刑法の基本の刑罰の種類は、平安時代でも今とほとんど同じです。刑事事件には、客観的な証拠が重視されますがは、「疑わしきは罰せず」という「無罪推定の原則」があいます。これは冤罪をおこさないためです。ローマ法(紀元前451年〜紀元後534)の後期にローマ法大全に出てくる原則です。現在、西洋の刑法では当たり前の話ですが、驚くことに養老律令にも完全な「無罪推定の原則」でないですが、冤罪を防止するため「疑罪(ぎざい)」の規定があり、証拠があいまいで白黒つけられない場合、完全無罪とするのではなく、「確証がないから一番重い死刑・流刑は科さない代わりに、罰金を払って解決とする」という、実質的な減刑・救済措置をとっていました。

平安時代は、記録媒体として神や木に書いた記録したありません。そのため保存が難しいという問題があります。また、改ざん、故意に消すことも可能です。


第一の問題点:証拠が網媒体であること

平安時代は、記録媒体として神や木に書いた記録したありません。そのため保存が難しいという問題があります。また、改ざん、故意に消すことも可能です。法隆寺の正倉院は、世界の奇跡です。反乱があったことを証明する必要なのは、以下汚点です。

1.常陸国府に将門が言った要件は、将門記に記載されている天慶二年一月二十一日の常陸国府襲撃の真実

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