ホーム下野国府の襲撃・藤原貞盛と平将門の下野国の合戦は無かった! 下野国府の襲撃・藤原貞盛と平将門の下野国の合戦は無かった! 平将門と藤原秀郷・平貞盛の下野の合戦は無かった! 将門記記載の藤原秀郷と平将門の下総の合戦の地理的・ルート的な矛盾 下野の戦闘は、状況的に下総国から下野国に入ったあたりです。下野国の国府(現在の栃木市)までは、平地であり高い山はありません。また、ルート的には、2パターンが考えられます。 そもそも合戦の状況説明は、地理的状況において破綻している話であり、捏造であることは明白です。地元の人間であれば将門記に書かれた事に疑問をもち、造られた話だと理解できるはずです。4000もの大軍が実際に居たのであれば、山に登らなくても、認識する事は可能です。 以下文書は「将門記」から秀郷らの挙兵、下野の合戦現代語訳文の抜粋です。 貞盛ならびに押領使藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らは、四千余人の兵を素早く動員して合戦しようとした。新皇は大いに驚き、(天慶三年)二月一日には隋兵を率いて敵の地、下野の方に国境を越えて向かった。その時、新皇将門の前陣は、まだ敵の所在を知らなかった。副将軍玄茂(はるもち)が陣頭、経明(つねあき)や遂高(かつたか)らが後陣では、敵の所在を探り当てていた。事実かどうかを確かめようと、高い山に登って遥かに北方を見ると、実際に敵がいた。だいたいの様子では四千余人ばかりであった。 (1)戦いの場所の推定ルート 下総国から下野国に至る主なルートです。 坂東市・常総市(下総国)→筑西市(常陸国)→下野市(下野国)→栃木市(下野国府跡) 坂東市(下総国・石井の営所)・常総市(下総国・豊田館跡)→結城市(下総国)→栃木市(下野国 標高44m 思川 (2)下総国本陣から戦いの場所の推定標高 上記文章は、下総国方面から下野国方面に向かい、下野国に入ったあたりで戦闘がったことが記載されています。 地元の人間であれば、高い山がないのはすぐわかります。以下は、双方が出陣した場所の標高です。両陣ともに東側に川が流れており、その川の標高を表示しています。川は異なりますがいずれに茨城県で利根川に合流します。この間は、関東平野であり、山が存在しないのです。 常総市・豊田館跡(下総国):標高22m 鬼怒川水面18m 栃木市・下野国府(上野国):標高44m 思川水面40m 下記掲載の地形図は現在の常総市、坂東市を入れた写真です。画像の中央は下妻市になります。 画像左下には標高が表示されており、20.6mという事が分かります。この画像の通り高い山の存在は確認する事が出来ません。 平将門の最期 将門の最期:「将門記」現代語訳から その際、新皇が本陣に帰り向かおうとして風下に立つことになったので、貞盛・秀郷らは身命を棄てて、力の限り合戦した。この時、新皇は甲冑を着て騎馬より早く動き自ら(先頭に立って)戦った。時に目の前に天罰が下り、馬は風のように飛ぶ歩みを忘れ、人(新皇)は梨老のような優れた武術を失った。新皇はいつのまにか神仏の射た鏑矢に当たって、ついに(往昔)蚩尤が黄帝と涿鹿の野に戦って敗れたように、一人さびしく滅び去ったのである。かつて天下に将軍自ら討ち死にを遂げたというようなことはなかった。誰が押し量り得たであろうか。わずかな過ちを糺さなかったために、(このように)大きな災厄至ることになろうとは。(また、将門のように)私的な勢力を広げて、まさに天皇の地位を奪おうとするとは。そのゆえに(朝廷は)朱雲のような人を招き寄せて、長鯢の首を切り落としたのである。[漢書に言うには、朱雲は悪人である。昔、朱雲は尚方の(斬馬の)剣を請いて、人の頚をとったのである。]ただちに下野の国より解文を副えて、同(天慶三)年四月二十五日にその首を(朝廷に)さし上げた。 将門への衰傷:「将門記」現代語訳から ただ、常陸介(藤原)維幾朝臣と交替使いは幸いに、好運の巡り合わせを身に受けて、その(二月)十五日になって任国の常陸の館に帰ることとなった。それはたとえて言えば、鷹の前の雉が野原に放たれ、俎の上の魚が海の浦に帰るようなものである。昨日までは、ずっと不運な長老の(ように)恨みを抱いていたのが、今は新たに常陸介に戻るという恩恵を受けたのである。およそ、新皇はその名を失い、身を滅ぼすこととなったが、それは全て武蔵権守興世王、常陸介藤原玄茂が行ったことによるのである。
下野の戦闘は、状況的に下総国から下野国に入ったあたりです。下野国の国府(現在の栃木市)までは、平地であり高い山はありません。また、ルート的には、2パターンが考えられます。
そもそも合戦の状況説明は、地理的状況において破綻している話であり、捏造であることは明白です。地元の人間であれば将門記に書かれた事に疑問をもち、造られた話だと理解できるはずです。4000もの大軍が実際に居たのであれば、山に登らなくても、認識する事は可能です。
以下文書は「将門記」から秀郷らの挙兵、下野の合戦現代語訳文の抜粋です。
貞盛ならびに押領使藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らは、四千余人の兵を素早く動員して合戦しようとした。新皇は大いに驚き、(天慶三年)二月一日には隋兵を率いて敵の地、下野の方に国境を越えて向かった。
その時、新皇将門の前陣は、まだ敵の所在を知らなかった。副将軍玄茂(はるもち)が陣頭、経明(つねあき)や遂高(かつたか)らが後陣では、敵の所在を探り当てていた。事実かどうかを確かめようと、高い山に登って遥かに北方を見ると、実際に敵がいた。だいたいの様子では四千余人ばかりであった。